はてなキーワード: ダンコーガイとは
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
だって、どうせダンコーガイの話なんてありがたがって聞くほどのものじゃないもん。彼の話って、
が1:3ぐらいで混じり合ってるだけで、いずれにしても読む必要ないもん。電車の待ち時間とかに携帯で読む暇つぶしにはいいけど、それ以上の面倒くさいところは読もうと思わない。
ま、アフィで儲けるために最適化してると思えばそれがいいんだろうけどね。想定読者じゃない人間にとっちゃちょっとね。
と言いつつ、英語読んでみたけど、こりゃひどいやw
もしかしたら通じるのかも知れないけど、一読してわかる文章ではないな。今日マクドで隣にいたアメリカ人のねーちゃんたちが大声でしゃべってた英語がひょっとしたらこんな調子だったのかもしれないと思う程度。日本人の女子高生のわけわからん会話と同様、聞き取りにくい上に内容がナイヨーだから、耳に入っても何も印象に残らないという意味で。
ざまあ、ってのは冗談だけど、毎日平均1時間くらいの動画制作でこの収入なんだから、dankogaiのアフィリ収入に負けないくらい凄いと思うよ。
何よりも、動画投稿者がこんだけの収益を得た前例がなかったので、興味深い。
ついでに言うと、そのブログははてブが5件ついているが、そのうち4人のブクマを覗いてみるとどうも最近利用し始めたユーザーみたいだ。セルクマくさい。
セルクマかは知らんが、一年以上前からニコニコで毎回二万再生以上の動画を100個くらいあげて来ている人だから、はてブ5件くらいは不思議ではないかと。
http://anond.hatelabo.jp/20081102061034
http://anond.hatelabo.jp/20081102081534
dankogaiざまあwwwwwwwwwwww
アフィ開始半月で30万。
ダンコーガイも真っ青。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50994693.html
dankogaiはアマゾンアソシエイトだけで60万円だそうだ。
これに加えてリンクシェアの成果保証とクリック保証広告、アジャイルネットワークの広告料が加わるのだから、軽く100万円くらいはいってるんじゃなかろうか。
クリック率が異常値になると、それだけクリック単価は下がるし、広告を出したいと思う広告主も減る。
実際にそのブログは3つある広告枠の一番はじめにGoogleの自社広告が出てる。ページ内にGoogleに関連する語句がほとんどないのにも関わらずだ。
ついでに言うと、そのブログははてブが5件ついているが、そのうち4人のブクマを覗いてみるとどうも最近利用し始めたユーザーみたいだ。セルクマくさい。となるとこのブログの作成者ははてなーなのか。そう考えるとdankogaiがどうこうって言ってるやつも自演なんじゃないかと思えてくる。
ちなみにAmazonアソシエイトのクッキー有効期間は24時間。ニコ動にはAWSを利用したニコニコ市場ってのがあるだろ。ニコ厨だったら1日1回はあれクリックしてんじゃないか?だからニコ厨信者がそのブログに来てAmazonで商品を買ったところで、ほとんどはニコニコ市場に収益を持ってかれると思う。
条件:競走馬の馬名は、日本の場合カタカナ9文字以内と決められています。
以下、順不同。
あーキリがねえやw
ちなみに、ほりえもん(笑)が自己の所有だった競走馬に、投票でとはいえ「ホリエモン」と名付けたのに実にガッカリした記憶は、俺はまだ古くない。
>ある常連ブックマーカーの雑感 id:I11 id:guldeen id:y_arim など
僕も書いてみるか。人を好き勝手に評価するって面白いなw
id:I11 は好きなブックマーカーだった。そこらのお馬鹿なイナゴはてサとは違う、芯というか筋というか。
あの狂気とたまに見せる鋭い考察は貴重だった。居たら迷惑、居なくても迷惑。でもやっぱり基本的に迷惑な人。
お気に入りに入れたが最後、id:guldeenのコメントでびっしり埋まってしまう困った人。
丁寧にコメントをつけるだけでも重労働だろうに、他人のコメントまで丁寧に☆をつけてくれる。はてブを一身に背負ったひと。
メンヘルキャラで売るのはもう辞めたのか?最近は誰と会ったとかどういう仕事をしたとか、けらましい。
先にことわっておくと、タイトルは大マジである。皮肉とかではけしてない。もう一つ、ここで言う池田先生とはあくまで上武大学大学院教授の池田信夫先生を指す。間違っても信濃町の名誉会長の某先生ではない。
なぜ俺が池田先生に心酔するか。それはその無邪気なまでの反骨精神だ。「無邪気」「反骨」なんてコトバは久しぶりに使った。
では、どこが「無邪気」で「反骨」か。順番を変えて「反骨」から触れていこう。
池田先生の、既成制度への対決姿勢はもはや既知のとおりである。それがゆえに、もしかすると池田先生は学究のフィールドで公的な影響力を及ぼしづらいという不利な立場に置かれているのかもしれない。
しかしながら、池田先生とは逆に政府・官庁の審議会や委員会に入り浸る学術関係者たちを、池田先生は「御用学者」と切って捨てる。実に鮮やかである。
それでは次に、どこが「無邪気」か。
自blogのPVがン十万を超えたと子供のように喜ぶ態度、そしてそれを恥ずかしげもなくエントリに上げてしまうこと、こんな愛すべきアルファブロガーを他に知らない。アルファブロガーとは皆おしなべてスノッブで、アクセス数なんかに小躍りして見せる人はいない。
じゃあ、ダンコーガイとかネタフルとかがアフィリエイトの売上を報告するのは何か。彼らがやっているのは、「これだけ儲かるのだからみんなやろう」と勧誘するマルチ商法と同じだ。小飼やコグレとかいう連中を支持する者は、今さらながらマルチは後発組が損をするという事実を認識しておくべきだろう。
話が外れてしまった。池田先生は、アルファブロガーを装うマルチ商法エバンジェリスト(笑)たちのような真似はしない。PVが増えたと言い素直に喜ぶ。自身の著作をこれでもかとばかりにページにレイアウトする。自身への批判・非難があればその本人はおろか批判・非難の載ったメディアに向けてもあからさまな敵愾心を見せる。
こんなに人間的でソウルフルでロックな池田先生、愛されてやまないわけがない。みんな池田先生が好きなはずだと俺は勝手に思い込んでいる。
俺も、池田先生の足元にも及ばないながらも、梅田望夫とか渡辺聡とか、あるいは先に挙げたような、アルファブロガーと讃えられつつインチキマルチ商法を広めてはばからない輩たちをいつかまとめて痛罵したいものだ。
http://b.hatena.ne.jp/y_arim/20080820#bookmark-9704834
y_arim illustration, また有村か id:feather_angel キモくて不快であるがゆえにこの絵はすばらしい。なのでぼくにかまわずどんどんやっていただきたい。まあ彼はタイトルどおりの意図で描いたんだと思う/だがダンコーガイへの愛はぼくのほうが上
あんまりに彼馬鹿正直かつ優しすぎるもんですばらしい
なんていうエクスキューズ付けてくださっとるようやけど、やっぱ不快
言われたらキャラ使って表現した二次創作者(この場合はi04)は落ち込むよね。
一次の人の「黙認」((つまり評価しないこと))てば、「二次創作者を傷付けない」意味ですることもあるかもな、って思ったよ。
はてなスターみたら「みなぎってきた」らしいな。
杞憂だった。i04も本望だろう。
ほら出た、マッチョワナビー。ビジネスで成功する人間だけが優秀じゃありませんから!留年したあげく就活で第一志望に蹴られて仕方なく滑り止めに入った田中耕一さんはあなたの基準で言うと優秀じゃないんでしょうね、へー。
だいたい、就職の勝ち組とか負け組とか言い出したのはあんただろうに。論破されると主張をくるくる変えるのはやめやめい。そんなんだからダンコーガイだのiaamgだのに簡単に操られるんだよ。あんたらがもう少し自分の頭で考えられるようになればコンサルなんて商売はそもそも必要ないんだってことを理解してくれよ、頼むから。
どう見てもiammgはコミュ強者なのにダンコーガイをはじめ全員が必死に釣られてること。後でiammgがコンサル内定もらってると聞いてさもありなんと思ったよ。
ダンコーガイにしてもiammgにしても、こういう上昇志向の強い奴の文章は行間から脂ぎったオーラがギンギンにじみ出てきて、読んでると疲れる。そもそも「コミュニケーション能力」とやらを煽ってきたのはこういう手合いなのに、今度はそれを肴にして自分たちがネットプロレス繰り広げて、それにはてなの愚民たちが釣られている。本当に誰も彼も救いようがないねー。
だいたいみんな、本当に「学歴なんて関係ない」なんて思ってるんだったら、あの程度の陳腐な作文に釣られるだの、ダンコーガイの自称中卒という逆学歴詐称の尻馬に乗ったりだのするなよ。いい年こいて学歴ネタに噴き上がるダンコーガイやらmkusunokやらもみっともないが、そういうみっともないコンプに先導されるはてな民はもっとみっともないぞ。
まあ、こんなこと書いてる自分自身、「金なんて関係ない」と割り切れないから、ダンコーガイにこんなに必死でみっともない嫌みを書いてしまうわけだがね。
はいはい
バカが通りますよっと。
そもそも大学にn年も居た時点で高学歴なのかどうかという話もあるがそれはさておき。
まじめに就職活動したことないからそれが大変なのか楽なのかもわからない。
京大は休学がタダでできるので、休学をフルにつかって遊んだ。
大学を出てから貯金が尽きるまでブラブラしてすごして、金にこまってはじめてプログラマになった。
すごいプログラマになるにはなにかすごいものが必要なのかもしれないけど
それなりでいいならすぐなれる。
ひとしきり金をためてはブラブラしている。
ブラブラしているところを除けば、たぶんダンコーガイの道に近いんだろうけど
この道は「オレさえよければいい」という道な気がする。
社会に寄与するところがない。
で、免罪符的に「おまえらもやったらできるよ」と言ってみたり。
そう書いて、自分にも思いあたるところがあってちょっとはずかしかった。
まぁ、類は友を呼ぶというやつで、オレの知りあいは何年も大学にいる/いたようなダメ人間ばかりだから、
そう言ってやるのが妥当なのかもしれない。
今はこれでなんとかなってるけど
最後にはホームレスにでもなるんだろうな。
ないよ。俺自身が高学歴だからね。隣の芝生の青さを考慮すれば、俺が受けてきた教育は俺の分野に限って言えば非常によいものだったと感じている。むろん学校の名前で損をしたこともない。
だから逆に言うと、そこから先は俺の実力勝負になる。教育や環境が悪かったから俺は出来が悪いなんて言い訳は通用しない。だから学歴がどうだとか考えてる暇なんてない。
そもそも、学問であれなんであれ、一番大事なのは「自分の頭で考える能力」だ。それは学校で学ぶこともできるし、学校以外のところで学ぶこともできる。これはダンコーガイ一派も同意するだろう。だからこそ、「お前は学生の分際で社会人様に向かって」とか属性差別してる奴がばかばかしく思える。そんなことすれば学歴差別されても文句言えなくなってしまうだけでしょ。属性差別という禁じ手を使ったのは自分なんだからさ。
はいはいそうやってわかった風なことを言わない。あなたが言ってる「知識の詰め込み」と「考える過程を重視」が何を指してるか、あなた自身の自分の言葉で説明してね。
あなたこそ、他人の借り物の言葉で日本の大学を貶めたいだけなんでしょ。その辺で思考停止してしまうのが「自分の頭で考えてない」ってことなんだよ。
学歴コンプ君がダンコーガイの尻馬に乗って高学歴を罵倒しても、実はダンコーガイは学歴コンプより高学歴人間の方にはるかに近い思考様式を持っている(本人は無自覚、というより気づきたくないのかもしれないが)ということに気づかない人は本当に滑稽だね。
マジレスすると、エリート教育のやり方の違い。日本では高校卒業時に詰め込み教育を行い、フランスでは高校卒業後に詰め込み教育を行い、アメリカではそれが学部後半以降になる、それだけのこと。
何のランキングだよ。ランキングなんかで大学の価値を測れると思ってる奴は、学歴で人間の価値が測れると思ってるぐらいの勘違いをしてる。
マジレスすると、Times誌のランキングなら東大(17位)>UCB(ダンコーガイの母校、22位)>京大(25位)。しかも、日本の大学は留学生受け入れ度で大損してることも考慮すべき。
日本の大学をdisりたくてアメリカの大学を持ち出すのは筋が悪いからやめた方がいい。日本の大学は世界的にもかなりレベル高いから。俺の体感でも、理系研究者の質は、米英のトップクラスには負けるかもしれないが、たとえばドイツやフランスよりも勝ってる。
ダンコーガイは経済的な問題でアメリカの名門大を中退したというのは有名なはず。
だとすれば、ダンコーガイは書類上はともかく、実質的にはよくある高学歴人間だ。
大検とか中退なんてのは別に珍しいことでもない。それこそ京大にでも多くいるよ。
実際のところ、ダンコーガイが知識を披露している文章の多くは「その道の人にはイロハのイ」程度のことをわかりやすく書き直したものであることが多い。彼が「頭がいい」と尊敬されている部分のかなり多くは、「高学歴者」特有のスキルと共通する部分なのだ。
そんな人間が、どうしてことあるごとに学歴を目の敵にして、中卒を自称(これはある種の学歴詐称だと思う)するんだろうか。なんか意図があるのか。
自分もいい大学で勉強したのなら、学校で学べることの凄さも限界もある程度は自分でわかってるはずだろう。
学校で学べることというのは確かに限られた知識だ。だが、それが何の役にも立たないだとか社会での優秀さと何の関係もないと言ってしまうのは言い過ぎだ。
単なる知識の積み重ねは百科事典やGoogleが代替できるとうそぶく奴らは、知識の恐ろしさを知らない。現代文明はまさに、古代からの知識の集積の上に成り立っているのだ。これが「つまらないこと」であると言ってしまうのであれば、世の中に面白いことなどなにもないのではないか。
また、学校の勉強が人格形成と無関係というのも大嘘だ。何かを一生懸命努力した人間は、怠惰に過ごした人間よりは確実に何かを得ている。スポーツ選手や芸術家にたとえてみるとわかりやすい。彼らの中には社会性が欠ける人間も多くいるかもしれないが、人間性が薄っぺらい奴は少ないだろう。程度の差こそあれ、高学歴者にも似たようなことが言える。
そして、ダンコーガイを崇拝している自己啓発大好きな人たち(マッチョワナビー)の特質を見ていると大笑いだ。彼らは学歴が大嫌いだが、彼らの思考回路は受験勉強のパロディそのものなのだ。
よく考えてみるといい。就活オタクは、受験オタクと何が違う?セミナーで「コミュニケーション能力」や「人間力」を鍛え、ギョーカイ人とのコネを自慢する彼らは、模試や夏期講習などで予備校に足繁く通い、カリスマ講師を崇拝する受験生と何が違う?
ITのなんちゃってエンジニアたちも同様だ。「ITは学歴無用の実力の世界」というが、従来型の技術の世界なんて昔からそうだ。「大学は不要、Webで学べる」と言ってる人間も多いが、単にIT(というか一部のコーディング技術だね)が学問として未成熟で断片的な知識の集積だから、キーワード検索した結果を画面上で閲覧するだけで事が足りてしまっているだけの話なのだが。アカデミックの発祥期の真似事をしているとてもほほえましい世界としか俺には思えない。
もういい加減、学歴は役に立つか立たないかなんてつまらない二分法はやめたらいいのに。学歴もビジネスも所詮手段だろうが。勉強ができる人間と金を儲けられる人間はどっちが偉いかなんて、本当にくだらんよ。
「没落エリートの出現」
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217359666
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51088798.html
「弾氏への応答」
http://d.hatena.ne.jp/iammg/20080730/1217439217
はてさて。
一言書きたくなったが、
はてな村に入村して日が浅い私は個人ブログでこの件に関する記事を書く勇気がない。
だから匿名でやるお!
でもこれってすごく特殊な環境にいる人たちだよねーというのが最初に抱いた感想。
まかりなりにも一流といわれる大学に席を置く私が思うに大学なんてお遊びの場だし、社会に出て立身出世するには「一流大卒」の肩書きが未だ必要なのだからじゃあ通って卒業しようかー程度のものである。
就職活動も世間や給料と相談しつつ、一応、一流と呼ばれる企業から内定をもらった。
なんら恥じることはない人生である。
恥じることがあろうとすれば私がアホウであるということくらいだろうか。
が、周囲も私以上にアホウであるので別に気にしない。
ましてや腕一本で人生渡っていこうなどというマッチョなどでもない。
そんな私から見るに、
今のシステムは別にさしたる問題もなければ不満もない。
京大でもおそらく似たようなものなのだろう。
身の丈をしっかり見るとか、足ることを知れば就職など近年は余裕である。
大学教育がお遊びでしかないのだー!云々との言はもっともであるが、
ましてやコミュ力なんかが問題なわけでもない。
変なこだわりや存在しない自分探しに没頭する姿勢こそ問題なのであって、
その泥沼を生んだものこそ能力だとか何だとか言う何かよくわからない西洋的なものなんじゃないだろうか。
年功序列…あぁ、甘美な響き。
個人的には30前くらいで嫁さんをもらい、子ども3人を立派に育てつつ定年まで勤め上げ、嫁さんと茶でも飲みながらまったりした老後を暮らしたいものだ。
そして小飼氏。
西洋的な何かにおける雄みたいなところがあるよね!
たぶんすごくすごく、自分なんかが一生かかってもとどかないくらい能力がおありなんだと思う。
でも、あなたはたぶん究極的なまでに特殊な人種ですよ。今の社会の中では。
平均化された集団の中ではやはり学歴が高い者ほど能力が高いし、(3割くらい例外がいるかも)
私がこれまで見聞きしてきた経験でもそれは実感している。
きっと小飼さんから見れば私達のような没個性的で唯々諾々と社会のベルトコンベアーに乗ってる人間はブタにも等しい存在なんだろう。
自分の先輩も後輩も似たような考え方であるし、同級生らも似たり寄ったりとなれば、多数派であると言って大丈夫だと思う。
なんだかバカバカと連呼されていることに釈然としないものを感じるが、
バカだってバカなりに生きてるんだよ!
それでもがんばって生きているのです。
それをあまりバカよばわりしてもらいたくない。
せめてアホウと言ってくれ!
それに暗に死ねと言われても
この根性、もう直りませぬ。
みなさまご期待ください。と言いたい所だが、
私達だってこれまでずっと殻の中から社会を見てきた。
志すところだってある。
変えていきたいものもある。
その辺を少し生暖かい目で見守ってもらえませんかねぇ!
書いてみてすごく支離滅裂になってしまった。
己の魂の未完成を恥じる。
追記
まぁあれだ。
俺は馬鹿で非コミュで非モテだった。完全な負け組予備軍だった。
唯一できたことは、人並みよりわずかに多めに努力することだ。
紆余曲折を経て、馬鹿にされ続けて、何度も悔し涙を流して、少しずつ格差の階段を上っていった。
現在の俺の社会的地位は、負け組よりも勝ち組の方にだいぶ近い。
ここまで来ると視界が開けて風通しもよくなるし、あと一踏ん張りで、かつて望んだものは大抵手に入るだろうという見通しも立った。
それに満足するつもりは少しもないが、とりあえず次の段階に至るまでの足がかりとはしておきたい。
そうなって、はじめて気づいたことがある。俺は、社会的にはともかく心情的にはいつまでも負け組なのだと。
だから、俺は勝ち組を憎み、負け組に共感を抱く。くたばれ成果主義、万歳年功序列だ。
だが、ブクマのこれやこれを見る限り、負け組の多数は負け組をこそ叩きたがるものらしい。
彼らにとっては「男」や「高学歴」は仮想敵そのものであり、これが没落して「非モテ」や「ワープア」となると、絶好の叩きのターゲットなのだ。
これこそが、マッチョがさげすむところの卑しい負け組的心性であり、上のブクマの元記事が諦念とともにまなざしていたものなのだろう。
そうだとすると、俺はいったい誰に味方したらいいのだろう。
成果主義を導入すれば若者こそが冷遇されるのに、年功序列を擁護すると団塊の既得利権の回し者扱いされるのが好例だ。
負け組の多数派は、いったい誰が味方で誰が敵かわかっていないのだ。はてなにダンコーガイ信者があれだけ多いことなどその証左じゃないか。
俺はいったい何のために格差の階段を上っていたのだろう。上れば上るだけ疎まれるだけなのに。
がっかりだ。
あれはいつごろのことだったかな。たしか、大学二年の……夏、そう、ちょうどこんな季節じゃなかったか。
あのころ。
僕は純正の非モテで、学校も苦労して入ったけどすごく面白くなくて、サークルもなんかうすっぺらいやつらだな、ぐらいしか感じなくて、ひどくやさぐれていた。
丁度、ゼミ選択が来年にあったから、いろいろ調べてみたりとかしてるうちに、文系ポスドクの現実なんかもちょっとずつ理解して、研究の夢が凄まじい音を立てながら雪崩落ちたのもひとつの原因だったのかもしれない。
とにかく、僕はそんな状態で、ひとり部屋にひきこもって、ずっと安売りのアクエリアスなんかを飲んでた。
カーテンはずっと閉じたまま。部屋にともる明かりはPCのディスプレイだけ。そんな生活だった。
そんな僕が、あのときはてブのホッテントリに上がっていたこのエントリを見たのは単なる偶然だったのかもしれない。
いつものようにOperaでスピードダイアルに登録してあったニコニコ動画を見る前に、ちょっとチェックして、僕は、衝撃を受けたんだ。
そこにはまさに僕がいた。
このリスト;
- 「だって俺だけベリーハード設定なんだもん。残機も回復アイテムもないし敵は鬼のように強いし、やってられないよ」
- 「女と付き合う(結婚する)ことでかかるコストはこんだけ、対して見返りはこんだけ。割に合わなすぎる!」
- 「恋愛至上主義社会に組み込まれたが最後、俺たちは搾取され捨てられるだけなんだ。そんな社会に参加したくない」
- 「でもイケメンじゃないし」「でも結局イケメンじゃないから相手にされないし」
- 「俺のことなんかほっといてくれ」
- 「結局○○ですね、わかります」
- 「○○や△△の良さが判らないような人種なんて・・・」
- 「女は信用できねえ!」
- 「女は怖い生き物だ、嘘つきだし○○だし△△だし□□だし・・・」
- 「スイーツ(笑)」
は、完全に僕の口癖だった。
ひとつ付け加えるとするならば(このために僕は特定されてしまうかもしれないけれど)僕は「恋愛は性欲と友情の合力で、馬鹿どもはそれを勝手に勘違いして、崇拝しているにすぎない」って思ってたところだろう。
それにしても、これは、ひどく衝撃だった。
自分の気持ちが暴かれた気がしたんだ。そして、僕は、この試験期間と残りの夏休みを有意義に使う算段を建て始めた。
僕がとった戦略を、ちょっと説明してみたいと思う。
基本は単純だった。
これだけ。
ああ、あと、適当に服には気をつかった。
成人式のために買っていたスーツを着て、僕は適当に買った雑誌を参考に、高い服を買いまくった。
ポロシャツで\15,000ぐらいしたのはほんとうに辛かった。
それで、Built to spillやSpoonのCDが何枚買えるんだ。
そして、具体的な戦略に話を進めていこうと思う。
基本の戦略を守ったところで、コミュニケーションを行う相手が見つからなければ話にならないから、僕は、当時の環境を悪用する手段をとった。
試験期間は、基本的にひとりぼっちである非モテにとって苦痛の期間だった。
エレベータで一緒になったときに(僕の大学は山の中腹にあって、エレベータなどの移動手段なしには移動が辛い)、リア充とおぼしき男たちが、「試験期間なんて友人の量の差だよなー」なんてことを言ってたけれど、実際そうだと思う。
なぜひとりぼっちだと辛いのか、というと、ノートのコピーがもらえないからだ。
きちんと出席なんてしてない上友人もいない非モテには、そういう意味で辛いのだ。
だけど、僕はこれを悪用しようと思った。
ようは、試験前に、30分ぐらい早く行ってすわり、ぼくは勉強ができそうな人(できれば女子)におもむろに話しかけるんだ。
そして、基本の戦略を守りながら、「前回のノートないんだ」「貸してくれない?」って依頼する。
ノートも借りれて、女子とのコネクションも作れる。割と良い案だったと思う。
何回かは失敗したけれど、六割以上では快く貸してくれることが判明した。
僕はそんなにかっこいい外見をしていたわけじゃなかったからこのぐらいだったのかもしれない。
が、何人かの女子も「試験情報共有しない?」みたいな提案にも乗ってくれて、そのあと友人として連絡をとってる人も少なからずいる。
あと、けっこう男のほうが拒否る。
とりあえず。
ここで、コミュニケーションというものは、そんなに難しいものではなかったことが判明した。
というのも、僕はもともと関西人で、無理やりハイテンション状態を維持すれば、土曜の昼に小学校から直帰して毎日食い入るように見つめていた吉本新喜劇のリズムでコミュニケーションをとることができたから。
女の子を笑わせることすら、修練を積んだら出来るようになったし、自分がこの娘の笑顔を作ったんだ、と考えて、少し誇らしい気分にもなったりした。
ほんとうに楽しかった。今でもそう思う。
これは結構重要なことだった。
初めの試験の話で、何人か連絡を取る友人ができた。
何人かの女子は、これを自分が怠ったために連絡が遠くなった。後悔した。
作業に熱中している際に邪魔されるのは非常にうっとおしいことだ。だが、それで、相手が「つながっている感」を感じてくれるなら、そんなに悪いものではないかな、と思った。
当時は女子にだけ、この戦略を僕は適応した。だが、あとで気づいたが、男子にもこの考えは蔓延していたのだった。
「メールは十分以内」どこかでそんなものを読んだように思うが、一度男の先輩に普通はそうだろ、なんでお前は・・・なんて、切れられたことがあった。
これも、後々考えればわりと重要なことだったように思う。
二回生、ということもあったので、サークルによく出席しているのは、三回や四回の先輩が多かった。
そこで、僕はできるかぎりコミュニケーションをとることを意識した。
そうすると、もともと捨てるものも無かった僕は、何かに愛着を抱き、それを守るためにキモチワルい行動をすることもなかったので(たとえば、特定の女子にたいする愛着とか)、わりと気に入られることができるようになった。
二ヶ月程度はかかったように思うが、それだけの見入りはあった。
合コンとか飲み会とかにも呼ばれるようになり、先輩の顔を立てて適当にちょこちょこ動いていると、また声がかかるようになった。
また、その合コンから、初めての彼女が僕にも出来ることとなる。
当時考えた戦略というのは、こんなところだったと思う。
今羅列してみれば、まったく練られていない、そして何がしたいのかも見当たらない、と、ダメな点は多々出てくるが、それは当時の若さに罪をかぶせ、不問に付そう。それに、それでも十分に効果はあったから。
友人、というコネクションが出来れば、非コミュの鎧はすぐに剥ぐことができた――そんなことすら、考えないでよくなるんだから。
そして、人生初の彼女というものも、それを起点にできることになる。
それからは早かった。
大学在学中に、いくつもの女性と閨を共にした。そのうちの何割かには振られたが、そのうちの何割かは振った。
就活は穴場だった。可愛い子がいっぱいいて、内定が決まっても受け続け、友人みんなで可愛い子がいるところの情報を回しあった。
こいつだけは大事にしたい、俺が幸せにしてやりたい、と思った女性に振られたときは悲しかったし、
逆に自分がそう思われていてうっとおしくなって振ったこともあった。
だけれども。
今、自分に何が残ったのか、と考えると、どうにも胸が痛い。
僕は何も残してはこなかった。彼女達にも、何も残してはやれなかった。
また、彼女達が、僕に作ってくれたものも無かった。
マフラーは6本。指輪は無数。ジッポーは3つ。セーターを編んでくれた裁縫が大好きな子もいた(そしてマフラーの半分は彼女の手によるものだ)。
だけど、僕の心の奥底に何かを作ってくれた娘は、結局誰もいなかった。
その理由は、彼女たちとのコミュニケーションが、とても上辺だけに終始したためだ。
僕は、やはり愛というものが、性欲と友情の合力であり、その生物学的に正当な劣情を、美化するために名付けられたものだという直感を拭い去ることはできなかった。
ポップ・ソングは今でも恋愛を歌っている。
それを僕達が聞く時、僕達はいったい何を思い浮かべる?
私は、自分自身の思い出じゃないかと思う。そして、その思い出は、否応なく美辞麗句でデコレーションされている。
その時感じた感情は「レンアイ」に昇華され、まるで崇高だったもののように扱われる。
僕が出会った女の子達は、皆心のどこかでそういう慰めを得ていた。
だからこそ、終ぞ彼女達の中では、僕という像は、僕ではなかったように思う。
彼女達は、僕というレンズを通して、違う像を心の中に結んでいたのだ。
レミオメロンの劣化コピーであり、くるりのボーカルの劣化コピーであり、ジャニーズの劣化コピーであり、TMレボリューションの劣化コピーであり、そういう僕を通して、彼女達の理想像である幻想を。
非モテを語るあなたたちは気づくべきだ。
自分自身が作り出した、その鎧があなたの動きを緩慢たらしめていることの無意味さに。
非モテを批判するあなたたちは気づくべきだ。
自分自身の、その見えない鎧――レンアイという言葉で、または、空気を(読む|読まない)という言葉で、あいまいさを作り出し、そのあいまいさの中で自分自身を安住させていることの空虚さに。
そろそろ夜明けが近づいてきた。
願わくば、あの、昔のホッテントリのエントリから長々とはてな匿名ダイアリーで続き、otsuneとid:fromdusktildawnによってかき回され、ダンコーガイとココロンの参入を許し、はしごたんやハーブマイスター(2008年に増田論客としてデビュー)の人生をひっかきまわし、id:jkondoとid:naoyaの不和までを生み出し決別させ、2012年の現在に至るまで終りなく争われたあの……不利益な議論が終りを告げ、