俺は馬鹿で非コミュで非モテだった。完全な負け組予備軍だった。
唯一できたことは、人並みよりわずかに多めに努力することだ。
紆余曲折を経て、馬鹿にされ続けて、何度も悔し涙を流して、少しずつ格差の階段を上っていった。
現在の俺の社会的地位は、負け組よりも勝ち組の方にだいぶ近い。
ここまで来ると視界が開けて風通しもよくなるし、あと一踏ん張りで、かつて望んだものは大抵手に入るだろうという見通しも立った。
それに満足するつもりは少しもないが、とりあえず次の段階に至るまでの足がかりとはしておきたい。
そうなって、はじめて気づいたことがある。俺は、社会的にはともかく心情的にはいつまでも負け組なのだと。
だから、俺は勝ち組を憎み、負け組に共感を抱く。くたばれ成果主義、万歳年功序列だ。
だが、ブクマのこれやこれを見る限り、負け組の多数は負け組をこそ叩きたがるものらしい。
彼らにとっては「男」や「高学歴」は仮想敵そのものであり、これが没落して「非モテ」や「ワープア」となると、絶好の叩きのターゲットなのだ。
これこそが、マッチョがさげすむところの卑しい負け組的心性であり、上のブクマの元記事が諦念とともにまなざしていたものなのだろう。
そうだとすると、俺はいったい誰に味方したらいいのだろう。
成果主義を導入すれば若者こそが冷遇されるのに、年功序列を擁護すると団塊の既得利権の回し者扱いされるのが好例だ。
負け組の多数派は、いったい誰が味方で誰が敵かわかっていないのだ。はてなにダンコーガイ信者があれだけ多いことなどその証左じゃないか。
俺はいったい何のために格差の階段を上っていたのだろう。上れば上るだけ疎まれるだけなのに。
がっかりだ。
憎まなくていいし、憎まれることはなくならないから悩んでも仕方がないよ。 どんな人でも憎まれることはある。キリストやガンディーでさえ。