「『あまえる』ということについて」を読んで
http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20070515/p1
上記ブログではこの本の中の小学校二年生の中村咲紀ちゃんという少女が書いた
「『あまえる』ということについて」という題名の「セロ弾きのゴーシュ」の読書感想文を、
上手に引用してわかりやすく内容を紹介しているのだけれど、
これが8歳の少女が書いたとは到底思えない見事な感想文なもので、
びっくりして早速本を注文してみたよ。
で、届いたので、昼休みに近所のカフェでカレー食べながら読んだー。
泣いた、カレー食べながら泣いたー。
でもその涙は一言では言い表せない複雑な感情から出たものだった。
第一にここまで厳しく自己言及せざるを得なかった、
彼女の寂しさや苦しみが伝わってきて胸がヒリヒリした。
彼らは自分を客観視することがないから。
「遠足に行きました、楽しかったです。」と書く一般的な子どもの表現力が拙いのは、
感受性が鈍いからではなく、表現する必要がないからではないか。
子ども特有の万能感が薄れ、矛盾や理不尽、欺瞞をはらんだ世界を、
自分の外側のものとして意識し始めるのは一般的に思春期頃といわれている。
世界との断絶こそ、子ども時代の終わりをつげるもの。
その頃になると自分の葛藤を表現したいという欲求や、
誰もが身に着けていくのだけど、
そういう言葉を8歳の子が身に着けているというのはどういうことだろうと思った。
感受性が豊かなさきちゃんにとって、幼い彼女を取り巻く世界はあまりにも過酷だったのではないか。
もちろんそれが単に悪いこととは言わない。
そのことによってこれだけ自分を見つめる力と、
それを表現する力を身につけたのだから、素晴らしいともいえる
だけど、この完璧すぎる素晴らしい文章の影には、
彼女の言葉にならないたくさんの苦しみがあったと私は思うんだ。
潔癖なまでの理想の高さが痛々しく思えた。
それは美しく貴いものだけれども、
こういう美しいものが美しいままで生きられるほど、
世界は美しくないというのが現実だと私は知っている。
彼女の純粋さと高い理想は、確実に彼女のその後の人生を生き難くするだろう。
こういうところに彼女の危うさを感じてしまう。
どんなに探しても「本当」が見つからないときもあるし、
自分や他人に嘘をついてでも、「めでたしめでたし」じゃなくても、
彼女のように感受性の強い人が、知らないで済むはずはないと思ってしまう。
さきちゃんには、嘘をついてでもいいから、たくましく生きてほしいと祈る気持ちになった。
大体は予想通りの反応だったんだけど、
一件私の気が付かなかった点に言及しているブログがあって、
ほほーっ!と思った。
http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070517/1179410983
うーん、私が感じた不自然さはこういうことなのかもしれない。
さきちゃんは天才といって過言でないくらいの表現力を持った子だけど、
その根源には母親に愛されたいという強い気持ちや、
第三に、そういったこの感想文にまつわる複雑な感情は抜きにしても、
これはやっぱり凄い文章で、感動して泣いちゃったわけ。
こういう純粋な気持ちを忘れないでいたいですね、と陳腐にしめます。
anond:20070605222236 さきちゃんはもう他人を許すことを知っているのだから、生きづらくなったりはしないでしょう。 弱い大人が勝手に自分を投影して心配してるだけでは。 それはかえって...
http://anond.hatelabo.jp/20070605233211 元エントリの増田です、どーも! ああ??、なるほど、母親は客体化されているかなあ、確かに。 この部分は私の勘違いだったなあと思いました。 指摘あり...
anond:20070605234857 レスありがとうございます。 タイトルがずいぶん長く(笑)。 > 自分を投影している部分があることは否めませんが、 > 他人を許すことを知っていて、こんなに聡明...
もう見ていないかもしれないけれど、 あなたの意見を踏まえて自分なりに更に感想を書いてみました 増田で続けようと思ったけど、自分のブログに書くことにしました。 http://yaplog.jp/mans...
例の本読んだ。この人の意見にはかなり同意できる。