はてなキーワード: 異端とは
http://3500131221.blog120.fc2.com/blog-entry-96.html
を見て思ったこと。
鯨の肉は美味いし捕鯨賛成派なんだが、捕鯨を正当化出来るかというと難しい。そもそも正当化という行為が、倫理問題の俎上に乗っかることだから、その俎上での敗北は死刑賛成論と同じで目に見えている。
従って、ダブスタになるのは仕方が無いのだ。「Aがやってるんだから、俺だってやっていい」「俺らが批判されるなら、Aも批判されるべき。Aは批判されていないので、俺らは批判される謂れはない。」というのは、屁理屈としては成り立ってるんだけれども、「従って~してよい」といった、行動を正当化する為の規範としてはアウト。これは、「エチオピアがスーダンに侵攻しているんだから、中国は韓国に攻め入ってよい。エチオピアが国際的に非難されているとは言い難いので、中国の侵攻も非難される謂れはない。」という例で考えてみれば、如何にぶっ飛んでるかが良く分かる。
ただ、重要なのは、ダブスタを批判することではなくて、そもそもなぜダブスタにならざるを得ないか、ということを考えてみることだろう。翻って我々の日常を省みてみれば、我々の意識しない常々の営みというものが、如何に危うい非倫理の上に成り立っているかが良く分かる。
近代は、そういう非倫理的な部分、意識されてこなかった「伝統」や「慣習」を日の元に暴き出してきた。
そうして近代において、倫理は引きずり出してきた相手に向かって問う。「自分が正しいと思うならば、それは客観的な倫理に適っている筈だ」と。これは、言い換えれば「自分が正しいと思うならば、拷問にも耐えれるはずだ」という名の下に異端審判をやってきた中世末期と、形式的には変わるところがない。
つまり、倫理の元にさらけ出されたが最期、前倫理的な慣習や伝統というのは、屈するか、諦めてダブスタを取るか、感情に訴えかける位しかないのであって、こんなものはハナから無理な戦いなのだ。
したがって、重要なのは、反対派も賛成派も、この構図、「倫理様には適わない」という厳然たる事実を論を立てるときに意識し、踏まえた上で話をすることであって、特にそうでもしなきゃ、賛成派は、反対派と屁理屈で戯れ、水掛け論をやっているつもりで、いつの間にか駆逐されていくことだろう。
君は分かっていないよ。僕は元増田の気持ちがよく分かる。「そんなに情熱的な恋愛する人ばかりでもないよ」とか、そういう問題じゃないんだ。そもそも全くわかないんだ、そういう気持ちが。「性的に」好きだという気持ちが。アセクシャル(まあ元増田がそうかはしらないが多分それに近くはある)ってそういうものなんだよ。
情熱さの多さ少なさじゃないんだ。
性的に好きにならないから、だからそもそも『付き合う』という概念が分からないともいえる。
だから、元増田の言う「恋愛感情がわかない」「性欲がない」はすごく解るけど、だから即「付き合う必要がない」って結論になるのは、いろんな付き合うがあるのを知らないんじゃないのかな、って思う。
彼氏がいる人みんなが、彼氏が欲しくて仕方がなかったわけじゃない。
燃えるような恋をして、性欲を満たすのが、彼氏の役目とは限らない。
自分の人生の近くで、自分以外の人のこともちょっと大切に思って、一緒に緩やかに助け合いながら人生のイベントを過ごしていこうよっていうのって、結局は友情に近い親密さだと思う。
だからそもそも、性的な「好き」が分からない者には、「特定の誰かとカップルになり、ずっと暮らす契約をする・ずっと仲良くする約束を交わす」ということがまず分からない。逆に言うと、君はそういう発想が出てくる時点で、やはり恋が前提にある。
恋でなければそもそも、「付き合う」だの「カップル」だのという言葉にならないし、恋でなければなおさらそうする思いにかられることもない。そもそも二人でずっと付き合っていくと約束あるいは契約する意味はどこにある?君が異性愛者ならば、同性の友人同士でそんな事をするか?君がたまたま異端で、するとしても、そこで紹介しているようなカップルは、そんなことはしないだろう。
単に「恋の情熱度が薄まっていて、家族により近い」というだけで、基本的には恋愛であることに相違ないのだ。だからこそ「付き合う」という概念が出てくる。「友情に近い親密さ」と言っていても、基本的にはやはり「恋愛」なのだ。その「薄まってはいても基本的に・あるいは出発は性愛」というのが、結局大きい。恋愛だからこそ「二人だけで」いたいと思うのだ。
そこからして僕らには既に「分からない」のだ。
アセクにとって「情熱的さの濃さ・薄さ」は問題ではない。それがいくら薄まろうが、恋である以上、分からない。
君こそ恋愛至上主義に染まりきっているんだよ。
聖母マリア・十二使徒・パリサイ派・イスカリオテのユダ・十字架刑・キリストの復活・マグダラのマリア・タルソのパウロ・新約聖書・ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア教会・ローマ教皇・カノッサの屈辱・十字軍・ラテン帝国・ヴァチカン市国・カトリック・プロテスタント・免罪符・マルチンルター・カルヴァン・イエズス会・フランシスコザビエル・コンキスタドール・ピサロ・正教会・東ローマ帝国・ロシア帝国・イコン・英国国教会・コプト教・異端・魔女裁判・ジャンヌダルク・グノーシス主義・ ナグ・ハマディ文書・トマスの福音書・マニ教・ネストリウス派・景教・カタリ派・モルモン教・エホバの証人
http://anond.hatelabo.jp/20090910183829
元増だけど、幼児洗礼というか、それこそ乳児の時からの洗礼だから、一神教的な考え方はやっぱり結構強かったんです。仏教や哲学を学んで、神はいろんな形を取るという理解に今はいます。神的なものの表れをある人から見ると一神教的神になったり、仏になったり、神社の神様になったりという感じ。都合良いというか、いい加減というか。でも、はじめに僕の肩を叩いてくれたのはキリストさん、という縁はあります。彼を知ったからこそ、マザーテレサだけでなく、八幡さんや空海さんや一休さんに出会うことができたと思ってます。
で多分増田もわかっていると思うけど、僕が前の日記で言及したのは、その「一神教的」な神のことです。
曰く言い難いけれど、ちょっと、抽象的な感じがするんですよこの一神教というのは。
>>しかし、なんにせよ、アニミズム的な神道と一般的神や信仰とは異色の仏教とを、さらに神仏習合を経た
たぶんネット限定の話だけど。
少数派が攻撃的になってる気がする。
ていうか自分達が少数派であるという自覚を持たなくなった気がする。
マイノリティな嗜好や思想を持つ人って、自分達が異端なのを自覚して迫害されないようにひっそり生きてたと思うんだけど、最近やたらと「多数派はおかしい。自分達の嗜好思想のほうが正常だ」って主張する少数派が多いように見える。
一応私もある考え方においてその少数派に属してるんだけど、その少数派の集まりで(言っちゃうと2chのスレなんだけど)多数派のことをおかしいだの異常だの罵る人が大勢いた。
その人達に対して「そうはいっても現実では私達のほうが少数派であって、世間では多数派=正しいという認識だから周りから見たら異常なのはこっちだよ」ってたしなめた人がいたんだけど、「レッテル貼るな!私達に我慢しろっていうのか!」ってみんな怒っちゃって、結局その人は多数派の工作員扱いされてた。
そりゃ誰だって自分の考えは正しいと思ってる。否定されるのもイヤだと思う。
でも自分の考えを客観的に見たときに、それが世間に受け入れられるかどうかってのもちゃんと認識しとくべきだと思う。
ネットだと自分と同じ考えの人間が集まりやすいから、そのコミュニティの中にいたら自分と同じ考えの人の意見しか聞こえてこない。
だから自分達が少数派である自覚がなくなったり、もしくは少数派だとしても思ったより数が多いんじゃないかという錯覚に陥るのかなと思った。
まぁそもそも、少数派多数派関係なしに自分と違う考えの人を攻撃するのはどうかと思うけど
でもネットじゃそれも仕方のないことなんだろうな。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1293536.html
日の丸を切って貼ってした民主党旗で激昂している人たちがいる。
「やってもうた」という話しではなく一部にせよ意図があった行動であるのだとは思う。
それに案の定釣られたのは恐らくは靖国問題がどうの南京がどうのと騒いでいる人たちと同じ層だとおもわれるので、民主党の大多数の支持層とは最も離れたところにいるのではないかと思われる。
彼らが騒げば騒ぐほど、おそらくは逆効果だ。
日の丸どうこうでそこまで拒否反応を示すその固執っぷりは傍からみれば奇妙にも感じる。旗だけにな。
+++
そもそも日の丸が加工されることについてなぜここまで神経質になるのだろうか?
国旗だからという回答では不十分だ。
断面が葵の御紋に似てるからという理由でキュウリを食べなかったり、包丁を入れるのを嫌がった武士にも似たなにかがある。
時が経ってしまうとバカらしいその行為も当時の当事者にしてみればいたって真剣な行為である。
そこには葵の御紋を通した象徴への崇拝がある。
それと同様に日の丸を国家の具象として忠誠を誓っているのだとしたらすばらしい事だ。
だがそれは他人にまで強いるのはいかがなものか。
キュウリまでも尊ぶような武士の前で葵の御紋を凌辱するのは明らかな挑発行為ではある。
だが、キュウリを食ったからといって町民を切り捨てて回る武士を善しとするならば国とは一体なんであろうかと疑問に思わざるを得ない。
あくまでバランスの問題だ。
葵の御紋の凌辱の裏に造反の意図をみたのであれば斬り捨てたほうがよいこともあるだろう。
だがご法度でキュウリを食すことを禁ずと規定されだしたりしたらいよいよもって末期である。
日の丸に忠誠を誓えと強いてまわる様は魂までも国家に支配されすぎだ。
+++
最近つかわれている「売国奴」という言葉も、むしろこういう事を連呼する連中こそが成長を阻害し、国益を損ねているのではないかと評価せざるを得ない。
保守的にやってうまくいかなくなった理由を内部に原因を探り粛清してまわるのは取り巻く環境が激変している現在においてはあまり意味がない。
忠誠や尊敬を法律でいくら規定したところですべての人が同じ価値観になるわけもあるまい。
日の丸を切ったり貼ったりした行動に挑発された人たちは価値観の多様性に対する拒絶、拒否反応をしめした。
自分と異端にいる人たちの考え方や行動を許容できなくなっている。
先に進もうとするひと、その場に居座ろうとする人。
どちらが良い結果になるかわからない。
それぞれが正しいと思ってぶつかるのだろう。
ただ情勢をみるに保守派は不利なようだ。
主張や考えが通らなかったといって極端な行動などに出てくる人たちがでてこなければいいがと若干心配ではある。
まるで終戦間際だな。
+++
余談。
英国国旗のユニオンジャックなどはイングランド、スコットランド、アイルランドの旗印を切り貼りしてつくられたものだ。切り貼りというと語感が悪いがパッチワークというとあら不思議!
日本でも家紋などは合成紋などあわせてつくられたものも少なくない・・・。
今回も切ったり貼ったりした行為がすなわち問題というわけでなく、それが恣意的にまったく違う意味合いのものに加工されたのが問題なのだろう。
公の場でそれが掲示されたのはやはり少なからぬ意図があるといわれてもしかたがないことだろう。
生臭いね。
簡単に言うと、「女として男の性的欲求の対象になる」ということに対して「気持ち悪い」って言っちゃう感じ。
あと女が嫌い。どう嫌いかというと裏で陰口根回ししちゃうとこが嫌い。はっきりしないとこも嫌い。あとスイーツ(笑)。愚痴っぽいのはギリギリ許す。進歩しなかったら叩っ斬る。
女が嫌いだから、性同一性障害ではありません。
この場合は自分が男だと感じているなら性同一性障害ということです。
男が嫌い、女が嫌いというのは関係の無いことです。
悪い言い方ですが、レイプや性的虐待を受けた方でも思いそうですね。
だからといって性同一性障害では無いのは明らかです。
自分の性別に悩み始めたきっかけは、どこかで聞いた「オカズにできるなら性癖だよね」っていう言葉。元々抵抗なかったし腐女子だし、でオナネタはいつも男同士のアレコレだったわけで、「あーなるほどなー」って思った。
(レズビアン/ビアンと書くべきところですが、男性の妄想の同性愛なのでレズと書きました。)
だけど周りの腐女子は普通に男女恋愛してるし、結婚出産してる人も多い。そういうことに大して「ありえん(笑)」てなっちゃう自分はもしかして異端なのか?と思い始める。
異端ではありません。
腐女子がよく考えることです。
自分が性同一性障害ではないのか?とか、同性愛に理解がある!とか。
まったく性同一性障害ではありませんし、同性愛にも理解が無いです。
ここに書いても解決するわけじゃないんだが、どっかで誰かに聞いて欲しかったので書かせてもらった。一回長文が消えて泣いたのは内緒だ。
増田で書いてくれてありがとうございます。
自分は性同一性障害(って言い方はあまり好きじゃないが)というやつなのか?と悩んでいる俺戸籍上女。腐女子。
簡単に言うと、「女として男の性的欲求の対象になる」ということに対して「気持ち悪い」って言っちゃう感じ。
あと女が嫌い。どう嫌いかというと裏で陰口根回ししちゃうとこが嫌い。はっきりしないとこも嫌い。あとスイーツ(笑)。愚痴っぽいのはギリギリ許す。進歩しなかったら叩っ斬る。
自分の性別に悩み始めたきっかけは、どこかで聞いた「オカズにできるなら性癖だよね」っていう言葉。元々抵抗なかったし腐女子だし、でオナネタはいつも男同士のアレコレだったわけで、「あーなるほどなー」って思った。
だけど周りの腐女子は普通に男女恋愛してるし、結婚出産してる人も多い。そういうことに大して「ありえん(笑)」てなっちゃう自分はもしかして異端なのか?と思い始める。
昔から時々「男になりたい」とは思ってたけど、いやまあ生理がつらいっていうのもあるけど、それで普通の女は「まんこ取ってちんこ付けたい」って思うのか?本気で考えて戸籍上の性別の変更方法や手術の費用をググったりするのか?(とんでもない値段で絶望したが)
女らしい格好は嫌いじゃない。ミニスカニーソ余裕。だけどおっぱいはいらん。ガチでいらん。誰かもらってくれこのC70。
男になりたい=女と付き合いたいのか?そんなわけない。付き合うなら男がいい。
単に「女が嫌い」だけで世間の女性や腐女子はここまで真剣に悩むもんなのか?俺が異端なのか?
こんなことばっかり考えてるおかげで最近機嫌が悪くて友人に八つ当たりしてしまった。申し訳なさすぎる。
理想は無性なんだがどうしてもそうはいかないのが法律というやつなので(爆発しろ!)、じゃあ絶対どっちかだったら、と考えると女は嫌だ。というか異性愛に抵抗があるのが問題なのかもしれない。
ここに書いても解決するわけじゃないんだが、どっかで誰かに聞いて欲しかったので書かせてもらった。一回長文が消えて泣いたのは内緒だ。
増田は言いたいことを言う場所であって、不十分な情報の揚げ足取りや終わらない議論のための場所じゃないと勝手に思っているので個人宛のレスはしない。
否定する人に。そりゃ厨二病かもしれんしにわかかもしれん(思春期はとうに過ぎたが)。それは自分も思ってる。だから迷ってるわけで。
結局のところ正確な判断は一部のマトモな医者しかできないと思うので、決め付けるのは無意味だと思うよ。
否定しない人に。話を聞いてくれてありがとう。
別に医者にいけば自分の主張が全て認められるとか甘いことは思ってない。反応は医者によってそれぞれだろ。ここみたいな全否定とかもあるかもしれんがそれはそれで。
増田に書いたのは肯定とか同情されたかったわけでもないし、否定されたかったからでもない。単に誰かに聞いてほしかっただけ。
とりあえず腐女子と性別についての話を嫌ってる人が多いのは理解した。あとエスパーも。まあそんなもんか。
ブコメに書いてくれてる人がいるけど、やっぱりクリニックに行ってみるのが一番か。医者嫌いなんでそういうとこ苦手なんだが。
幸い近所にあるらしいので、決心が付いたら行ってくる…と思う。
ブコメ全部読んでます。ありがとうございます。
中国のウィグル人の差別は犯罪行為、アラーがかならず救いにこられる、と。
トルキスタン・イスラム党戦闘隊指揮官(サイフ・アッラー)は、中国内部(広東)並びに東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のウルムチにおける我がムスリム共同体に対する共産主義者による虐殺に抗議し、次の声明をだした。
中国の共産主義者達は、東トルキスタンを占領し、以来昼夜を問わず公然非公然に東トルキスタンの住民を集団的に虐殺してきた。
彼等の野蛮、残忍な犯罪行為は日に日に大きくなった。就職させるなどとさまざまな口実を設けて、青年男女を強制的に中国へ送り出す。これも犯罪行為のひとつである。中国へ移送すると、(中国人は)彼等を奴隷として使い、ロバのように扱うのである。
最近中国人が広東の電子ゲーム製作会社でトルキスタン人(ウイグル人)労働者を虐殺した。これは、彼等の犯罪を物語る有力な証拠である。事件はトルキスタン人(ウイグル人)と中国人の喧嘩に端を発する。
本来であれば、間違ったことをされたと考える側が告訴し、問題が法廷で処置されるべきであった。
広東の企業で200名が殺され、400名が重傷を負った
しかるに中国人は、常習的にトルキスタン人(ウイグル人)を虐待しているが故に、そのような手続きをとらなかった。
その代りに彼等は中国人従業員6000名に応援を求め、警察に応援を求め、そこいらの中国人に手当り次第応援を求めたのである。この連中は、工場のトルキスタン人労働者800名に襲いかかった。そして、彼等はトルキスタン人200名を殺し、400名に重傷を負わせたのである。
ウイグルの被害は死傷者3000名を越える、2000名以上が投獄された
子供達を殺された東トルキスタンの住民(新疆のウイグル人)は、中国政府に殺人者共を裁判にかけるように求めた。
しかし政府は一顧だにせず、住民の願いをまともに扱わなかった。住民は政府に報復するためやむなく立ち上がったのである。彼等は中国人に報復しょうとした。彼等と中国人の間に激しい戦いが生起した。中国の警察は加害者の側に立ち、しいたげられ追害されている人々を虐殺した。
1000人を越える人が殺され、2000人以上が傷つけられ、2000人を越える人が暗黒の刑務所へぶちこまれたのである。
ムスリム・トルキスタン人に守護者もいなければ友人もいないなどとほざくではない。アッラーが彼等の守護者であり友人である。アッラーは生きておられる。
永遠である。(ウイグル人が)応援を求めれば、必ずこたえられる。彼等が助けを求めれば、必ず認めて下さる。アッラーは御意志により、中国人迫害者共を一瞬のうちに抹殺することも、おできになる。
このムスリム住民の背後には、彼等のため中国人に報復する人々が待機していることを知れ。
アッラーの軍勢がすぐに汝らに襲いかかることを覚えておくがよい。
中国人に告ぐ。
我等のムスリム同胞に汝等が如何に迫害を強め、残忍性を増し、殺しまくり、拷問法を工夫し、同胞拷問を専らにしようとも、汝等は彼等を奴隷にすることはできない。誇り高きトルキスタン(新疆)の住民は遠からず立ち上り、汝等を撃ち、痛い目にあわせる。汝等を倒すためにセットされた遅延信管付き爆弾は間もなく時間がくる。
おお、勇敢なるムジャヒディンよ。おお、東トルキスタン(新疆)の若者達よ、立ち上れ。アッラーの御名を奉じムスリム同胞を守れ。そして、いずこにあろうとも共産中国人を見つけ次第殺せ。彼等をしっかりと捕まえ、包囲し、伏撃せよ。アッラーは言われた。アッラーは言われた。私を助ける者を助けると。
私は、トルキスタン人(ウイグル人)同胞全員に呼びかける。君達の信仰へ戻れ。アッラーの御書(コーラン)と預言者のスンナをしっかりと胸に抱き、異端の教えを拒否し、間違った考えに染まったことを悔いあらため、我々の信仰とは矛盾する言葉と行動を棄てよ。
サタンが悪しき行いを如何に美しく飾ろうとも、悪しきものは放棄し、力の限り義務を果たして、アッラーの御前に近づくようにせよ。アッラーの教えの擁護に力を尽くせ。
アッラーは言われた。「人間共は、!)信じます!)と言いさえすれば、もうそれで試みられることはない、と考えているのか」(コーラン第29章2)と。アッラーのこの御言葉を心に留めよ。
我々はアッラーにお願いする。我々のすべての敵そして特に中国人を懲らしめて下さい。御手により或いは我々の手で苦しめて下さい。アッラーのための聖戦を、アッラーの敵に対する報復を。アーメン。
我々が全幅の信頼をおく預言者は、迫害される者の祈りとアッラーの間には何の乖離もないと言われた。我等全員、すべてを聴かれすべてを見られるアッラーに向かって、嘆願しようではないか。我々が、アッラーの地にアッラーの法をあまねく公布し、不信心者共の軛から残忍な迫害からアッラーのしもべを解き放つことができますように。
そのために、苦境から抜け出して我々の地で強い存在にして下さるように。日夜アッラーに祈り、お願いしようではないか。
最後に、この虐殺事件で殺された我等の男女同胞を許していただくようアッラーに祈り、彼等に天国の場所をお与えくださるようお願いしようではないか。これを授け、そのようにできるのは、アッラーなればなり…。
戦闘指揮官(IPT)サイフ・アッラー
欧米の人たちは、もめ事になってもなかなか謝らないと言われる。
.
だが、それは、裁判で不利を被らないために、
謝ることはしない、というだけの話であって、
そうでない場合には、ちゃんと彼らは謝る。
つまり、
のである。
というか、神に向かっては、むしろ日本人以上に謝る。びっくりするほどに。
これには、キリスト教文化圏独自の「懺悔」の考え方が、背景にある。
.
俺はこの懺悔の考え方が気にくわない。
キリスト教の教会に行って、いろいろと話を聴いたことがあるのだが、
何かにつけて懺悔するように言われた。
「あのー俺、信者ではないのに懺悔しないといけないんすかー?」
って訊いたら、
「懺悔しないと神罰がくだる」
だってさ。
.
たしかに、悪い事をした時に悔い改めることは大切かもしれないけど、
キリスト教の人たちは、ちょっと懺悔しすぎで、その点では卑屈な感じがする。
また、人に謝るのなら分かるが、神に謝る必要性もまったく理解できない。
.
この懺悔の思想の極端な例が、モルモン教(カトリックなどからは異端とされるキリスト教の一派)である。
詳しくは知らないのだが、モルモンの人たちは、人生全体が懺悔みたいなものであるようだ。
「そんなに懺悔して何が美味しいの?」
とモルモンの人に質問したことがあるが、
「死んだあとで救われ、最高の幸せを味わえる」
というような答えが返ってきた。
そもそも死語の生や生まれ変わりがあるかどうかも分からないというのに、
そんなことのために人生全部を棒に振るとは、見上げた根性である。
コンビニでマテリアルガールがかかっててふと思ったんだけど(-ガール、というsuffixがつくからといって中田ヤスタカの未発表曲じゃありません)マドンナのパパ・ドント・プリーチのときの教皇ってあのポーランドの人でよかったんだっけ。
別にことさらドミニコ会=説教者修道会に対するあてこすりの意図はないよな。全体としてカトリック信仰に喧嘩を売る意図はあまりに明瞭だけれど。しかしまあドミニコ会士の現代における等価物は人権団体とか環境団体のロビイストだろうな。同性愛者に権利を、とか無神論的自由主義、不可知論を標榜しながら、彼らのやってることは「キリスト教徒にふさわしい精神」の押し売りの現代版だ。そしてそれにすばやくすりよる金貸しども。カーボンエミッションの売買は現代の贖宥状そのものだ。マモンのかわりにガイアとか人権、健康とかを偶像崇拝するというのがこの「新しい中世」の堕落した教義らしいよ。そのうちタバコを吸ってると公共に対する毒ガス攻撃として異端審問にかけられる世の中にマジなりそう。タバコを吸うという愚行がいかに自然法の観点から正当化しがたいか、スコラ的に論証できるようになっとくと就職口に困らない、まっくらな未来が来るかも。下々はカルミナブラーナでも聴いてその日暮らしの楽しみを謳歌するすべを学んでおきましょう。(児ポがらみの論点はあえてスルーしますがもちろん関係ありありです)
別段在日外国人、在留外国人を差別する意図も意志もない、ということを宣言した上で、下記を記載したい。-2
過去を忘れろ、とは言わない。が、もう少し現実に目を向けたら、ということは指摘したい。
日本人の多くは別に在留外国人を差別したい、と積極的に加担しているわけではない(と考えている)
寧ろ、それが消極的な加担であるからこそ、敵意剥き出しで責任を問い続ける(しかもその多くは歴史的に断罪されるべきかどうか微妙かもしくはその謂れがない)ものであることも理解して頂きたい。
現在の姿勢ではその一番身近な社会において、異端視されることが少なくないのは止むを得ないとも思う。
ちょうどサンフランシスコにおいて日本人移民が「文化に馴染まない」「忠誠をアメリカではなく日本に誓っている」という理由で迫害され続けたこととも同じ線上にトレースできるかもしれない。
韓国・朝鮮系であり、その血を引き、文化を守っている、という点を必ずしも非難するつもりはない。
ただ、たびたび韓国において「戦前、戦中」の「対日協力者」が借り出され、財産が没収される、などという行為が行われていることで、在日外国人の方に多くの「偏見」や「違和感」を感じ、「反発する」ものがいても心情として不思議ではないだろう?
もしそれでも、日本・日本人が一方的に悪いのであれば、戦中に満州において朝鮮民族が中国民族の土地を奪い、迫害したことに対してどのように考えるのか。(もちろん日本民族も同様のことを行った。ただ、それを以って朝鮮民族が罪を免れることはないだろう)
それらの中国における賠償や責任については、日本政府が負っている。韓国政府でも朝鮮政府でもない。
で、日本人だってそんなものを断罪したいわけじゃない。
今だって一部の韓国企業の心無いコピーや北朝鮮の軍事的挑発行為に対して反感や軽蔑を覚えない人は少なくないだろう。
一方で、韓国文化や韓国料理などを愛好している人も決して少なくないはずだ。
そこで反日だなんだと、過去の遺物や一部極右の馬鹿どもの扇動に「乗っかって」どうする?
そんなものは日本人の大多数は無関心だし、「右も左も極端な主張」にはそう簡単に乗らないだろう。
(自分は中道右派だけど極右には組しないし、極左はもっとあり得ないけどね)
だからもう反日だなんだと、「少なくとも現状において」状況を悪化させるだけの言葉で遊ぶのは止めないか?
自分は今度の自身が編纂する詩誌(手製だけどね)には在日韓国人の人の詩も2編載せるよ。
韓国政府の行動に反発するのとは別の次元で「同じ日本に住むもの」として、その文芸の才は敬愛もするさ。
確かに入管法など、いろいろな法的問題はあると思う。
でもそれは「日本民族が日本人として日本に対して行う選択」であり、それを変えようと考えれば、「マジョリティたる日本民族」に対して共感を得られる言葉で語らない限り、「原則として多数が制定する法」である以上、変わらないと思わないか?_
反日の「日」が「日本帝国主義」だ、という言説もあるようだけど、今の日本人の多くは「帝国主義」だなんて考えてもいないし、そもそもその考え方自体に共感しないだろう。
声を上げることは決して間違っているとは思わない。が、その方法や選ぶべき言葉は決して適切だとは思えない。
それが哲学論争や政治学論争という狭いアカデミズムの中で行われる言葉ならいいだろう。
でも、決していま行われているここでの罵倒合戦はそんなものじゃないだろう?
それならもっと別の、選ぶべき、伝えるべき言葉があるはずだ。
男女平等論が唱えられて、そういうムーブメントを支持しないと異端!みたいな風潮が出来て、かつマーケティング(笑)の結果女性をとりこめばなんでも売れる!みたいな商流が横行して。
はっきりいうと、それが癌。だって↑イコール男(の支配)からの解放、(少なくとも精神的に)独立、を指すわけだけど経済的な独立を真に目指してたどり着いたのはそのうち何割なんだろう?
一方で男は、独自の世界観と価値観をニュートラルに薄めることを強いられ、町にはフェミニン(笑)な空気で薄められた思想、行動、文化、建物、食べ物、生活習慣が浸透した。
これは、譲り合いの結果生まれた世界。しかし女性が譲ってきていることはなんだろう?
何も譲らず、権利だけを声高に主張して、そしてそんなワテクシ達だけど養ってねというのは甘い。
妥協、とな?
…おお否、断じて否!!
汝は主なる御乳の福音を一面的にしか理解しておらぬ。
御乳を畏れかしこむからこそ、汝はあらゆる秘儀を尽くして御乳への愛を証さねばならぬ。
これは断じて妥協などではない。無償無制限の御乳への帰依の証である。
http://anond.hatelabo.jp/20090403003240
「ここまで、私に酷いことを言ったりやったりする人たち、そういう自分の辛さを分かってくれない人たち
元増田のつらさは普通わからないと思います。だってごく自然に読めるんだもの。
足があって動くように見える相手に、
「歩けないんです歩き方を教えてください」
と言われても
「足を交互に出してみればいいんじゃ」
くらいしか言えないでしょう。
神経伝達がおかしいとかいう事実がわかってればある程度は言わないでしょうけどね。
後は、元増田は地雷踏んだことに気がついてないとは思うんだけど、踏んではいけない地雷を踏みまくってるんだと思いますよ。
コミュニティの中心にいる人間の気に障ることを平気で言ってしまったとか、コミュニティで大事にされている人間の気にしていることを指摘したとか、自分本位な行動を取ったとか(ちなみに全部子供のころ私がやらかして大変なことになった)。
の作る『空気』だとしても、それを、その望み通りに読んで、それに従わなければならないのだろうか?
残念なことにそれが多数派ですから、苦労してでも合わせないとしょうがないです。
それに逆らったり、拒もうとするのはいけないことなのだろうか?
異端者は怖がられ排除されるので、それが嫌ならばある程度は。
ただ、その集団から離脱して新しい集団を選ぶことはできます。
元増田はものすごく発達障害っぽいので、未診断ならば診断を受けて、地域の互助組織なりで多数派と折り合いをつけるノウハウを学ぶことをお勧めします。
それが出来ない、やろうとしないのは、やはり自分が悪いのだろうか?」
できないのはしょうがないと思いますけどね。
それが(自然にできてしまう)周りには「努力が足りない」と感じられてしまうだけで。
ある程度パターンで覚えて回避するしかないです。
1.人の話に脈絡なく割り込まない
2.自分の興味あることを語り続けるのは避ける
3.人の話は黙って聞く
4.何かしてくれたら中身はさておきまず感謝を述べる
そのへんのノウハウがないと多数派の中で爆発し続けます。
元増田と会ったことはないのでわからないですが、一般に発達障害のある人はよくも悪くも演技ができずに素の表情が出ることも多いので、そういう場合はわかりやすいですね。そして、多数派の人(特に女性)は、そういう非言語メッセージは非常に過敏に取得できます。
さりながら今日の「アイドル」達は名ばかりで、酒、タバコ、援交の果てに
プロダクションのマネージャーや社長、スポンサーとの「アバンチュール」
をエンジョイしながら、残り50%の余力で「アイドル」稼業をやっている
「心得違い」の者たちに見受けられるのでございます。
スグ「デキ婚」を発表し、席上「ポイ捨てしないで」と叫んで臆面もなかった
リア・ディゾンのような「手前勝手」が、今日の「アイドル」と呼ばれる娘たちの、
大なり小なりの「心象風景」なのであります。
もはや現代の中学生、高校生にとって、「アイドル」とは「異端」である、
との刷り込みがなされておるのでございます。
だからゲームやアニメ、マンガに「逃避」することになってでございます。
http://muranishi-ch.com/new/news/blog.cgi?mode=main&no=56
自己実現(=自分が売れたい・ビッグになりたい)な歌詞ばっかり。
お笑いも。
まず元増田の理解が足りてないというか、元増田が偏見持ちだっただけじゃないか?
ただ自分と違う存在に対して構えてしまう気持ちは解らなくもない。
セクシャルマイノリティなんて双方が変に構えてなければ
所謂「普通の人」と変わらないお付き合いが出来るものだと思うけどね。
そういう自然に友達づきあい出来る人もいる反面、こちらに不愉快な思いをさせてきたのもいた。
本来女中心コミュニティに入り込んではゲイであることを強調し、
ゲイであることがさも特別で尊いことだといいたげな勘違いを振りまき
それをたしなめられれば極一部の例を挙げ反論し、
ぐちぐちネチネチしめっこい嫌がらせをしてくる所謂「女の腐ったような」人物だった。
(その相手の所為で「女の腐ったようなゲイ」が大嫌いだ。)
(ゲイでなくても「女の腐ったような男」や「ジェンダーフリー論者」なんかは不愉快極まりないが。)
でも、最終的には男でも女でもきちんと自分の分を弁えて行動できる人だったら
このグループの音楽は一本調子の曲が多い。何だか雰囲気が前の曲と似ているなあとか思う。だけど、バックトラック自体は様々な音楽生が感じ取られるのに何故にこんなに薄っぺらに感じてしまうのだろうか。少し前から疑問に思っていたが、解決した。
音楽を作るソフトでループシーケンサーソフトというのがある。どういった物かと言うと、ロックドラムとか、レゲエギター、ジャズベース、色々なジャンルの音楽素材が四小節ぐらいでソフトの中にあって、それを自由に組み合わせることで音楽を作るソフトウェアだ。ようするに、レゲエが何なのかとか、ジャズが何なのかとか知らなくても、それらしい音楽は作れる。「Bob Marleyって誰」という連中にも作れる。でも、不思議なことにそういった音楽は薄っぺらい。いや、チグハグに聞こえる。別に音楽だけじゃなくて、文化的な物全てだと思うけど、音楽は歴史を積み重ねて発展してきた。こういうフレーズにはこういったメロディーが良い、コードはこういう感じが自然だ、という感じにある程度のルールに縛られている。新しい音楽が出来る時は、そういったルールを破壊して、「こっちの方が素晴らしいだろ!!!」と思う人たちに作られて行く。ただ、その人たちは古い物を知っているという前提がある。武道で言えば守・破・理みたいなもん。まあ、バキの花山薫みたいに異端の存在はいるけど、そういうのは例外中の例外です。
GReeeeNの人達はおそらく、ループを作って、その上にメロディーを乗っけてるだけなんだろうなあって思った。こういった薄っぺらいJ-POPのロックバンドはけっこう前からいたけど、音楽性をでっち上げるみたいなやり方は今の時代らしいと思う。
キリスト教の教義の中で難解だと言われる、三位一体。Wikipediaによれば、「父なる神と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93
高校時代から思っているのだが、これ、そんなに難しい概念なのだろうか?要するに、「父なる神」と「イエス・キリスト」と「聖霊」という3つのポインタがあって、みな一つの「神」という実体を指しています、ということだけでしょ?プログラミングをやっていれば、すぐに理解できる概念だと思うし、実際、プログラミングの例を引き合いに出して教えるのが手っ取り早いと思うのだけど、そうやって三位一体を教えている事例を見たことがないので、増田に書いてみた。英語圏では、とても誰か既にやっていそうな予感なんだけど、誰か知ってたら教えて。Java風に書くと、次のような感じ。(ポインタじゃなくて参照だけど。)
private Singleton(){};
public static synchronized God getInstance(){
if(singleton == null){
}
return singleton;
}
}
class World{
God Father = God.getInstance();
God JesusChrist = God.getInstance();
God HolySpirit = God.getInstance();
}
簡単に書いておくと、三位一体はキリスト教の基本的な教義で、いわゆるキリスト教は、どの宗派でもこれを認めているものが多い。なんでこの教義が基本的かというと、歴史上の人物であるイエス・キリストが、単なる人ではなく実は神でもあった、ということを信じることに繋がるから。「キリストは歴史上の偉人で神の教えを説いてくれたけど、単なる人で神ではない」という考え方も出来て、実際、この考え方が広まったことがあったが、325年のニケーア公会議というので異端になった。
カーボン様への感謝は、お布施の行為によって表される。これをカーボンオフセットと呼ぶ。たとえば、石油ストーブで部屋を暖めたら、カーボン様の力を借りたことになるので、そのかわりに、日頃スーパーへ買い物に行くのに自動車で行っているのを徒歩で行く。あるいは、庭に木を植えるのもよいだろう。
これらはカーボン様に借りた「電子」を返す行為であると説明されている。
命の杯たる植物体の中で起こる還元反応は神聖にして玄妙であり、光が物質を聖とし、カーボン様のみもとへと還すともいわれる。
あまり知られていない例としては、製鉄もまたカーボン様の力で行われている。
カーボン様は人類の感謝がたりない場合、地上を灼熱地獄、海を大洪水とするドゥームズデーを惹起すると信じられている。そのためカーボン様を崇敬するカルトは全世界で知的上流階級を中心に広まっており、その典礼を決定する公会議はCOPと呼ばれ、教理はキョウトプロトコルという書物にまとめられている。
なおカーボン信仰における贖宥状については、CDSを開発したブライス・マスターズ女史をはじめとした金融業界の重鎮たちによって市場での売買が検討されており、そう遠くない未来にシカゴ商品取引所で売買できるようになることだろう。まさしく、地獄の沙汰も金次第である。その売買ルールの設計はゲーム理論という精妙煩瑣な学を修めた者たちが行っている。オフセットの本質と形相をめぐる議論は部外者にはピンの上の天使の数の評価のごとくに受け取られているが、現実への影響は小さくない。
なぜカーボン様だけが崇敬の対象となり、金属アルミニウム(テルミット)やアスコルビン酸(ビタミンC)はそうでないのか、と論じた異端者ラボアジェは火刑となったと当時の書物に記されている。