はてなキーワード: シニカルとは
http://anond.hatelabo.jp/20070606142108
こういう論を展開する人を見るとどうしても
と思う。
ていうのは、この人自身『感情の上には理性があるべき』とか
>「機械的に飯食って仕事して誰と話するときでも冷静沈着でどんな物事でも第三者目線で考え」られるような人間というのは、実はかなり理想だ。』
とか言っている割に、本人がそうなりきれてないからだろう。
本当に『感情の上には理性がある』人なら『感情』に対する『理性』という一般にあるような対立項を安直には採用はしないはずだし
(そもそも感情なんてものは他の“モノ”のありようと同じに“ある”と言ってしまっていいのか?とか)
そもそも『感情』という語についてどう考えるかについて何がしかの学説を採るなら採る、独自の立場を採るなら採るでその立場を明示するはずだ。
思うにこの人、所謂ネガティブ感情を理性的に捕らえているんではなくて好悪の情(これもまた『感情』と捕らえるべきだろう)で捕らえてるんではないかな?
…とまあ、その辺りは別に「そういう考えの人もいるよね」ってことでいいんだけども、
>ニヒリズムって言うのかは知らないけど、考え方の底がシニカルなのは認める。懐疑論者だし。
の一説だけはちょっと我慢ならない。
上に述べたように誰が見ても分かる、いわば考察の甘い点がゴロゴロ残っているというのに安直に『懐疑論者』だの『ニヒリズム』だの『シニカル』だの言ってもらったのでは困る。
もっと信ずべき、信じたい対象があるのにどうしても理性的に考えるとおかしい、その点を徹底的に考えていくのが本当の懐疑論者だと思うし、
その末に「駄目だ、やっぱり本当は『無い』んだ」となるのが本当のニヒリズムのはずだ。「自分は懐疑論者である」なんて言う懐疑論者は字義的に言っても間違ってる。
何よりそんな甘い(ゆるい?)考察の時点で自分を『懐疑論者』『ニヒリズム』と決め付けるのは危険だからね、いろんな局面で。
もし本当に本人の言うように生きてゆきたいならば、もっときちんと、徹底的に考えた上でそうすべきだと思う。
元記事の増田ですが、こんなに反応されるとは予想外でした。それだけ一般から外れているのでしょう。
まあ、指摘されるような部分もあるので、上から目線で見られるのも分かる。
彼女に傍にいてほしいと思っても、それが彼女の意思に反していれば相手を尊重するのは僕にとって当然。好きで好きでどうしようもないくらい好きなら、むしろ相手の意思は尊重するべきなのではないかと。
それにしても、人間ってそこまで欲望に凝り固まってるものなのだろうか。その思考が不思議だ。
人見知りな上に寡黙だが、感情ゼロではなく、喜んだり笑ったりは普通にある。祖父の葬式では、意外にも涙が出た。
感情表現の閾値が平均より高いのだろう。特に「妬み」「怒り」「憎しみ」となると、さらに閾値が高いようだ。
ある程度打ち解けると、かなり話したり感情を見せたりはするのだが、そこまでが長い。
「機械的に飯食って仕事して誰と話するときでも冷静沈着でどんな物事でも第三者目線で考え」られるような人間というのは、実はかなり理想だ。
少年時代は空条承太郎に憧れていたが、大人になった今は吉良吉影に近いのかもしれない。静かで秩序ある穏やかな生活が好きだ(でも結構自堕落な面があったりもする)。
「好きの反対は無関心」……まさにその通りだ。「好きか、嫌いか」ではなく、「好きか、フラットか」。
ネガティブな感情を抱くと自分の心にも周囲の人間関係にもマイナスにしかならないと思うのに、なぜ皆はそんな感情を抱くのか不思議でならない。しかし皆が僕のような考えなら、この世から戦争はとうに消えているわけで。
「人間同士で主観全開で」ぶつかり合っても、テレパスじゃないのだから完全な理解は不可能だろう。
だけど「情けないくらい感情ぶつけないと解らないことや見えない事もある」というのはおそらく大多数の人にとって事実。なぜなら僕は少数派だから。
ニヒリズムって言うのかは知らないけど、考え方の底がシニカルなのは認める。懐疑論者だし。
上から目線の人は、たぶん自分が多数派なのを自覚しているから。人間なのである程度は仕方がない。そして僕は全く気にならない。
会ってみたいものです、達観した女性。
「『あまえる』ということについて」を読んで
http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20070515/p1
上記ブログではこの本の中の小学校二年生の中村咲紀ちゃんという少女が書いた
「『あまえる』ということについて」という題名の「セロ弾きのゴーシュ」の読書感想文を、
上手に引用してわかりやすく内容を紹介しているのだけれど、
これが8歳の少女が書いたとは到底思えない見事な感想文なもので、
びっくりして早速本を注文してみたよ。
で、届いたので、昼休みに近所のカフェでカレー食べながら読んだー。
泣いた、カレー食べながら泣いたー。
でもその涙は一言では言い表せない複雑な感情から出たものだった。
第一にここまで厳しく自己言及せざるを得なかった、
彼女の寂しさや苦しみが伝わってきて胸がヒリヒリした。
彼らは自分を客観視することがないから。
「遠足に行きました、楽しかったです。」と書く一般的な子どもの表現力が拙いのは、
感受性が鈍いからではなく、表現する必要がないからではないか。
子ども特有の万能感が薄れ、矛盾や理不尽、欺瞞をはらんだ世界を、
自分の外側のものとして意識し始めるのは一般的に思春期頃といわれている。
世界との断絶こそ、子ども時代の終わりをつげるもの。
その頃になると自分の葛藤を表現したいという欲求や、
誰もが身に着けていくのだけど、
そういう言葉を8歳の子が身に着けているというのはどういうことだろうと思った。
感受性が豊かなさきちゃんにとって、幼い彼女を取り巻く世界はあまりにも過酷だったのではないか。
もちろんそれが単に悪いこととは言わない。
そのことによってこれだけ自分を見つめる力と、
それを表現する力を身につけたのだから、素晴らしいともいえる
だけど、この完璧すぎる素晴らしい文章の影には、
彼女の言葉にならないたくさんの苦しみがあったと私は思うんだ。
潔癖なまでの理想の高さが痛々しく思えた。
それは美しく貴いものだけれども、
こういう美しいものが美しいままで生きられるほど、
世界は美しくないというのが現実だと私は知っている。
彼女の純粋さと高い理想は、確実に彼女のその後の人生を生き難くするだろう。
こういうところに彼女の危うさを感じてしまう。
どんなに探しても「本当」が見つからないときもあるし、
自分や他人に嘘をついてでも、「めでたしめでたし」じゃなくても、
彼女のように感受性の強い人が、知らないで済むはずはないと思ってしまう。
さきちゃんには、嘘をついてでもいいから、たくましく生きてほしいと祈る気持ちになった。
大体は予想通りの反応だったんだけど、
一件私の気が付かなかった点に言及しているブログがあって、
ほほーっ!と思った。
http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070517/1179410983
うーん、私が感じた不自然さはこういうことなのかもしれない。
さきちゃんは天才といって過言でないくらいの表現力を持った子だけど、
その根源には母親に愛されたいという強い気持ちや、
第三に、そういったこの感想文にまつわる複雑な感情は抜きにしても、
これはやっぱり凄い文章で、感動して泣いちゃったわけ。
こういう純粋な気持ちを忘れないでいたいですね、と陳腐にしめます。
以下羅列。CMの内容を勘違いしてたり、他にも何かあったら教えてください。
http://www.youtube.com/watch?v=xWkZ_StRjU0
http://www.youtube.com/watch?v=VtNndVomxcs
http://www.youtube.com/watch?v=bizJWtJ0xXo
http://www.youtube.com/watch?v=BpnZXP-BV3Y
http://www.youtube.com/watch?v=8FTnJMWyeRA
http://www.youtube.com/watch?v=NeoPcEIypwA
http://www.youtube.com/watch?v=mrrwtXaC_ro
http://www.youtube.com/watch?v=jFKglFtwSLM
番外
http://www.youtube.com/watch?v=DY7MA3fkzd8
http://www.youtube.com/watch?v=cjpuBLhf9a4
気づいたらもう「今年度」じゃなくなってる・・・。
今年こそこんなアホ動画見てないで実践に移さないと・・・。
ああ!一行上の文もエイプリルフールにちなんでしまえばいいのに!ちなんでしまえばいいのに!
10代の頃は、中学受験に勝つためなんて参考書読んだり、日能研のテキスト読んで、受験には、「考える力! 論理力! 国語力!」が重要なんて言葉ばっかに触れると、そうか論理の勉強しないと、数学や論説文読解の勉強しないとって思ってる。
同世代の中学生ってもんになんとなく反発して、ブルーハーツ聞いて「この世の中なんて腐ってる」なんてこと言ってる奴らはバカなんじゃないの? なんてこと思ってる。
浜崎あゆみを聞いて、あたしは孤独だなぁ、なんてヒロインきどってみたりする女は、『DEEP LOVE』でも読んで安い感動してればいいんじゃないかなとシニカル気取ってる。
でも大学生になってセックスへの未知への恐怖をこじらせて、あぁもうすぐ卒業ねって、社会に出ること考え出すと、DQNとの会話ってのも現実にしなきゃなんないから大変だなって気づき始めて、10代の頃の棘が擦り切れてくる。
一般人との話題を合わせるために、なんてR25読んだり、日刊ゲンダイ読んで、社会人には、「ノミニケーション! 生きる力! 人間力!」が重要なんて言葉ばっかに触れると、そうか飲み方の勉強しないと、人間性の勉強しないとって思えてくる。でもさぁそんな自分に違和感感じることもあるんだよね。なんか大切なもん忘れてないかって。理性をさ。屈折をさ。
10代の頃は、今から考えると中二病に侵されて、同世代のことバカにして、マスコミのことバカにして、ほんま厨房なことしてたなって思うけど、なんかこのままじゃ嫌とかなんか自分の手で変えてやろうとか言うあの先輩死ねよ、人間力では負け組ですが何か? みたいな屈折があったと思う。
厨房くさいけど、そういう屈折忘れちゃいけないと思うんだね。大人なって社会人なっても、みんなの聞いてる音楽はとりあえず貶したり、文学って言葉に反発したり、恋愛の話題とか何言ってるのか判らなかったり、自分に絶望したり、情熱じゃない屈折、冷笑の声ってもんに耳傾け続けられる人間になりたいってほんと思うのさ。