はてなキーワード: 楽器とは
神経疑われるかも知れないけど障害を持つ人にとって、
俺らから見える不便ってのは本人にとっては当たり前のことだと思う。
学校の授業でもそんなことを言って締めてる内容のものがあった。
いわゆる健常者っていう人達は自由の利かない人達を助けてゆけばいいけど
その関わり合いの中で特別なものを見出すのはおかしくないか?
楽器弾けるんだ~、でもヘタクソだね。
練習したんだ~、それは凄く偉いと思うよもっと頑張って。
だからそんな特集をした番組なんて感動しないでしょ。
誰がするの?
これは所詮、壮絶な苦労を知らない場所からの考えなんだろうか。
こういうやつにはそれこそドキュメンタリー風に撮ったものを見たほうがいい気がしてきた。
そんなに、共感を得たいんならちゃんとストーリー練って、書けばいいだろ。
キザな奴と音楽の話をしていて、そういう質問になって~ ~お前、カッコつけたいだけじゃないのかと思った。
とかさ。
とりあえず貴方が別に何か信念を持って意見を言ってるのではないことは分かった
信念って何だよ。
バッハには、チェンバロをメインの楽器として再発掘している。 後にピアノがここまで発展したのは、バッハの偉業と言っても良いんじゃねーの? 単に楽器鳴らしてるだけの、バンプよりは優れた音楽家だと思うがね? むしろ、supercellの方が初音ミクとニコ動を足場にメジャーに上がったんだから、凄い事だと思うんだがね。
と言われた方が良かったかい?。それとも、
そんなラジオでもたまにしか流れない、バンプオブチキンとかマトモに聞いた事一度もねーよ。 そんなドマイナーなミュージシャン(笑)の方が優れているとか、お前頭にうじ沸いてんじゃねーの?
とでも、言われる方がおきに召したとでも?
ところで、『中二病』だって言って人を罵る連中は、往々にしてカッコつけてるだけだと思うんだけど、どう思う?
ところで、たかだか5行の質問に「信念」とか、持ち出すお前は、往々にしてカッコつけてるだけだと思う。
※いくつかネタ追記した。
昨日の午後3時あたりから、30分にも満たない間、24時間テレビを視聴した。
多くの障害者の方々が液晶画面に映る。ブラスバンド(?)をしていた。全盲の女性がマラソンをしていた。
弟は3級の障害者手帳を持っている。数年前、統合失調症と診断され、家族が慄くほど狂った後に正気を取り戻した。
どちらも健常な人間であれば、多少の訓練機関は必要となるが、出来るようになることだと思う。
それをわざわざ障害者の方にやらせて有難がる(あるいは面白がる)のは、蔑視していることの現われではないのか。
障害者に対し、社会の一員と考えるか殺したいくらいの邪魔者と考えるかは、人それぞれなのでどうでもいい。
障害者を家族に持つ者の一意見に過ぎないが、私は常々こう思っている。「みんな普通に生きたい」のだと。
父はかつてこう言った。「障害者という言葉そのものが差別なんだ」
とある教授はこう言った。「他人の介助が必要なければ障害者ではない」
障害者という理由で、善意であれ悪意であれ過剰に介入されるのは不愉快だ。
障害者である故に、他人に迷惑をかけることがあるかもしれない。そのことについては謝罪するしかない。
だが、社会の中に上手い具合に溶け込んで、生活が出来ているならば、ただただそっとしておいて欲しい。
社会に出ている障害者は、身体であれ精神であれ問題をある程度克服し、日常生活が出来ると判断されて、その中にいるのだから。
(中には色んな人のエゴで何も出来ないのに社会に出ている人もいるけれど……)
障害者をお人形にして色んな変なことをやらせるよりも、障害者の日常を追ったドキュメントを作った方が
ずーっと理解がしやすいし妙な誤解も生みにくいだろうに、何で毎年おかしなことばっかりさせるのだろうね。
弟や父(書き忘れましたが、父も手帳貰うほどではないですが障害を持っています。ちなみに精神じゃないよ身体だよ)、
その他大勢の障害者の方々は、芸人やタレント、テレビの前の視聴者を感動させる道具とかそういうんじゃない。
普通の人と同じように、普通に暮らしたいと願って普通に暮らそうと頑張っている人たちだと私は思う。
だけど、普通の人たちはきっと、大抵は蔑視しているでしょう?
普通にバスに乗っていた前の人が、自治体から発行される無料乗車証を提示しているのを見たら、あいつは障害者なんだって思うでしょ?
普通じゃない人が普通のことを頑張って成し遂げようとするから感動して涙まで流すんでしょ?
内心でどう思うかは構わないけれど、迷惑を掛けていないのであれば、そーっとしておいて欲しいなあ。
好きでこうなったわけじゃないんだ。そのコトをウリにしてメディアに露出したいわけじゃないんだ。見世物になんてなりたくないんだ。
2009年に放送され、ヒットを記録した「けいおん!(一期)」はまだ記憶に新しいが、その続編である「けいおん!!(二期)」の人気にはいささか翳りが見えてきているようである。
まず、客観的数値として一番わかりやすいそれぞれの初動売上を比較してみよう。
一期1巻:40,452
二期1巻:33,078
数字としては約2割も売上が落ちている。
もちろんキャンペーンの差であるとか、様々な要因が考えられるが人気作の続編としてこの下落率は大失敗と言わざるを得ない。
ここで本題である、「なぜけいおん二期は失敗したか」について考えてみたい。
あまり長いことを書いても読んでもらえないと思うので真っ先に考えられる一番シンプルな理由だけを極々簡単に紹介してみたい。ずばり、二期は全体的にヌルいということである。
一期は言うまでもなく高校入学から軽音楽部入部、そして初めての楽器演奏といった主人公唯の成長譚としても観ることができた。そして1クールという短い回数の中で二年間の成長がうまくまとめられていた。
まじめに練習しているシーンがないと重箱の隅をつつく人もいたようだが、短い尺に納めるため、練習していることは前提としてそれ以外のより重要なシーンを描くことに重きを置いたと解釈するのが自然だと思う。
一方で二期目はどうか。そもそもの話として、二期は一期の成功を確認した上での企画であると思われる。二期を観ていると一期で評価された部分にスタッフが味を占め、そこをあざとく強調しているようにしかみえない。
もちろん一期の短い放送回数では描ききれなかった日常シーンを望む声はあるだろう。けれど、実際に放送された二期をみると制作側からのチャレンジ精神は見えてこず、安易な需要へのフィードバックだった。
つまり、二期は「空気系」および「日常系」といった単語で安全圏に引きこもり、惰性でなんの起伏もないシーンをだらだらと続けているだけである。
過去に大ヒットを記録したアニメは例外なく多くの論争を巻き起こした。某ロボットアニメを例にとるまでもなく、歴史に残るような作品はすべて多大なる長所と短所を包含し、ネット論壇において、放送当時はもとより未だに議論の対象となっている。
ここでけいおん二期に話が戻ると、この作品に至っては「短所」がほとんど存在しない代わりに「長所」も皆無である。一期の成功を前提に無難に無難に作られた作品であるが故に評価すべき点がまったくと言っていいほど見あたらない。
ネットを見渡してもこの作品について精緻な考察を繰り広げているブログも存在しないのではないか。あるのは、キャラに対する表面的な萌えの声や、“あるあるネタ”への共感のみである。
「けいおん!」(一期)は確かにヒットした。時代をうまく汲み取っていたし、批評性があるように思われた。けれどそれに続く二期は、うまみを知って舞い上がった制作陣による、薄く引き延ばした劣化レプリカ、失敗した二次創作、もしくは傲慢な京アニから放たれる醜悪な排泄物にすぎない。
京都アニメーションはこれまで時代性をうまく作品に反映し、優れた技術と相まってその時々を代表する作品を生み出し続けてきた。そういったアグレッシブなメンタリティこそが京アニの真価であり、圧倒的な人気を誇ってきたゆえんでもあろう。
その京アニがけいおん二期という冒険心のない凡作を生み出してしまったという事実は大きい。
一般メディアや中高生向けクラスタへの露出の多さから関連商品は売れ続けるだろうが、その求心力はどんどん衰えていくだろう。
確かに新しいことにチャレンジすることのリスクは大きい。それが京アニという巨大ブランドであればなおさらだ。しかし、当初のコンセプトを失い、目の前にぶら下がった利益だけをむさぼり続けた企業が衰退していくことは歴史が証明している。
京アニには腹の周りについた醜い贅肉をそぎ落とし、いつまでもラディカルな制作集団でいてもらいたい。けいおんはその意味でとてもいいクスリになったはずだ。
mizki関連の情報のまとめ。
■なにそれ?
→YAMAHA(クリプトンではない)が作った権利的には一番本家のボーカロイド。
■どんな絵なの?
→無い。好きに作れってことらしい。
■声はだれが担当?
→非公開。あまり先入観を持たせたくないってことらしい。
■歌声は?
→こんなん【http://www.youtube.com/watch?v=5iMAX6UpLYQ】
■いつ発売?
■価格は?
VY1を使った楽曲を収録したアルバム、特製Tシャツ、タオルなどを同梱した化粧箱入り「DXパッケージ」が1万4800円
■VY1てどういう意味?
→なんかバイクとか楽器とか関係なく、YAMAHAが本気の時にしか付けないコードだった気がする。
■1ってことは2も出るの?
→インタビューでは出したいらしい。
詳しくは公式
http://www.vocaloid.com/VY1.html
■権利関係の話
従来のボーカロイドはご存知の通り、クリプトンが開発したDTMプログラムな訳だけど
初音ミクを初めとしたボーカロイドシリーズでなにが特殊かというと、
そのキャラクター単体に対する権利がどこにあるかって話になる。
ボーカロイドを使って楽曲を発表、販売することに対してはクリプトンもそんな躍起になってないのだけど、
ミクという名前を使って金を稼ぐことに対しては結構強気に出たりする。
厳密な話をするとマージンを取られる。
形としては京アニに「ハルヒ使わせてください」っていうのと大して変わらない。
ブラックロックシューターで名をあげたhukeは、
「BRSはミクじゃない」って明言することでそのマージン請求を逃れた。
それがアリかナシかはわからないが、権利上は「アリ」になった。
現状このやり方が、ニコニコのボーカロイドコミュニティを活用して、
最もマージン的にロスの少ない形と相成ったわけで
ボカロで有名なPたちを使って上手いこと儲けたい企業側にとって足枷となる。
『ミクというビジュアル、ネームバリューは活用したいが、そのマージンは取られたくない』
そのタイミングでMIZKI。
>このボーカロイドには決まったキャラクターや設定はありません。顔も無ければ、性別すらありません。
ブラックロックシューターみたいなのを後押しするタイプのボーカロイドとも取れる。
>VY1はあくまで、ボーカロイドという新しい楽器であり存在です。
まあそりゃそうだと思う反面
とりあえず初回特典のCDのHP(http://vocaloidsp-cd.com/index.html)を見た限り
YAMAHA的にはこういう風に使って欲しいんだろうってのが伺える。
このBRS流のやり方がユーザーに受け入れられるかどうか、という点はおそらく問題ない。
現状、ボーカロイドのブランドを保っているのは、ユーザー側の技術と労力に他ならない訳で
正式中の正式である今回のmizkiはニコニコのボーカロイドタグから弾かれることも無いだろうし、
逆にそこから出れない以上、一定数のMIZUIが確実にユーザーの目に入る。
クオリティの高い作品もそれなりに生まれるだろうし、多分かなり早い段階で馴染む。
独自の世界観で曲を作りたいっていう、もう既にボカロでオリジナル絵を使って楽曲を作ってる、
ミクに執着しない層には好意的に受け入れられるだろう。
ミク並にビジュアルインパクトの有る作品が有名になれば、それこそBRSコース。
フィギィア化、アニメ化もない話じゃないだろう。
少なくともミクを使い続けるよりかは。
もしVY1が想像以上に起動に乗った場合、一番得をするのが絵描き側だ。
ニコニコユーザーは金の絡まないアマチュアを好むので、知名度のあるプロ絵描きは起用されないにしても
ビジュアルインパクトのある絵を出せるイラストレーターは重宝される。
ボカロ界隈に蔓延る「一応ミクを使ってみた」っていう売名感からも開放されて
と、試しにVY1を持ち上げてみたけど、多分ミク主流の現状は変わらないだろうな。
VY1がコケて埋没しないことを祈る。
さて、はてなに限らずネット上には、「良い英語の学習法」に関するエントリがたくさんあります。ここらで「悪い英語の学習法」をまとめてみようと思い立って書いてみました。
英語というのは、自分の脳と肉体を駆使した活動です。「英語が出来る」というのは、必要に応じた形で自分の脳と肉体を動かすことができる、ということです。どうやったらそれができるようになるのか?自分で動かしてみることを繰り返して練習するしかないんですね。例えば、「聞き流すだけで英語が上達する!」と謳う英語教材があります。あれは、「サッカーの試合を山ほど見流すだけでサッカーが自分でも上手にできるようになる」とか、「ゲームのプレイ動画を見流すだけで上手にプレイできるようになる」とか、「プロのミュージシャンのライブを見流すだけで楽器が演奏できるようになる」というぐらい荒唐無稽な話です。人間がアウトプットの反復練習無しに習熟できる技能なんてこの世にありません。
(2) アウトプットをチェックしない
じゃあ例えば音読してればアウトプットしたことになるか。毎日部屋で一人でただただ読んでいればいいのか。何もやらないよりは遥かにマシですが、効率のいい方法とはいえません。アウトプットにはフィードバックが必要です。果たしてそのアウトプットが本当に適切なものであったのかをチェックして、修正を繰り返すことが必要です。そうしないと実際に使い物になる技能は身につきません。例えばあるゲームを、無敵モードで毎日プレイしていたとして、上手になるでしょうか?目をつぶって同じボタンを連打しているだけで毎日同じ結果が出る作業をしていて、上達するなんてことがあるでしょうか?
(3) 身の丈に合わないインプットを選ぶ
サッカーの素人がワールドカップの試合を見たとします。「面白い!」「すごい!」という感想はあっても、サッカー技術に関して得られる情報は決して多くありません。それに対して、自分で実際にサッカーに取り組み、ある程度以上のレベルに達している人間は、同じ試合からずっと多くの情報を得ることができます。「今の体の使い方すげえ」「ああ、ああいうフェイントの仕方があるのか」「あの状況であそこを見てるなんて!」などなど。つまり、同じインプットであっても、そこから得られる情報は、学習者のレベルに応じて大きく変わると言うことです。あなたが何らかの英語教材を使っていて、「ああ、これはこういう風に表現すればいいのか」という風に、自分の英語の糧となるような情報を見いだせないのであれば、その教材はあなたの身の丈に合っていません。
(4) 普段できないことをやろうとする
例えば「ペーパーバックを手当たり次第に読みなさい」という人がいます。実際にやってみる前に、自分にそれができるのか良く考えてみて下さい。例えば、日本語の新書を手当たり次第に読みなさい、と言われて、それをどれだけ続けられるでしょうか。実はそれが出来るのは、知的好奇心に溢れていて、なおかつ有象無象の中から自分にとって面白いものを見つけられる嗅覚を持つ人だけなんです。普通の人が手当たり次第に本を選ぶと、ほぼ確実に「面白くない」ものに当たります。面白くないものを努力で面白くすることは絶対にできません。そして面白くない学習が長続きすることもありません。
(5) 特別な才能のある人を真似しようとする
大人になってからの外国語学習は、楽器の演奏と似た部分があって、「才能の差」が確実に存在します。沢山の外国語を苦もなく習得できる人もいれば、その何倍もの時間をかけなければならない人もいます。そして後者の方が圧倒的に数が多い。問題は、後者が一握りの天才と同じやり方で学習しようとすることです。この背後には、往々にして「楽をしたい」という心理が隠れています。あの人はあんなに楽々英語が出来るようになってる、じゃあ私もこんな面倒くさいことしなくていいんだ。残念ながら、殆どの場合「私」には特別な才能はなく、天才と同じような上達もありません。
上記は全くもって「当たり前」なことなはずです。しかし私が見る限り、英語学習に関しては、この当たり前を置き去りにした迷信が跳梁跋扈しています。有効なメタファーは「スポーツ」「(アクション系の)ゲーム」「楽器演奏」です。全てに共通するのは基礎を大事にすること、反復練習を行うこと、アウトプットのチェックを繰り返すこと、そして少しずつ上達していくことなのです。
東南口(Flags前)を出て、甲州街道沿いにてくてく歩く。右側の高い位置に道路、左側に汚い飲み屋が続き、それが過ぎると家具屋とかギター屋がある。ギター屋の横には下着屋もある。明治通りとの交差点に出て、渡って新宿高校側へ。新宿四丁目のビジネスホテル街の昭和の雰囲気もいい。一泊2000円で泊まれる。そこから新宿高校前を通るとすぐ新宿御苑の横の道へ。歩いていくと四谷三丁目まで比較的すぐ。
東口を出て、騒がしい交番の前を通り、アルタ前の左側の混んでいる道を抜けて靖国通りへ。フルーツ屋の角からの道は、あやしいお店とか楽器屋とか、布とか売ってて、真ん中にはホームレスが拾った漫画雑誌を売ってるごちゃごちゃした雰囲気で楽しい。歌舞伎町一番街の門を越えると焼肉屋とか飲み屋が続き、コマ劇があった広場へ。うろうろしてると客引きに声をかけられるけれど、比較的まだ安全なゾーン。となりのさくら通りとか区役所通りのほうが危ない人たちが闊歩してるイメージ。むかし高校のときにさくら通りの飲み放題の店でややぼったくられた。歌舞伎町を見たら戻って区役所の横からゴールデン街へ。ごちゃごちゃした小さなお店が並ぶ。時が止まったかのような人たちが毎日飲んでいる。ゴールデン街を抜けてすこし行くと花園神社。危ないという話もあるけれどお祭りやってるときは楽しい。
南口を出て信号を渡り、動く歩道がある高島屋への道を歩く。2階からは向かいにあるハンバーガー屋とかジーンズ屋とかが見える。高島屋をつっきり、ハンズの横の道から外に出て、紀伊國屋のところまで行って代々木方面を見ると代々木まで300mと書いてある看板があり、近いなあと思える。ちなみに代々木駅の階段はかなり急だ。橋を渡りサザンテラスに行くと、並ぶドーナツ屋が見える。francfrancなどのお店もあるので駅に戻る方向に歩く。駅に近いところに地方物産館みたいなのがあり、その逆側はカップルが座る植木になっている。
西口を出て、地上に出ると右側に小田急ハルクにはいったビックカメラが見えるのでそこにいく。ビックカメラは比較的最近できたけれど、いいお店。夜遅くなると誘導されて出ることになる。2階あたりには耳栓売ってるスポーツ用品店とかがある。そこを出ててくてく南に歩いていくとヨドバシカメラ。その昔、新宿には淀橋浄水場というのがあった。ヨドバシ、というのはここの地名のこと。ビックカメラなどができて見劣りするけれど、それでも新宿西口と言えばこれ。そこから歩いてひたすら行くと都庁の後ろに新宿中央公園がある。都庁できれいな夜景をみた後は、公衆便所の上で飲みましょう。
西口を出たら、旧さくらやの横の東口との連絡路方面へ。そこで立ち止まるとあやしいビデオを売る店、ペットを売る店、謎のスーツ屋、などの間に入るところがあり、そこが思い出横丁。10席も座るところがないようなお店が焼き鳥とかうどんとか売ってる。道が狭くて素敵な店が並ぶ。便所は共同。思い出横丁を出て青梅街道沿いに東へ行って南側を見ると高層ビルが並ぶ。だいたいの高層ビルは屋上だけ開放しているので、展望台にいって夜景を見よう。それぞれのビルの高さが見える。その高層ビル群から少し北の道へ入るとこちらも時代に取り残されたような民家が並び、その歴史を感じる。大阪の阿倍野と飛田の間を思い起こさせる。
したがって、努力すれば何とかなる。俺は3ヶ月かかった。
まずは、知らない人に道を聞くとか、売店の店員と無駄にしゃべってみたりするのだ。
「今日暑いですね」とか言えばなんか答えてくれる。オバサンを狙え。
そして、つねに丁寧語でしゃべる。
内容で判断するのでなく、相手がこたえてくれたら1ポイントと考える。
一人を相手に5ポイント獲得したら、退却するのだ。
リア充をバカにしているやつらは、頭さえよければモテるはず、というか、モテるべきだろう、それが真実の世界だ、とか思ってたんじゃなかろうか。
真善美は一致すべき、という考えがすでに妄想だ。
元吹奏楽部だけどおおむね同じ
かならず女子が吹いてる楽器のところを音量が少ない、メロディが悪いと指摘し、
「ちょっと貸して」と楽器を奪う。ハンカチで軽くマウスピースを拭いて、吹く。
吹いた後またハンカチで拭いて返す。んで「さあ同じように吹いてみてください」だと。
まあ俺は普段は男同士でしか楽器の貸し借りはしなかったけどね。
3rdトロンボーンだったけど2ndの子と付き合ってたので練習中はずっといちゃいちゃ。
楽器使いまわしまくりのマウスピースちゅっちゅしまくりだったけどさ。
高校時代はサックスもクラリネットも貸してもらって吹いてたけどね。もちろん女子ね。
だって吹きたかったんだもん。かわいかったし。
中学から続けていて、そのまま継続という感じで、高校も迷わず吹奏楽部に入った。
支部大会に出れるだけの実力もあり、私が2,3年のときはダメ金で進めなかったが、1年の時は支部大会で銀賞を獲った。
そんな部活だが、ゆるい時はゆるい。練習が終わったら相手の楽器を借りて吹くなんてのはザラで、他の楽器でもセッションできるほどの実力を誰もが持っていた。
ちなみに私は男で、クラリネットを吹いていたが、歌口(マウスピース)周りは自分のものを使っている。
もしかしたら「当然じゃない?」と思われるだろうが、いきなり自分のものを持つのはいろいろと難がある。安定していないからな。
そこでまあ、吹奏楽部ならどこにでもあるだろう、「学校の備品」を世代継承のように使いまわすわけだ。性別問わず。
あれは最初は抵抗がある。一部不健全な男子は「間接キスいやっほーう」かもしれないが、「不特定多数の口を介在したもの」はネガティブな感情を引き起こさざるを得ない。
私も結果としては使っていくうちに慣れてしまい、私が使ったそのマウスピースも、すべての後輩がしっかり咥えているわけで。違和感も抱かずに。特殊な世界だと思う。
で、まあ慣れると自分の楽器、あるいは自分自身にぴったりなマウスピースを買うわけだが、それ以降の間接キスに関しては「不特定多数」ではない。「特定可能」だ。
僕は同じ部の後輩の女の子にも先輩の女の子にも僕が吹いた楽器を貸したし、男子とて例外ではない。
しかし、なぜか「世間とのギャップ」を思わざるを得ない。
キモイ男子が「小学校で好きな子のリコーダーをぺろぺろ」なんて半ば冗談めいて書かれることが結構多いが、それは「好きな子しか吹いてないリコーダーを自分が口にすることに感じる浅いエロスと禁忌」だと思うのだが、少なくとも私の高校では後輩のリードの調整なども兼ねた共有をしたこともあるし、飲み物や食べ物(主にお菓子)なんかも食べあったりした。断わっておくが僕はイケメンだったわけではない。(同期入部の女子は皆、芸能界にスカウトされそうなほどかわいかったが)
おそらく、多くの男子(あるいは女子)は、このような環境を変だと思うだろう。あるいは羨むかもしれない。もしくは人権に輪をかけて一種のハラスメントだ、と言うかもしれない。
私の知る限りそれは遠征先の中学高校や、あるいは近隣のそれでも同じような状況であり、私の高校の特殊例というわけでもなさそうだ。
これは世間一般からして奇異なのだろうか?それとも、違うのだろうか。
ただ、改めて書くが、私自身はそれに何も欲情もエロスもなく、最初の不快感もいつしか薄れ、現実の一部として当然のように享受していたのだ。
あのとき、彼らは、彼女らは、何を思っていたのだろうか。
※:いいことしか書いてないようですけど、コンクールとか結構必死だったんで、裏ではなかなかドロドロしてましたよ。これが女社会か、と感心したものです
http://anond.hatelabo.jp/20100725043438 を書いた増田です。
やっぱ、言語を学ぶのとプログラミングを身に付けるのは別なのが、プログラミングをしたことない人/これからしたい人には理解されにくいんだなーと改めて思いました。
そもそも、プログラミングを身に付けるってどういうこと?プログラミング力というのかな?それってなんなんだろうってことなんだけど、プログラムにしたい対象・・・生き物、事柄、物体、宇宙、なんでも・・・要するに表現したいことをプログラムに落とし込む能力。これが一番根っこの部分。
プログラミング言語の違いなんていうのは、筆を使うか鉛筆を使うか、楽器はなにを使うかってのと同列。言語は道具でしかないというのはそういうこと。使い慣れない道具を使ったら、いろいろ覚えないといけないこともあるし、その道具固有の表現方法やテクニックだってある。目的によって道具を使い分けることもする。けどそれは知識として学べること。しかも、プログラミングは他の創作活動に比べて知識の再利用性が高いから、調べればなんとかなることが多い。
反して、表現したいことをプログラムにする能力というのは知識として学びにくい。それは絵をうまくなるとか、歌をうまくなるのと同列のことだから。表現力とストレートに言っちゃってもいいかな。その表現力を伸ばすには、色んなことをプログラミング言語を使って表現して体得していくしかない。多少の近道はあるだろうけど、基本的には。
そうすると、プログラミングをするときに大事なことの順番は明確だよね。
だから、"プログラミングを身に付ける=言語を学ぶこと"というのにこれほど違和感を感じるんだ。もっとそのことを、これからプログラミングをやり始める人にうまく伝えられたらなといつも思ってる増田でした。
その上車にもバイクにも服にも酒にも風俗にも博打にも興味ないっていうんだからな
http://www.youtube.com/watch?v=zyOLb8D8ezI
Utauyo!!MIRACLEがけいおん!分を存分に盛り込んだ卒業ソングなんだろうな、というのは「だいすきーだいすきー」らへんから伝わってくる。
これをまず念頭に置いておく。
ライブシーンにおけるギー太の不在。そして歌っている最中に手に持っているのはマイクじゃなくて「ふでばこ」。
(部室シーンでは持ってます。あくまでライブシーンの話。)
唯の必殺技は1話の冒頭で2期のはじまりを告げる、強いインパクトを視聴者に与えるものであったはずだ。
その必殺技を1話と同じ場所、同じ制服でギー太なしでやっている。
なぜ唯はライブでギー太を手にしないのか。
なぜライブという軽音部の活動のなかで一番の見せ場となる場所で、楽器と唯が同時に登場しないのか。
ギー太は唯の高校生活を象徴するもので、その唯とギー太が分離している状態というのは、
つまり卒業。
卒業しても唯はギー太を手放すことはないだろうし、ギターも続けていくんだろうけど、
唯一、楽器という点で扱えるのがDJ機材だけなんだけどいかがでしょうか?
それ以外は体型含め合致していると思います。
きちんと働いて、毎年青色申告しております。
なんか理想の彼女のやついいな!わたしもつっこまれたい!と思って理想の彼氏像書いてみよう。
1、わたしの趣味に理解を示してくれる
映画、音楽、読書、美術といろいろ好きなことがあって、えらくそれにお金を費やしてるので、それを認めてくれるひと。
2、それほどきっちりしてない
片付け苦手、時間守るの苦手だから、多少小言は言われてもいいけど、それがストレスにならないひとだといい。
3、家事ができる
一般的なレベルでね。わたしがてきとーなので。あわせて一人前くらいでいいんだけど。
好きなことの話をきらきらして語る人っていいよね!
わたし自身も好きなこと話すの好きだし、ひとの好きなことについて話を聞くのも好き。
5、なんか楽器が得意
これは単純な「憧れ」なんですけどね。
わたしも多少楽器をやるから、楽器がうまいひとのすごさは身にしみてわかる。
ぱっと思いついたのはこんな感じかな。
ルックスはほっそいひとがいいけれど、ほれたらあんまり関係ないな。
こんなことを書いているわたしは皆さんの目にどううつるのでしょー
丁寧な返信、ありがとうございます。読んでもらえてうれしいです。
そうなんだ、同年代とは緊張して話すことができないけど、年上の人とは平気なんだな。どうしてわかったの?
塾の講師とか、習い事の先生(楽器を習っている)とは、いくらでも話が弾むらしい。
そういう人や機会を増やしたらいいのかな。
でも、それだと、いつまでたっても同年代に対する忌避意識は消えないのかな。
同年代で心を開いて話のできる相手がいるといいんだけどなあ。
不登校になって、同級生はもちろん、小学校時代からの友だちとも疎遠になってしまった。
それでも、親以外の話し相手がいるだけいいのかもしれない。
わたしが思うのは、基本的に、学校というのは特殊な空間だ、ということです。
なぜなら、同年齢の人ばかりが、集まっているからです。
外から見たら、中学生なんて、どの子も、たいした違いはないように見えますが、
本人たちからしたら、だからこそ逆に些細なことが気になる、ということになるのだと思います。
わたしも、中学生のときは、学校では、ぜんぜんリラックスできませんでした。廊下が殺気立っていた。
だから、大人相手なら、リラックスできるのでは? 自分とあまりにもちがうから。
なので、同年代の友人ができないのは、そんなに気にすることもないと思います。
友人なんて、そんなにたくさんいる必要はないのだから、二十歳までには、何人かできるのではないかと思います。
むしろ、大人の友人をつくるのは、お子さんにとって、良いことだと思います。
どうしてかというと、中学生のころに、三十代の友人がいたら、だいぶ自分の人生の見通しが、立てやすくなるように思うからです。
理想的な、モデルとなるような人物に出会うかどうかはわかりませんが、
何人かの大人を見ることで、自分なりの人生のモデルがつくりやすくなるように思います。
以上です。
失礼しました。
コメントありがとう。http://anond.hatelabo.jp/20100624151721です。
何かを条件に(エサにして)、子供を望む方向に行かせようとするのは、たぶんムリです。
そうだよね。
わたしが中学生ごろのことを考えても、そのような大人の「意図」が透けて見えるようなゲームに参加することは、屈辱的なことだ、と考えていたので、ぜんぜん勉強しませんでした。(勉強自体はしたほうがいいと思う)
同感だ。自分でもそんなことされたら、ますます反発して、わざと親がイヤだと思うことをすると思う。
その程度には、子どもの気持ちはわかるんだ。
わたしが、お子さんに対して、やったらいいと思えるのは、
* スポーツ(成長期だから)
* 図書館に通う(たとえ読まなくても、制限冊数まで毎週借りて帰る)
具体的なアドバイス、ありがとう。
* スポーツ。
集団が苦手なんで、一人でできるものならいいかも。水泳とか好きなんだよ。
通学してた頃は、部活もやってたし、一人でジョギングしたり、筋トレしたりもしてた。
最近は体力が落ちてしまってやってないけど、また何か始められるといいな。
* 図書館に通う。
これも、だいぶ前は制限冊数いっぱい、どさっと借りてきたこともあったんだ。今は行ってないけど。
ちょっと道筋をつけたらまた行きたくなるかもしれないから、明日、連れて行ってみよう。
マンガも好きだけど、本も基本的に嫌いじゃないんだよ。
* できるだけいろんな人に会う(同年代でなく、20歳以上離れている人がよいと思う)
そうなんだ、同年代とは緊張して話すことができないけど、年上の人とは平気なんだな。どうしてわかったの?
塾の講師とか、習い事の先生(楽器を習っている)とは、いくらでも話が弾むらしい。
そういう人や機会を増やしたらいいのかな。
でも、それだと、いつまでたっても同年代に対する忌避意識は消えないのかな。
同年代で心を開いて話のできる相手がいるといいんだけどなあ。
不登校になって、同級生はもちろん、小学校時代からの友だちとも疎遠になってしまった。
それでも、親以外の話し相手がいるだけいいのかもしれない。
ここまではOK
音楽を学ぶこと、例えば他人の音楽を沢山聞いたり理論書を買ったり
講義を受けに行くことにも金がかかる。
ここは「はぁ?ナニ舐めた事言ってんですか?」
作品そのものを作る事と、自己啓発を何故同軸に考える。
それは「絵を描くのに参考書として必要なんです!」って趣味のエロ本を大量に抱えて必要経費に書くのと同じだ。
それを名目に他者から金をとろうなんて発想はお子様過ぎる。
随分甘やかされた環境でのびのび育ってきたんだな。
で、好きなクリエイターも甘やかせたいと。
そりゃ、元増田自身がパトロンでもスポンサーでも好きにやればいい。
だが、購買層にタニマチ化を当たり前にしろと言っても笑われるだけだ。
購買層は作品で評価し、作品そのものに対して納得のいく金しか払わないのが普通。
その作品や賃金に対する価格設定が間違っている、という話ならアリだが、
それはけして元増田が訴えるような甘ったれた理由じゃない。
あと、
思うんだけど、「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、消費してもらえるだけありがたく思え」って言う人は、自分に価値が無くて何らかの対価を出せないことに敏感な人が多いんじゃないかと。
よほど気に入らないんだろうけど吹っ飛びすぎ。
「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、対価として金を要求するのはおかしい」
「作品を金儲けの手段にするのはおかしい」
とか言う主張をネットで見るけど、変じゃない?
いいじゃない、娯楽商品で金儲けしても。
精神的活動を物質的活動と比べて優位に評価して、「純粋であるべき表現活動を金で汚すな」みたいに考える人がいるかもしれない。
「悪貨は良貨を駆逐する」のアナロジーを使って、劣悪な商業指向の作品が氾濫すると、良質の作品が減ると考える人もいるだろう。
前者に対しては、作り手がいかに物質的要素に助けられているかを見ていない。
作品を作っている間も生活しなきゃいけない。家賃払ったり飯食ったり。生きていかなきゃ作品も作れない。
金儲けして生活費に余裕ができれば、また作品も作れる。稼げなければ生活費を得るために別業せざるを得ない。
音楽を例にすれば、楽器や録音環境にはものすごい金がかかる。音楽を学ぶこと、例えば他人の音楽を沢山聞いたり理論書を買ったり
講義を受けに行くことにも金がかかる。音楽を作成するときでも、エンジニアや演奏家に頼む時には金を払わなければならない。
そうした労苦を経た上でようやく作れる音楽が多い。安価でつくられても素晴らしい音楽は沢山あるけど、ジャンルやBGMとして使える範囲が
狭くなってしまう。
金を稼ぐことによって作品制作に専念でき、技能的にも高く、多様な作品を生み出すことができる。それだったら稼がせてやればいいじゃん。一番得するのは受け手なんだから。
値段が高くなって作品が買えなくなる、って意見もあるかもしれないけど、本当に値段設定が不当に高いのなら、そんなに売れないはず。
つまり製作者が自爆してるんだから、ほっとけばいいじゃん。
後者に関しては、購買者側の問題でしょ。「劣悪な」商業作品が売れるってことは、そういう作品が欲しい、つまり少なくとも購買者は
その作品を「劣悪」とは考えていないってこと。良質な作品が減るっていうけど、そんなのは一部の意見でしかない。作品を絶対的に
評価できる尺度がないんだから、評価者の好き嫌いに還元されるところも大きい。つまり「俺の好きな作品が減って、俺の嫌いな作品が売れてしまうのは嫌」ってだけなんじゃないかと。
もちろん未完成品としか評価できない作品は除外した上での話。
思うんだけど、「製作者は受け手に楽しんでもらうために作品を作っているのだから、消費してもらえるだけありがたく思え」って言う人は、自分に価値が無くて何らかの対価を出せないことに敏感な人が多いんじゃないかと。
・金が無いから、金を出したくない
・自分のプライドが許さないから、作品を好意的に評価したくない
・「製作者=上位」「消費者=下位」と自分で考えているから、劣等感故に製作者に対して勝手な嫌悪感を抱いて、なんとかして攻撃したい
結局こんな人が多いんじゃない?無料で公開してる作品に関しては特に顕著だよね。