はてなキーワード: 異端とは
>一般人とか見るようになるんじゃないかな?
俳優好きの生態はよく知らないけど。
アイドル、声優好きは、継続して応援するか別の人に切り替えるだけかと。
一般人を見ないのって、元々順序が逆のケースが一般的だと思う。
だからもう偶像にはまった人は、自分から進んで一般人を見るなんて事は…相手に興味を持たれるくらいしかありえなーい。
(まー、興味を持たれることがまずありえないだろうけどw)
中には、ヲタ仲間の中にいる異性に興味を持つ人もいるようだけど。そんな所にいる異性が異端だし。
第一、ヲタクでその信仰対象と恋愛関係になれるかも?って思っている人なんているの?w
ファンにはいるのかなぁ?いるとしたら、間抜けだ。(ヲタの間にいても間抜けだ)
それ増田も同じじゃね。別に、その人の性格で善し悪し判断してるわけじゃないんだから。
普通の人で「お世話になってるから」キャラクターが嫌いってのはどうかと思うって事だろ?
そりゃ「仕事でお世話になってるんだから悪く言うな」であって、「外見で判断するなんて差別主義者」ってのは違くね。
増田が引っかかったのも「仕事もらってる相手だから」であって「相手が良い人だから」じゃないんだろ?
キャラクターってのは、単なる立ち居振る舞いだけじゃなくね。センスが悪いのを是正する様子が見えない人は嫌いってのは別に判断としてはありなんじゃねーの。他人の好き嫌いに口突っ込むときに「お前は異端だ」ってレッテル張るのはちょっとどうかと思うが。
世の中的にはそうでもないのだろうか。(俺がズレてる可能性も多々あるから謎)
「増田くんって頭良いよね」
「いいや、そうでもないよ」
「うーん、なんというか謙遜じゃなくて自分では本当に良いとは思っていないよ。もし頭が良いのだと仮定すれば、それは僕の中で極めて限定的なものでしかなくて、それ以外はいたって凡庸だと思っている」
「……?」
「多分ひどく退屈な話になると思うけど聞きたいかい?」
「……うん。(迷った挙句の肯定)」
「うん分かった。ではまず結論から言ってみると、僕が頭が良いと仮定するならば、それは思索の過程を細切れに細分化する能力に於いて秀でている、ということなのだと思う。これが多分僕が頭が良く見える理由で、実際に客観的に見た僕の特筆すべき点なのではないかな。そして、それ以外は僕は極めて凡庸であると認識しているよ。つまり僕は、細かく分析的に物事を捉える、という特性以外には特に何の変哲もない平凡な人間で言うならばただのはったり人間なんだ。物事に対して妙な説得力を付加することはできると思うけど、それ至る過程を除いては極めて凡庸な発想しかできない凡人でしかない。
考えることを考える、と言ったら腑に落ちるかな。だから人は僕のその過程の精密さを見て、頭が良いと勘違いをする。もしかすると、それは本当に頭が良いことなのかもしれないけど、それを自らの結論を以って自分で肯定できるほどには僕は頭が良くない。
では何故、僕は自らの結論を以って頭が良いと肯定できないのか。
それは僕が結論を前提に考えを張り巡らせるから。結論を考えるために思索に耽るのではないのか、と言われれば勿論そうなのかもしれないのだけど、多分僕はこの思索に耽る、という過程自体を楽しんでいるのだと思う。その喜びにおいて、思索に耽るという行為自体はその拠り所がないと無限ループに陥ってしまうんだよね。だから、思索に耽るために必要なものが結論なんだ。その結論を元にその間で抜け落ちた事象を推測し、道中を補完する。それ故にこの思索は結論自体を導く発想とはなんの脈略ももたない。いわば、結論を肯定するだけの存在。
だから僕の秀でているのは、この『結論を肯定するだけの存在』である『思索の過程』のみであり、故に僕は本当に頭の良い人間ではない。飛躍した発想で結論を導き出す天才には成り得ないのだ。
ここで天才の定義とは何なのかを考えてみる。だけど僕は天才じゃないから僕の主観を元にした推測でしかないのだけど、あまり風呂敷を広げられないから手短にまとめてみるよ。
僕が考える中での天才とは、途中の論理を飛躍して結論をえり得る頭の回転力と、それを確実に導くことのできる能力のこと。
だから天才の十分条件として確実に導くことのできる能力――いわば目に見える成果――があってはじめて天才は評価されるものなのだと思う。
そして、もう一つの能力。この途中の論理を飛躍して結論を得るという行為を言い換えるならば、その人のみに適応できる『個人の論理』というものが確実に存在しているのだけど、その過程を凡人には追うことが出来ないからこそ異端で尊いんじゃないかな。そして、その能力自体を肯定できる確かな実績がある。だから天才は、天才として評価される。この過程を経る中で、では天才的な回転を見せながらも実績がない故に評価されない『天才かもしれない人間』はどうすればいいんだという話が出てきそうだけど、これは今の論点においてはあまり関係のないことだと思うから今回は問わないね。
――というわけで、先ほどの論旨に戻ると。僕の秀でているかもしれない『思索の過程』は、このどちらも満たしていない。あるいは人は僕のこの『思索の過程』自体を『個人の論理』と捉えるかもだけど、どちみち最初の条件である成果に結びつかないのだ。だから、僕は、『思索の過程』という極めて限定的な条件でしか秀でていないのだと思う。
これを言い換えると、僕は極めて限定的な面に於いて、頭が良い。
いわば、最初に結論として掲げた命題の逆をとっただけ、なんだよね。故に僕の『思索の過程』は命題を肯定するだけのはったり。
結論を先に掲げて、改めて命題の逆が真になることが前提の事象を述べているだけ。これが僕の頭の良さの正体。
――どう、スッキリした?」
エクストリームなエロゲー……それはあまりにも「やりすぎた」挙げ句、泣けるとか萌えるとかエロいとかを通り越して、もはや笑うしかないエロゲー。
それは、エロゲーという日本オタク文化の極北においてさえ異端としてしか存在できないもの。
というわけで今年プレイして「こいつぁエクストリームだぜ!」と感じた名作ベスト5を紹介する。
というか、これを紹介したいがためにこのエントリを書いている。
アフリカの一部の部族のように伸ばした乳房で蝶蝶結び、自分の身体より大きくなった乳房に寝そべる、乳首チンコ化、野生化……何を言っているのか分からないと思うが、本編はもっと訳の分からないシチュエーションばっかり(というか、それしか存在しない)なので覚悟するように。
全編獣姦という、動物好きにはたまらないであろう一本。
最初は『犬の花嫁』というタイトルだったが、あまりにも直裁的だったためか、発売未定になった後に現在のタイトルに変更して無事世に出ることとなった。
また、ルート数削減のためなんだろうが、ハードな選択肢とヌルい選択肢が出てきた場合、プレイヤーがヌルい方を選んでも「いやそれじゃ手ヌルいな!」的なことを言って結局ハードな行動をとる主人公の自分勝手っぷりは強く印象に残る。
萌えゲー的なパッケージで、公式サイトで紹介されているCGもとってもソフト。
実際、本編にはエッチシーンが一つもない……が、この作品がその本性を現すのはクリア後。
ここではアナザーストーリーとして各キャラクターのエッチシーンが開放されるんだけど、これがもうエクストリームなまでにハード。
フィストファック・異物挿入程度は当たり前、子宮摘出・内臓破壊などもはや「これはエロいのか?」と不思議に思うレベルにまで達している……が、この作品で真にエクストリームなのはそこではない。
萌えゲーを求めて買った人はショックでブチ切れるだろうし、その逆にハード系好きは「なんだ萌えゲーか」と一見では回避するだろうし、一体何を考えているのかサッパリ分からない制作者が一番エクストリームである。
はっきり言ってこの作品自体は別段大したことがないんだけど(いや全CGが妊娠ver.になるという凄い裏モードはあるけど)、凄いのはこのスワンというメーカーの企業姿勢。
『孕ら☆みん!!』『孕ら☆カノ!!』『人妻お姉さんとツンデレ幼なじみの孕らんだ関係』『姉は教師で新人メイド ラブラブ孕ませ生活!』『孕ら巫女姉妹』と、この1年だけで孕ませテーマのゲームが実に5本!
一体何がこのメーカーをここまで突き動かしているのか分からないが、この異常な愛情は十分エクストリームだ。
2位に引き続きDelta登場。
一体このブランドはどこを目指しているのか。
本作のウリは「全編ふたなり」で、『飼育白書』に比べれば題材的にはやや大人しい。
だがエクストリームなのは主人公(ふたなり)の行動で、電車内で後輩に欲情して痴漢、レイプされる憧れの先輩を見ながらセルフフェラ、その先輩と衝突した挙げ句逆ギレしてレイプなど、そのリミッターのはずれきった行動には大笑いさせられた。
言わずもがなの一本。
クソゲーの新たな領域を創り出したという点において、これも一種のエクストリームゲーと言って良いのではなかろうか。
ここで紹介したものは、お世辞にもシナリオが良いとか、作品としてとても優れているとは言い難い面もある。
ただ、エロゲーというある種のキワモノ文化の特色を最も活かしている作品群であることは確かだろう。
エロゲー規制の話が出ると必ず「いや感動するものもある」「素晴らしく考えさせる作品がある」的な反論をする人がいるけれど(ちょっと違うけど堺市のBL本問題でも似たような論調の人がいた)、ああいう反論は逆にジャンルの幅を自ら狭める結果になるから危険だと思う。
思うところがあったので書いておく。
http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20081215/p3
僕の実感としては、本格的にオタクがライト化というか、オタクじゃなかったオサレな人達がいっぱいオタク文化に参入して来ているんだなと本当に思うようになってきた。
記事では『ユリイカ』の初音ミク特集の記事から濱野智史(id:shamano)やテクノウチの発言を引用し、今までオタク文化に見向きもしなかった「オサレ」な人間たちがライトにオタク文化を消費し始めていると書いてある。この記事だけでなく色々な場所で言われ始めた言説だ。
このように言われていることに一抹の危機感を感じたので本記事を書くことにする。
タイトルで「ぬるオタ」と書いたのは正確には間違っている。要するに「オタク文化も消費するサブカル系の人間」のことだ。しかし、オタク文化にどっぷり浸かっているガチな人間からはそういう人間が「ぬるい」と捉えられるのは事実である。
まず、オタク文化をライトに消費する「オサレ」な層がいきなり現れたかというのは間違っている。急に出現したかのように感じるのは錯覚だ。
このように横断的に消費していく層というのはずっと以前からいる。急に出現したかのように感じるのはやっとそのような層の声がインターネットなどによってオタクにも届くようになっただけであり、または可視化しただけだ。これは「オタクはやめることができない」という勘違いにも言えることだが、今までオタクの歴史を紡いできたのがガチなオタクだけだったために、ライトに見える横断的な層というのが無視されてきたのだ。それによって近年、急に現れたかのように見える。だけど、ずっとずっと前からいたのだ。
例えば、クラブ系イベントを消費する層がオタク文化に流入してきたという風に書かれているが、テクノというのはかねてからオタク文化と親和性が高かった。
それはテクノポップの始祖・YMOの細野晴臣がゼビウスをサンプリングして『ビデオ・ゲーム・ミュージック』を製作したように、特に日本においてはゲームミュージックが源流にある。あの中田ヤスタカだって渋谷系音楽からの影響は否定するがゲームミュージックは素直にリスペクトする。それほど大きな存在であり、ピコピコに魅入られて音楽キャリアがゲームミュージックから始まっている人間は多い。
それゆえ、オタク文化への親和性は高く、90年代初期においてもアニソンやアイドル歌謡をテクノリミックスして遊ぶことは当然のようにあった。
そうでなくてもテクノ界隈の人間は宅録という手法がオタク気質に合っているなどと言われりしてオタク的な人間が多い。日本最大のクラブイベント『WIRE』を主催する石野卓球は根本敬を語りガンダムをネタにしキャシャーンOPのカバーした。テクノ系音楽の輸入に貢献した人間からしてこうなのだから後に続くものは推して知るべしである。
イベントだけをとってもDENPAの前にはコスパが存在するし、ナードコアだって存在した。ニコニコ動画界隈で吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』をリミックスして遊ぶのが流行ったが、その十年も前に『レオパルドン』というアーティストがサンプリングのネタとして使用し『NO DISCO CITY』という楽曲を発表している。クラブでは既に吉幾三を聞いて踊り狂っていたのだ。
ここら辺の歴史が忘れられかけているのもすべて「語る人間の不足」が原因である。
もっと言おう。同じように言われるオタクとDQNが急接近しているというのも間違いである。今でこそまったく違う存在として認識されいてるがその原風景では学校内で異端視されるものとして同じであったし、ずっと親和性は高かった。
「ゲーセンは不良が行くところ」という言葉が参照される際、カツアゲなどがエピソードとして語られることが多いが不良がアーケードゲームに昂じていたことを忘れてはならない。それにオタクと同じように漫画を読み続けていたのも不良だったし、マイナーな洋楽に聞きほれてバンドを始めてしまうのも不良だった。不良はずっとサブカル的なものを消費してきたしオタクとは身体性は違っても嗜好性は近かった。
バンドマンには特撮オタクやアニメオタクが多く甲本ヒロトは大学生になっても特撮を見続けていたし、YBO2は『太陽の王子 ホルスの大冒険』をカバーした。
特にヤンキーというのは語る人間が不足しているので歴史はおろかその生態すら満足に語られていない。現役のヤンキーの言葉を丹念に聞き続けている岩橋健一郎という人間もいるが彼の活動がまともに耳を傾けられたことはない。
漫画だってずっとずっと広い層から読まれ続けていたんだ。大友克洋を代表とする漫画郡が「ニューウェーブ系」と言われてサブカル系の人間も消費していたし、ヤンキーには上條淳士がいたし、ギャルには岡崎京子がいた。
昨今のヤンキーとオタクが急接近であるとか、オタク系文化とクラブ系文化の融合だとかいう話は歴史の蓄積なき忘却のなせる錯覚なのである。
ここでまさかじゃなくてまぎゃくだったら実に間の抜けた返答になるなあと思った。
まぎゃくと読んじゃった子は変だと思わなかったのかしらん
最近、あちこちで、「正反対」という意味で「真逆」という言葉を目にする。仕事柄かもしれないが、主にライトノベル周りで、よく目にする気がする。
手元の辞書を引く限り「真逆」は、「まさか」と読み、「まさか、そんなことはないだろう」などの、否定的な推測を意味する。
どこから正反対の意味が出てきたのかと用法を追ってゆくと、どうやら「月姫」のネロ教授のセリフに由来するようだ。抜粋するとこう。
ここでは、多分、作者は「正反対」の意味では使っていない。「まさか」と読んでも十分に意味は通じる。
ただし、「まさか」という読みを知らなければ、文脈的、あと字の意味から「その正反対だ」という意味にも取れる。「月姫」では、独特の造語が多く用いられるので、読者が「真逆」を、そうした造語と取り、今に至った可能性がある。
新しい言葉が生まれるのは、世の常なので、「真逆」の広がりについては、面白いなぁと思っています。
それはそれとして──「真逆」を使う皆さん、なんて読んでます?
「しんぎゃく」?「まぎゃく」?「まさか」?
いや、別に隠された主張とかは無いよ
そのまんま、同性愛者の人が「別に異端とかイレギュラー的存在じゃない」みたいに主張してるのをよく見るけどそれってなんか違うだろ?って疑問視してるだけ。
差別するなってのは分かるけどその流れで異端者でないことをアピールするのは違うんじゃないのか?って
実際異端者ではあるだろ。
異端者を作り出さないことじゃないんじゃないのか?
基本的に恋愛って男女だろ?
なんでそこを否定するのか分からん。
大体なんで性が生まれたかっていえば生殖の為なわけだろ?で恋愛だの結婚だの出産だのそこらへんのことは生殖と結びついているわけで
ていうか、同性愛ってありうるの?それはもう恋愛じゃなくて友情なんじゃないのか?言葉の定義的に。
だって恋愛の愛情っつーのは要するに盛っているってことだろ、敢えて身も蓋もないいい方をするが。
こいつに子供生んで欲しい、こいつの子供産みたい的な感情が根源だろ。
友情の異質バージョンに過ぎないんじゃないのか?
本来異性へ盛り感情を向けるべき脳が、誤って同性にその盛りを向けてしまっただけで、根源的にはやはり異性間の盛りが同性愛者にとっても基本なのだということなら恋愛でもいいのかもしれないけどどのみちイレギュラーじゃねえの?
まったくもって上で言っている通りだと思う。ちゅーか普通にいるだろう、そういう奴。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
いやいや、俺はそこまで言うつもりはないんだけどな。
ただ、いわゆる「IT系」ってのは経営工学という、工学の中ではかなり異端な分野の応用のうちのごく狭い範囲に過ぎないわけで(人が作った言語やハードウェアを覚えて使うだけのことを計算機科学の応用とは言わないよな)、それなのに何の限定もなしに「技術」と言ったらいわゆる「IT系」のことになってしまうのはどうなのよと思うわけね。
機械とか電気とか化学とか、あるいは同じ「IT系」の中でも音声処理とか画像処理とか、そういう人間にしてみればちょっと納得がいかないね。
あんまり気にしなくて大丈夫。
(韓)>でも敬虔なクリスチャンには、「イスラーム(?)が汚れの象徴の豚をキリストの聖女(主人公はジャンヌの生まれ変わり)に食わせようとしている」と映る。
手元にある「豚料理大全」にはフレンチの技法もイッパイ、なぜだろうねw
フランス人はレビ記や申命記の戒律(コシェルってヤツね)を嫌い、
以下、聖書はJSS版からの引用。新共同訳は探すのが面倒でね、すまん。
(旧約聖書)>
Gen 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
Gen 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(韓)>ほかにもサブタイトルにいくつか性やら麻薬を連想させるものがあってアウト。
いやいや、そもそも聖書の記述が「性的恥辱を感じました」そのものだから。
(旧約聖書)>
Gen 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
Gen 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
(韓)>イブ=ジャンヌ=まろん(主人公)という設定も完全にレッドゾーンらしい。
(韓)>仏教の考えである輪廻転生がなぜか使われていたりする。
(韓)>「これはクリスチャンぶち切れるよ」とのこと。
まあ確かに魂の継承や輪廻という概念はキリスト教からみれば「異端」だけど
(少なくともプロテスタント、カトリック、ロシア正教、ギリシャ正教はそうだろう)、
reincarnation や karma という言葉が一般的なくらいに神秘思想も知られているよ?
そもそも輪廻は仏教思想じゃなく、元はヴェーダから来たヒンドゥー思想。
(韓)>たぶんイブは誘惑に負けてリンゴを食べた者なのに…。ってことかな?
イブが食したのが「リンゴ」であるという記述は聖書のどこにも書いてないw
確かにヨーロッパで「知恵の樹の実」は伝統的にリンゴだとされているけど、
創世記の最初の舞台メソポタミア周辺の気候はリンゴ栽培にあんまり向いてないんだもの。
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
Gen 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
Gen 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
Gen 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
Gen 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇の言ったことの方が事実だったんだから。
神が自分を「われわれ」と呼んでいることにも注目!
これは多神教時代の名残の消しそこないで、「唯一神」の自己否定(w)が旧約聖書に載っている。
神の呼称のひとつ「エル」に複数形「エロヒム」が存在する理由でもあるw
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
Gen 3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
Gen 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
(韓)>ほかにも、(まあこれはこじつけ見たいにも思えるんだけど。)ロザリオの形がハーケンクロイツに見えるコマがあったり、
うん、こじつけ。
スワスティカは「調和」「秩序」のシンボルとして十字架よりはるかに長い歴史を持つ。
キリスト教自身でスワスティカを変形十字架として使ってた例がある(コレ重要w)。
ここ数十年の反ナチという刷り込み、思想制御、言論統制の方が私には恐いね。
(韓)>それと韓国人が「子供の頃フランス人の女の子にジャンヌダルクってあだ名を付けてからかったら、
(韓)>その女の子の父親がマジ切れして殺されかけた」ってゆってた。
日本人が韓国に行って、韓国人に「ヒデヨシ」と呼ばれ続けたら俺も怒るw
これはジャンヌうんぬんが問題なわけじゃないぞ。