はてなキーワード: 楽器とは
きっかけは、暇でやる事無いから楽器始めた。
当時家は遺産で揉めてて、リアル昼ドラみたいな骨肉の争いだったのだけれど、それは大したコトじゃなかった。
そっちの揉め事より、自分の鬱屈した感情・憂鬱としてるコトの方がなんとかしたかった。
ゲーム、漫画、映画etc・・・。インドア系ばかり好きだった自分にとって、当時音楽は憂鬱を解消する救いであり、向上心、心の拠り所だった。
誰かが言ってた「宗教」みたいなもの、それに近かった。
でもかなりの下手糞。だから、思いっきり練習した。カッコ悪いし。
「演奏技術を高めよう」「もっと音楽として聴けるものに近付こう」「オレは不細工だしコレしかない」
そんなコト思いながら、学校から帰って22時ぐらいまで練習の日々だった。
良く聞く、一晩寝ずに練習とは自分は違った。
血豆の数が嬉しかった。血豆が破れた時の風呂は痛いけど楽しかった。
あぁオレバカだったんだなって思えて笑ってた。ここで初めて心から人生って楽しそうと思えた。
要領がいいヤツなら、これと並行して学生生活もエンジョイするのだろうけど、バカだから練習漬けだった。
脳内も音楽漬けで、通学時ウォークマンの電池が切れたらイライラしてた。替えの電池パックに感動してた。
でも幸い彼女は出来た。バイトもやった。今思えばアレはアレで良かった。
当時、闇雲に色んな曲をコピーした。自分の技量に見合った曲、見合わない曲。見合わなかったら練習した。
好きと思えたらなんでもやった。ジャンルも良く分からなかったので本屋行ったりして、子供の発想で色々調べた。
その過程で音楽から色々な考え方、テーマ、歴史、感情を学んだ。今でもアレは良い経験だと思う。
Alternativeからは追求する精神を。
PoPからは聴きやすさの基準を。
Glindcore,ska,GAME…(略)
上みたいに、あくまで自分の目安で色々なジャンルを漁っていった。
そのままコレで飯を食うと決め卒業し、現実の壁を実感しながらも、バイトしたり派遣したり、会社に入ったり色々バカやって歳をとった。
だが歳をとるにつれて練習量も減っていき、音楽に対する探究心が薄れていった。所詮若気の至りかと。見苦しいけど続けた。
そういう人脈もか細いが増えた。
そして今、また転機に差し掛かっているが正直なところ疲れた。
贅沢なコトを・・・という自覚はある。
でも疲れた。
最近の若者はモノを買わないとかで、あちこちでいろんな人がいろんな分析をしているようである。
昔に比べて若者の収入が相対的に下がっているからだ、というが、それが一般論になるだろうか。昔だって貧乏な若者はいくらでも居た。俺なんて初任給が6万 9千円で、1ヶ月160時間ぐらい残業してようやく手取りが12~13万円とか、24歳までそんな生活だった。
どちらかといえば、今のほうが若くして事業に成功して金持ちになった人が多いのではないかと思う。昔は20代で起業できるような産業が乏しかったから、若くして金を持っているやつは、親が金持ちとか、最初から差が付いていたものである。
今の若者はお金を使わないというが、それはたぶん、使っているところが昔とは違うのだろうと思う。昔はケータイやインターネットなどなかったので、通信費がほとんどなかった。
昔の若者が何か新しいことをしたい、おもしろい体験がしたいと思ったら、何か物理物を購入するしかなかった。たとえば音楽をやりたければ、自前で楽器を買ったり録音機材を買ったりするしかない。そしてそれらのモノは、安い中国製などが存在せず由緒正しいMade in JapanとかMade in USAだったので、今よりもずっと高かった。
楽しみは、モノで埋めるしかなかった時代だったのである。だが今は、楽しみはサービスが埋めるようになった。多くのモノはデジタル化したことで価格が下がり、中国がいくらでも安いモノを作り、ソフトウェア化できるものはほとんど無料に近い金額で楽しめる。高いモノを買う必要がなくなった時代なのだから、消費が少ないのは当たり前である。
現代の若者の多くの楽しみは、ネットの中にある。通信費を基本インフラとして生活費の中に計上してしまうと、純粋な消費が見えてこない。さらにケータイなどは、基本的にはローンを組んで10万円近い買い物をしているのと同じなのだが、それが見えにくい形になっている。ネットだって高速回線を引いていれば、回線費とプロバイダ料で年間6万円ぐらいは払っているはずである。
たぶん消費をしないという人たちは、ローンを組んで車や家を買っていた時代と比較しているのだろう。昔のステータスは、いい車やいい住まいだったりしたので、お金で買えた。しかし今のステータスは、Twitterのフォロワー数とかマイミク数とかなのかもしれないではないか。それらは、お金ではいかんともしがたい。
そういう意味では、ステータスの質も変わってきたといえる。昔のステータスはお金に換算することが可能だったが、今のステータスは換金不能な価値であるのかもしれない。
貨幣経済から見れば今の若者はモノを買うお金がなくてかわいそうに見えるのかもしれないが、そこに幸せを見いだしていないのだからしょうがない。その実昔の若者だって、モノをたくさん買わざるを得なかったばかりにたくさんの借金を背負って、給料が安いからなかなか返せなくて、それなりにかわいそうだった。
誰も言ってくれないが、若者とはいつもその時代の平均と比べれば、大抵はかわいそうなものなんじゃなかろうか。
ずっと、音楽はカッコつけのやるものだと思ってた。
「こんなスタイリッシュな音楽聴いてる俺、カッコイイだろ」というファッション感覚のアピールだったり、
ギター弾く姿を見せ付けてあわよくば女にモテようとか考えてる、
嫌味でスカした連中だけが嗜むものだと思ってた。
間違ってた。
私は音楽に目覚めた。
音楽が耳から流れ込み、体中を巡り、内臓を震わせ、毛細血管を拡張させ、
体温は上がり、肌は上気し、筋肉が疼き、たまらなく嬉しく、気持ちよく、
いつまでもこのまま外側からも内側からも音楽に充たされていたいような、
とにかく、ひたすらに、胸がいっぱいになる感覚。
知人に音楽の話を振りまくった。
どんなの聴いてますか!いいのありますか!教えて!教えて!
どうして今までこんなすばらしいものが理解できなかったんだろう。
興味はどこまでも広がっていった。
無知で無感動だった長い時間を埋めたくて、ひたすら夢中だった。
私は20歳。周りも同年代が多い。
音楽の話を振ってみて初めて、周りにバンドの経験者が意外と多かったことを知った。
しかし今となってはその熱も落ち着き、音楽で食っていくのは無理があるだろう、
そろそろ現実を見ないとな、結婚だってしたいし、定職につくのは必須だな…と、
見事に大人になっていた。
私が何も知らないうちに燃え上がり、そしてさっさと大人になってしまっていた同年代たちの中で、
私の情熱だけが痛々しく空回っている。
落ち着いて将来のための準備をすべき時なのに、
目覚めたばかりの感覚が身体の中を、出口を求めて暴れている。
苦しい。何故今なんだろう。
私が思うに日常系漫画の面白さ=魅力的なキャラ×多彩な舞台(あるいはシチュ)なんだと思うんですよ。
今までのけいおん!って箱庭と揶揄されるアニメ群でも群を抜いて箱庭度が高かったと思うの。極端な話し、学校と、楽器店と、唯の家とムギの別荘だけで物語が作られていた。
だけど、私の好きなARIAはまさにネオ・ヴェネチア全体が舞台だし、時々不思議世界に行っちゃうこともあるのですが、この不思議世界というのは別にARIAだけに限らず、「GA」でも「あずまんが大王」でも「それ街」や「ちびまる子ちゃん」でもあり以外と日常系ではポピュラーな話しなのです。もっとも不思議世界展開をやれば面白くなるという訳じゃないでしょうが、前述の多彩な舞台の確保には役に立つのだと思います。
それか、「ワーキン」か「マリみて」みたくラブコメ要素を入れるか。「マリみて」がラブコメと言われると違和感がもたれるかもしれないけど、令ちゃんのバカといってロザリオを返したあげくよりを戻したり、可南子と瞳子どっちを選ぶかとかモロラブコメの文脈なんですよね。恋人という普遍的なもので結ばれるか、スールという特殊なものよってむずばれるかの違いだけど。
だから、「けいおん!」も音楽やるより、男性キャラを出してのラブコメとか、唐突にガチになる展開は絶対にあり得ないわけで、琴吹家私有ゴルフ場でゴルフやったり、骨董品屋に行ったり、山荘に閉じ込められて事件が起きてその謎を解いたりした方が面白いんじゃないかと思いました。
とはいえ注意しないといけないのは演奏シーン。、本来なら演奏レベルは読者や視聴者の想像に任せないといけないのですし、梓が入った理由も、上手いからじゃなくメンバーの誰かが親戚か、音楽やっていると知っていて、強引に入れさせるか、逆に澪を最初から知っていて、彼女に憧れてとかそういう理由じゃないと駄目なのだと思うのですよ。もっとも今更それを言うのは手遅れだけど。
ああ書いたけど、増田は男。
女性に限らず、適当な話題を作るときっていうのは共通の要素が必要なんだよね。音楽にしても、ファッションにしても、小説にしても、学問にしても。
だからたとえば職場の飲み会とかでビジネスと下ネタの話しかできない人ってのは、他人にあまり興味がないんだと思う。
これはゲームとアニメと処女についての話しかできない人にも言えるんだけどね。閉じてるんだよ。閉ざしているんじゃなくてね。
少なくとも髪を染めたということは、何のメーカーの何の商品で染めて次は何の色で染めたという話ができるわけだけど、髪を染めない人ってのは自分がなんで髪を染めていないのかっていう自分語りしかできないんだよね。正直言ってそういう男はつまらない。
染髪の話題に触れられたけど、別に髪を染めるだけじゃなくて、たとえば音楽なら、いつもはジャニーズしか聞かないけど、実はクラシックでは新古典主義、ポストロックなんかもたまに聞くんです、っていうだけで、話題になる対象が倍々に広がる。というのも、クラシックを聞く層ってのはたいてい吹奏楽や合唱、現代音楽とジャズのうち、どれかは必ずと言っていい程耳にしている。そうすると今度は理屈っぽくいけばDTM含めた作曲や、どんな楽器を演奏したことがあるかとか、聞き専でもどんな楽器や楽団、あるいはバンドが好きで、某曲のあのクライマックスにかけての音色の積み重ねがステキ、とか引き出しが増えるし話も続く。
学問につけたって、今は学際領域がたくさんあるから、自分が全く関わってこなかった分野で、その無縁な専門家の人とたまたま領域が一緒になったってだけで居合わせてしまい、仕方なく何か話するにしても、「いやあ、あなたの分野の研究はさっぱりわかりませんよハハハ」っていうより「某さんのナニガシ研究は私の分野にはない新鮮なものだった。○○というのは私の方の分野では××との兼ね合いから○×になってしまってチョメチョメなんですが、より研究を進めていけば互いの分野により共通したペケペケになるかもしれませんよね」っていう方が、その場しのぎとしては前者のほうがいいだろうけど、有意義な時間を過ごすなら後者のほうがダンゼンいい。
結局のところ予習しなきゃだめだよっていうことなんだけどね。
私は、自分のような人間は、こんな人生の悪いくじをいっぱいひいて生きてきたこんな人生なんて、なくてもいいや、と思って生きていたもんでした。そんな中でひとりの牧師さん、その家族との出会いの中で、自分の人生っていうのが、意味があるんだ、価値があるんだ、自分は自分でいていいんだ、ということを感じるようになりました。
私にとって視覚障害ということ、そして混血ということ、そして親にほうり出されてきた、そんないろんなことを考えるとすべてがもうマイナスに見えてきて仕方がなかったんです。まさにコンプレックス、劣等感のかたまりでした。
でもそういう中で私が歌を勉強したいと思って、神戸に住んでおられたイタリア人のバランドーニ先生のところに勉強にいったんです。世界的ないろんな歌手を育ててきた先生なんですけども、私の歌をちょっと聞くなり、「この声は日本人離れした声だ。日本人にはない、何か明るいラテン的な匂いのする、オペラを歌うようなそういう音色がある。どうしてこういう声が出るんですか」って言われました。その時私ははじめて自分の話をしました。父の話をしました。メキシコ系ラテン系の軍人だったということを話しました。その時に先生が私に言いました。「この声は神様から与えられた楽器だ、だからこれはしっかりみがいて用いなさい」って。嬉しかったですね。自分がコンプレックスのかたまりだった、自分が混血だとかハーフだとか言われて、そのことが嫌だった。でもそのラテン的な血を半分もらったということで、むしろこれをプラスにとらえていく、この楽器をうんとみがいていく、そんな気持ちに変わったんです。
人間、生身の肉体を持った私たち人間ですから、どうしても利害、打算、損得、そういう世界に生きてしまいがちなんですけども。人とくらべて生きる、人を気にしていく。しかし本当はくらべる必要は全くないわけでして、くらべようとするからねたみだとか嫉妬だとか、そんなものがいろいろと起こってくるわけですね。自分が、あるがままの自分でいいんだ、自分以上である必要もないし、自分以下である必要もない。あるがままの自分を受け入れる。
ですから、よく「自信をもって生きる」という言葉がありますけども、「自信を持つ」ということは別に人とくらべて自信を持つということではない。自分は自分でしかないっていう、ある種のうなずき。それをしっかり持っていれば、私たちはいろんなことがあっても乗り超えることができるんじゃないでしょうかね。
最近、20代くらいの若い音楽好きの間で、DJイベントがかなり流行ってるようだ。
確かに、CDJも普及して安くなったし、それが出来る場所も結構増えたので、そう言ったイベントが増えるのも頷ける。
しかし、そういうイベントをやって、音楽をやった気になってるのではなかろうか。
10年~20年前の世代だと、音楽をやりたいとなるとギターを手にとってたのに、
今ではCDを持って再生ボタンを押すだけで音楽をやった気になっているように見える。
「オレ、ポリシーもってDJやってますから!」みたいな奴もいるが、
所詮は人の表現借りてるだけで、何偉そうな事言ってやがるんだ、とか思う。
好きなアーティストの歌詞をコピペして、自分を表現した気になってる奴も同様。
確かに友達同士が集まって、音楽をかけてはしゃぐのは楽しいが、
Yahoo!ブログ検索で地域情報を検索してたりするのだが、このワードサラダバカが鬱陶しくて仕方がない。こういう手合いに宣伝を依頼してるのはどういう神経なんだろうか?
こいつらは一見ノーマルなブログの体裁ながらコピペしたようなワードサラダエントリーを織り交ぜている。
少し検索しただけで以下のものが見つかった。
http://henteko.blog13.fc2.com/
http://kimagure2007.blog108.fc2.com/
http://hun0501.blog58.fc2.com/
http://konnrokoganemochi.blog100.fc2.com/
http://okodukaidehappy.blog88.fc2.com/
http://decencia.blog63.fc2.com/
http://cucucci.blog33.fc2.com/
http://mk2mkkh.blog91.fc2.com/
http://yfhatiyomunobo.blog68.fc2.com/
http://sionn15.blog106.fc2.com/
http://necocotry.blog43.fc2.com/
http://sugarplanet.blog56.fc2.com/
http://forevergirls2009.seesaa.net/
http://ninjapressblog.seesaa.net/
http://tororin-yunika7.seesaa.net/
http://doragonzissen.seesaa.net/
http://ameblo.jp/happy-familylife/
http://turezure.blogmin.jp/1456711.html
http://nodiggity.cocolog-nifty.com/blog/
http://do-akiey.at.webry.info/
http://blog.livedoor.jp/maedatmj/
http://blog.livedoor.jp/c_o.b_c/
どんな業者なのか、はたまたマルチなのかは知らんがこんなことに荷担するヤツらはみんな超嫌われてしまえ。くそったれ
ちなみにこのワードサラダを使って宣伝しているWebは以下の通り。リンクすることである程度アクセスされてしまうのが不本意だが、晒す意味でリンクしておく。
^全身脱毛ができる脱毛エステサロン【ルイーズ銀座】東京銀座駅徒歩3分
基本的に浅く広くというのがそういう人たち。
マンガだって一回読めばいい訳だし、楽器色々やってても一つ一つが上手い必要もないし。
だから、あなたがそういうのに興味もてないなら、一つのことを深くやるのもいいことですよ。
彼らのような浅く広くでは見れない世界を見ればいいのでは?
マンガの話になれば「○○は全巻読んだ、途中はだれてるけど最後は面白かった」などといくつもの作品の感想を語ったり、そうかと思えばドラマやアニメを毎週欠かさず何本も見ていたり。
でもオタクというわけではなくて、いくつか楽器の経験があったかと思えば、スポーツの話題にもついていける。
そんな人たちの会話を聞いていると、そのどれも知らないし経験したことも無い自分からすると、「この人達はどうやってそのための時間を工面しているのだろう?」と思う。
自分は特別忙しい仕事をしているわけではないのだが、普段の生活でマンガを読んだり、映像作品を見ている時間なんてとてもじゃないけど確保できない。
どうやったら彼らと話を合わせられるのだろうか…?
ご指摘ありがとうございます。
ネットでは限界あるので公民館やカルチャースクール、あとは自分の足で近所に看板出てないかとか
でも平日昼間の時間が稽古の時間でなかなか都心まで出ないとダメっぽい。
技術を教わる以上は、自ら能動的に動けなくてはならない。
1から10まで憧れる事が出来るような、
教わる上で全て納得できるような、
そんな師匠を探す事から、
趣味は始まっているのである。
<<
これは納得しました。
自分は下手なので本当に一から十まで教わることになるから
それを面倒であと適当にって人だと辛い。
師匠の側にも上達に時間がかかるのを辛抱してもらうことになるので
その辺を繰り返しやってもらえるような個人教授に近いものを探しています。
日常的にプログラミングやってる人は、たぶん世の中にはたくさんいる。「仕事で必要だから」って人もいるだろうし、「趣味でやってます」って人もいると思う。僕はいまのところ、プログラミングは全然やってない。情報系の学部に所属しているので授業とかで一応勉強はしたけど、普段からガリガリやってるわけじゃないから成長してない。
趣味で日常的にコード書いてる人が、なんで書きはじめたのかすごく知りたい。
僕は昔から、パソコンに詳しい人にすごく憧れている。コーディングとか日々やってる人はすごく尊敬する。自分もそんな風になりたいと思う。でも、書かないから書けない。そう、「書かないから書けない」んだと思う。
たぶん趣味でコーディングやってる人から見れば「書かないから書けないんだよ。コード書けるようになりたいなら、なんでもいいから書けばいいじゃん」って思えるんだろう。それはとっても正論で、それを言われればまぁ反論はできない。
ただ、言いわけみたいになるけど、僕は「書きたい気持ちはすごくあるんだけど、どうしたらいいのかわからないし続かない」のだ。
このエントリを書きはじめてから気づいたけど、この感覚は楽器の練習に酷似してる気がする。僕はバンドをやっていた経験があるが、楽器に関しても僕はそんな感じだ。
僕にとって、楽器を演奏するのは、それ自体が目的ではなくて、その先にある「ライブをすること」が目的だった。僕は大学に入学し、軽音サークルに入ってドラムを始めた。サークルでは定期的にサークル内でのライブが開催されるので、趣味の合う仲間と寄り合ってバンドを組み、ライブで披露する曲の練習をする。ライブが終わったら、次のライブにむけてまた演奏したい曲を決めたり新しくバンドを組んだりする。そうしているうちに、だんだん体がドラムに慣れてくるし、得意なフレーズや手癖などもしみついてくる。オリジナルの曲を作ろうって話になっても、それなりにいい感じにやれる。練習してライブして、練習してライブして…そうやって僕はそれなりに上達した(決して胸をはれるレベルではないが)。
これは、「ドラムの教則本買ってきて、一人で家でジャンプやマガジンを叩いたり、時には一人でスタジオに入ってフレーズの練習をしたり…」というように、一人でやってるだけでは僕は絶対に続けられなかっただろう。「ドラムがうまくなりたい」という漠然とした理想だけはあっても、具体的な目標が見えないから楽しくないし、やりがいがないのだ。
コーディングに関してもたぶん同じような気持ちでいる。JavaScript入門とか独習Cとか、そういう入門書を買ってきて「とりあえず文法を身につけよう」ってやってても、その文法を身につけてどうしたいのかがわからないので挫折する。必要に迫られてるわけでもないしね。
バンドを組んでライブを目指して頑張る、っていうのはコーディングでは何にあてはまるんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20100222024116
けっこう話題になったサブカル系ブログで音楽何が好き?と聞かれたら
くるりと答えておけば安牌みたいな話があって、あるあるネタとして受け取ったんだけど
自分なりにそのあるある感の仕組みを考えてみてちょっとこれはいかんなと思った
いやいやいや、その前にさ「音楽何が好き?」って聞いてくる人ってバカなの。
相手にしたくないの。ほんとに。センス競争とかそういうのの前にさ。
前から疑問に思ってたんだけどさ「音楽何が好き?」って話題でどう盛り上がりようがあるわけ?
今じゃメジャーにインディーズ、ネットでしか発表してない人とかいろいろ入り交じって
本当に好きなアーティストを言ったってぜ~ったいに趣味が合ったりとかしないわけ。
「え、なにそれ、知らない」
「あ、そうなんだ……」
終了、みたいな。この質問は絶対に話題が盛り下がるNGワードなわけよ。
ホント不思議なんだけどこの質問する人ってこの質問で盛り上がったことあるの?
だってさー、万が一にも趣味が一緒だとしても「あの曲いいよね~」くらいしか広げようがないじゃん。
どうせこういうこと聞く人って楽器もやってないからその辺の話題だってできないし。
だからさ、わたしが言いたいのは別にくるりを出すのはセンス競争がどうだとかどうでもよくて、
「そんなの知らない」って言われないように、せめてそこまで場が盛り下がらないようにするための苦肉の策なわけ。
ほんとこういうこと聞く人ってバカなんだろうね。何の疑いもなく専門学校に入っちゃうんだろうな。
小学生までは近所の楽器店のピアノ教室に通ってた。会社辞めてフリーになってからは近所に個人でピアノ教室やってる所があると公民館で聞きつけてそこに通ってる。
検索の仕方をもう少し工夫すべきだと思う。
各種方面で専門学校が爆増している昨今、
溢れている講師サイドも生活の為にあちこちで受講生を募集している。
適当にググって終わってはいないだろうか。
それ相応の場所に足を運んでいないのではなかろうか?
かくいう自分は土日限定でブラジル人のプロギタリストに師事している。
一石二鳥にもなっている。
本人のモチベーションが違うお陰で吸収速度が恐ろしく早い(気がする)。
独学でバンドをやっていた時もあったが、
ごく初歩的な基礎から叩き直して貰ったお陰で以前よりも弾ける弾ける。
技術を教わる以上は、自ら能動的に動けなくてはならない。
1から10まで憧れる事が出来るような、
教わる上で全て納得できるような、
そんな師匠を探す事から、
趣味は始まっているのである。