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2014-10-11

http://anond.hatelabo.jp/20141011215041

超自我が強すぎて、攻撃性が他人にも向くんでしょ

清潔にできていなければ価値がないし、抵抗感があるし、罪悪感や不安が生じるんだよ

また、他人が清潔でない場合も、自分が清潔でない場合と同じくらいの感情が生起する

一種の投影や同一視が生じるんだろうね

痛い行動してる人を見て「うわ、何やってんだよ、気持ち悪いなあ」と思ってしまうのと同じ

あとは、怒りが恨みに代わってる可能性もあるよね

清潔であることそのものではなく、「ルールを守ること」とかの別の事が背後にあるとか

「どうして、私は守ってるのに他の人は守らないんだ!」と思うわけだ

裏を返せば、「自分けがルールを守れているんだ!」という道徳的な優越感かも知れんが

2014-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20140518223621

両親の超自我が、イデオロギーに反抗するものである場合

子の超自我は、現実への適応を難しくする

道徳の系譜は途絶え、完全性への志向は消え去り、人は堕落する

その先には引きこもり自殺存在する

超自我の峻厳さ

超自我の峻厳さは、罰から生じるのではなく、赦しから生まれる

許容的な良心では、攻撃性は自身にしか向かわない

どんな悪い事をしても"赦されて"しまうことで、自身を自身で許せなくなり、それは尽きぬ超自我の、自己への残忍で危険断罪性格の源泉となる

2013-06-19

快楽原則に「彼岸」などない

快楽原則彼岸に死の欲道や涅槃原則があるわけではない

超自我現実原則個体適応的な側面を担い

現実場面で行える最大幸福を支持するものであるならば

主観世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則彼岸など見出せるもの

快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える

個体としての人間はその主観視点において、快楽原則奴隷とならざるを得ない

原初の快楽原則現実原則ベールかぶり超自我指導を受けるが

それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す

その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる

それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる

しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない

矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える

すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる

先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある

けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない

さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ

快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである

閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ

「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実まり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と

現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳能力の制限というものが、欲求断念を生み出している

欲求の断念は超自我不寛容を生み出し、その不寛容涅槃規則を生み出す

であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる

「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる

また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう

かくして、涅槃原則とは父と母を打倒し、しかして母と父をその原動力とする極めて逆説的な構造となっている

2011-03-09

性欲

彼女がいる。すげえかわいい性格最高。ちんぽがあるから好きなのかな。ちんぽがないときみは離れちゃうのかな。ちんぽなんてなかったらいいのに。でも、なかったらなかったでさびしいかな。ちんぽよ。生=性か。フロイト先生ってかしこいよなあ。死にたい。これがタナトス超自我??

2010-06-11

イドと超自我が殴りあいながら俺のハンドルを奪い合ってて、テンションがおかしい。

自我は寝てる。頼むから仕事しろ。

2009-11-08

アフロディズニー』に添えて。

人は生まれながらにして猛獣使いである。

如何に自らの精神に巣食う獣と対峙し、飼い馴らすか。

というのが孔子の教え。

精神分析学では「超自我」といった解釈で説明され、

「大人」というのは「超自我を持った人」、

自分の意志とは無関係に言動がコントロール出来る状態を指す。

つまり「大人」とは道化であるが、「子供」と常に、そして既に接近している。

童歌の妙はそこに有ると思うし、

芸術芸能は「大人」と「子供」を撹乱させる事によって起こりうる。

子供が大人達説教を説き、大人達子供に詫びる。

古典的な作法だが、未だにワタシはそれが見てみたいのだ。

こんなご時世だからこそね。

               〜T.H.

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