はてなキーワード: クラスタとは
まあ毎年毎年同じ話題が繰り返されるわけだが今度ばかりはもうそろそろニコマスに失望を禁じ得ない。
いやニコマスの沈みっぷりとか盛り上がらなさは09年くらいからひしひしと感じていたけど「アイマス2が発表されればまた盛り上がるだろう」と思って今年の5・6月までは乗り切ってた。しかし、これだ。この有様だ。ぜんぜん盛り上がってない。祭りもちらほらと見かけるけどどれも小粒だ。09年の暗黒期よりも沈んでるんじゃないか? 「アイマス2」はカンフル剤のはずだった。公式も、まあ、盛り上げようとなんやかんややってるようだ。でも盛り上がらない。これはもうニコマスそのものが、界隈のコミュニティが限界に達しているってことなんじゃないかな?
A 最近マイケル・サンデル流行ってるね。あの暴走列車の話なんかさ、哲学の導入の思考実験としては見事なもんだよ。
けどあのネタで自分の美徳の立場を規定しちゃう輩ってのが多いんだよ。
実際にあれに似た事件が起こったら思考実験では考慮されない誤差が重要だったり、
自分が以前に思考実験で規定した美徳の基準に束縛されない選択ができる事が重要だと思うんだよ。
B 「自分が以前規定した美徳の基準に束縛されない選択」をした奴は罪悪感を感じるべきだと思うよ。悪いことは悪いんだ。
A いやそれよりも、自分が規定した言葉の重圧から開放されたほうが正しいものを追う姿勢として正しいはず。
B でも間違えたら悪いよね。
宮台真司が若い頃女百人斬りをしてて、女の浮気相談には「旦那を寝取られるおまえが悪い」と返していた話など
A 平野綾に関しては「自分は処女だ」と明言したわけではないので騙したという確証はないし
宮台がそういう話をしていたのなら物書きとして社会学者として論理的な説明が商売上必要だけど、
仮に間違えたのならそういう人はどこまで責任を取りゃいいの?
B まぁ許してもらえるまで。引退しろってことになるかも。
A じゃルールを守らない奴は全部悪いのね?なるほど思考実験をしましょう
赤信号があります。横断歩道を超えた先にあなたの息子が今にも死にそうな状態で
あなたの持ってる薬を待っています。でも横断歩道には青信号になるまで待っている人だかりで身動きができません。
車は全く走っていません。あなたは正しいことをしている信号待ちの人をじゃまだからと押しのけずに子供のもとまで行きますか?
B 行くかもね。すいません、どいてください、といって。
A じゃあなたは悪いんですね。
B そう。悪いものは悪い。
A マジで!
=略=
A でさ、君、こういう原理主義的な話を他人と延々とやって、君にとってのゴールとメリットって何?
B ゴールは価値感のあわない相手より自分が正しいことを証明すること、メリットは相手を打ち負かすために勉強するモチベーションになる
A 僕とは真逆だよね。僕は話してても楽しくない価値感のあわない人間とは話したくないし、好きな人たちと楽しく話すための方が勉強の
モチベーションになる。こういうと「島宇宙」だとか「何とかクラスタ」とか色々言われるんだけど、別にいいじゃん。社会ために生きているわけじゃねーし。
B 色々言われるんだけど、と意識している時点で気になっているんだよ。
A そう、気にはなっている。ただ君との違いはその人たちと積極的に話すかどうかだね、僕は話したくない。話す必要があるのであればルールを介して事務的に話す。
B 話していて楽しい人ってどんなの?
A 君と話していても楽しいし(※)、友人と好きな映画の話をするときも知識が豊富で論理的に話してくれる人が好きかな。そうじゃない人と映画の話をするときもあって、そういう人は僕が◯◯監督論を語ると物凄く破綻した論法でぐちゃぐちゃにしてくるんだ。
B え?そういう時はその人に論理的に自分の話を聞かせればいいんじゃないの?
A そうできればいいんだけど、物凄く疲れるんだ。積み木崩しで。
そうなるのならもうこういう系統の話はやめて、もっとばかみたいな話をしよう、とか思う。
この人の魅力は別のところにあったりもするので。だからこういうタイプの人は僕の周りにいないけど
個人的に恩人だったりするとね。
B そこで話をするんだよ、論理的に。何でしないの?
A いや、過去に論理的でも何でもない馬鹿話が楽しかったので、あえて面倒くさい冒険をしないんだよ・・・
※このトークにおいてこの時点でのA君は嘘を付いてるが、普段はBくんとの会話を楽しんでいる
****
A君の感想 どこかでこの面倒くさい話切ればよかったけど、疲れてて切れなかった。生き方や正義について議論をするってのは「論破されても考えを曲げない」という心持ち一つで全く無意味になるのを、いい加減わかってよ…
B君の感想 こいつの話はどんだけスタンダードを抱えてるんだ?スタンダード一杯あってもいいじゃないか人間だものってか?ずるいよなぁ、俺みたいな真面目なのがいつも損する。しかも疲れた。
Twitter の説明って極端なのが多いように思う。しかもそれぞれの派閥のマナーとか言い出してなんか議論が斜め上に・・・なので、多分普通な Twitter の説明をしてみる。良く聞かれる、 RT 周りについて重点的に書くよ。あくまで、筆者の周辺での"普通"なので一意見としてどーぞ。
こんな感じで、色んな人がいるけど、特にマナーがどーのと言い合いになったことはないよ。
これはどこでも説明は大差ないから割愛。フォローとフォロワーとタイムラインについて、それが何なのか大体わかってるのを前提として話をすすめるよ。
Twitter では、プロテクト (許可した人にしか見せないよ!という状態) にしていない限り、ありとあらゆる人が発言を見れる。でも、 Twitter にはすごーーい沢山の人がいるから、全く知らない誰かの発言一つを探し出して穿り返そうなんて人はそうそういない。例えるなら、どこに住んでいるかもわからない知らない人の飲み屋での愚痴を調べようとするようなことだからね。
でも、偶然その飲み屋に昔の知り合いや会社の上司がいたりしたらどうだろう。自分が有名人で、どこかそこらに記者やファンがいたらどうだろう。それで、「やっべー」と後悔するような会話をしちゃうこともあるかもしれない。
Twitter もそれと似たようなもの。どーせ同じテーブルについてる人しか会話聞いてないしーと思って、恥ずかしい話をしていたら、偶然隣の席の人が聞いてるかもしれないんだ。その恥ずかしい話が恋の失敗談なら他人に聞かれてもたいした問題じゃないけど、犯罪行為を自慢していたら大変だ。
Twitter の世界は、とても声の通りがよくなるように出来てるんだ。これは、ルールとかじゃなくて、 Twitter というサービスの設計志向、仕組みがそのように出来ているということだ。みなわいわいと自由に大きな声で話している酒場のようなものだ。だから、もし隣のテーブルから声が漏れてきたら、面白そうな事には聞き耳を立て、興味のある話には入っていったほうが楽しい。同じように、あなたの話にも誰かが聞き耳を立ててるかもしれないんだ。そしてそれは多分素敵なことだ。
Twitter をめいっぱい楽しめるかどうかは、人の声が聞こえてくること、自分の声を聞いている人がいるかもしれないことが素敵だと思えるかどうかにかかってると思う。もちろん、本当に仲のいい人にしか聞かれたくない聞きたくないという人だっている。だからといって、「他人の話に聞き耳を立てるなんて!」「なんで勝手に聞いているんだ!」「聞いてもいない話が聞こえるのがうざい!」というのは、 Twitter ではちょっと無理がある。Twitter がそういうコミュニケーション向けに作られていないからね。本当にそう思うなら自分のアカウントをプロテクトにするという手段があるし、そうするべきだ。だけど、そんな Twitter の使い方は楽しみを狭めてしまうかもしれない、悩みを増やしてしまうかもしれないということは考えて欲しい。
賑やかな中で漠然と話をしていても、がやがやしすぎて誰に呼びかけているのかよくわからないことがある。もし、呼びかけたい相手がはっきりしているなら、 @名前 という方法で発言しよう。例えばこんな感じに。
例) @masuda さん、忘れ物してるよ!
こうすれば、増田さんは自分充ての発言としてあとでまとめて見る事ができるんだ。見た目にも、自分に対して呼びかけられた発言だとわかりやすいよね。これは、文章のどこに名前が入っていても同じだから、こんな使い方もできる。
例) 明日来るのは、 @masuda @masuko @masuo の三人でいいのかな?
どちらにも言えることだけど、 @ をつけてもその人にしか見れないわけじゃない。イメージとしては @masuda さんの方を向いて話してるって感じ。あくまで見て話してるだけだから、声は他の人にも聞こえてる。もし本当に聞かれたくない話題をしたいなら、 DM (ダイレクトメッセージ) を使うべき。
@ には、一つだけ仕掛けがあるんだ。それは、 "@が発言の最初にあるときだけ、@された相手と発言主の両方をフォローしていないと、タイムラインに表示されないようになる" ってこと。わかりにくいから例をあげるよ。
@masuda @masuko @masuo の三人がいる。 マスダとマスコはフォローしあってる仲良しで二人はよく @ でおしゃべりしてる。マスオはマスコの事を気になってフォローしてみたけど、 マスダのことはフォローしてない。こんな関係で、仲良し二人がおしゃべりしたとする。
マスダの発言) @masuko はマスオのことどー思ってるの
マスコの発言) @masuda うーん、アホだけど面白いし結構いい奴なんじゃない?
マスコの発言) 晩御飯の支度ー
マスオの TL には、「晩御飯の支度ー」は表示されるけど、「うーん、アホだけど面白いし結構いい奴なんじゃない?」 は表示されない。もちろん、マスコのユーザーページに行って履歴を見れば、あーあんときマスダにこんなこと言ってたのかよwwと知る事ができる。けど、マスオが二人の会話を TL で追いかけようと思ったら、マスコだけじゃなくてマスダもフォローしないといけない。
たまたま文章の最初が @ になるんだけど、伝える相手を制限したくない場合は、この仕組みが邪魔になってしまう。そういう時は、発言の最初が @ でなければ良いから、頭に . (ピリオド) をつけたりする。
例) .@masuda さんに紹介されたラーメン屋に行ってみたのですがとてもおいしかったのでお勧めです。場所は・・・
RT は、 Retweet の略。
まず、公式 RT について。基本的な仕組みはこう。 (単に RT と書くけど、ここからは公式 RT のことだよ)
もうちょっと例を具体的にしよう。
公式 RT が優れている点はこんな感じ。
最後が多分わかりにくいと思うので、説明するよ。
例えば、とても有名なアーティストの発言を RT したとする。この発言はとてもセンセーショナルなものだったから、この先も沢山 RT されるにちがいない。何百回とね。ところで、自分のフォロワーにはこのアーティストをフォローしている人が 10 人いるんだけど、こいつらも驚きのあまり全員 RT しやがった。そしたら、RT されるたびに 10 回も自分の TL に表示されちゃうんだろうか?というとそんなことはない。表示されるのはオリジナルの一回だけで済むんだ。
非公式 RT は、公式 RT が無かった頃に使われていた生活の知恵みたいなものだ。ユーザーの創意工夫で、「こういう風にしとけば引用だってわかるし便利じゃね?」って感じで広まったものなんだ。基本的な書き方はこう
例) すぐ修正出しますのでお待ちください! RT @masuda 最新バージョンで~~な不具合を発見しました
RT が、そこから先が引用であることをあらわすお約束、つぎに引用元の発言をした人、発言そのものという風に繋げる。人によっては、 : が入ったりする。
多くの用途において公式 RT の方が優れているから、非公式 RT を使うべきシーンは結構少ない。いくつか、よくあるケースをあげてみる。
言葉遊びの非公式 RT は、多少変更されようが問題ないし、漫才のかけあいのようなものは非公式 RT ならではだ。逆に、内容や発信者が重要な発言は非公式 RT ではなく公式 RT した方がいいってことだね。
非公式 RT の問題点はこんな感じ。
稀に、会話の殆どが非公式 RT のような人がいる。こういう人は大抵、 "自分のフォロワーの中に全然フォローしあってないグループがいて、もう片方のグループにも会話の様子を伝えたい" 状態に常になってしまってる。これはある程度諦めが必用だよ。会話が全部非公式 RT のようになってしまうと、既に会話相手をフォローしている人にしてみれば、毎回 TL の内容が繰り返される事になる。それってちょっとうざったいよね。 140 文字フルにつかえないしさ。
@ で会話するのってなんか閉鎖的だから非公式 RT でおしゃべりすればいいじゃない・・・という意見にしてもそうなんだけど、 @ で会話するのが閉鎖的と思ってしまうのは何か面倒というか勿体無い気がする。気になる会話があるのなら気になる方から気軽にフォローしていけるのが Twitter なんだ。よほど第三者に会話の流れを見せたい意味がある時以外は、やりとりは非公式 RT ではなく @ でするのがいいと思うよ。
例えば、釣りとネトゲが趣味で、それぞれに関係したフォロワーがいるとするよね。そしたらなんとなく、釣りに関係するグループ、ネトゲに関係するグループってのが自分のフォロワーをも超えたゆるーい枠として感じられると思う。それがクラスタかな。
人がクラスタと言った時、どの位大きな範囲を示してるのかはコンテキストによる。「事件のせいで~~クラスタが大騒ぎだ」と言った時は、結構大きい範囲を示してるのが想像できると思う。逆に、自分の身内の内の特定のグループを指してクラスタという言葉を使う人もいる。
そんな必用はないよ。全然そんな必用はないよ。大事な事だから2回言いました。
この人フォローしたら面白そうだなあ、結構話してることに興味あるかもーと思ったときだけフォローで全然かまわない。苦手だな、全然興味持てないなあ、ただフォロワーふやしたいだけにみえるなあ、って時は放置でいいんだよ。
逆に言えば一方的に片思いでフォローしたっていい。フォローしたりされたりするのに許可とかいらないからね!
2009年に放送され、ヒットを記録した「けいおん!(一期)」はまだ記憶に新しいが、その続編である「けいおん!!(二期)」の人気にはいささか翳りが見えてきているようである。
まず、客観的数値として一番わかりやすいそれぞれの初動売上を比較してみよう。
一期1巻:40,452
二期1巻:33,078
数字としては約2割も売上が落ちている。
もちろんキャンペーンの差であるとか、様々な要因が考えられるが人気作の続編としてこの下落率は大失敗と言わざるを得ない。
ここで本題である、「なぜけいおん二期は失敗したか」について考えてみたい。
あまり長いことを書いても読んでもらえないと思うので真っ先に考えられる一番シンプルな理由だけを極々簡単に紹介してみたい。ずばり、二期は全体的にヌルいということである。
一期は言うまでもなく高校入学から軽音楽部入部、そして初めての楽器演奏といった主人公唯の成長譚としても観ることができた。そして1クールという短い回数の中で二年間の成長がうまくまとめられていた。
まじめに練習しているシーンがないと重箱の隅をつつく人もいたようだが、短い尺に納めるため、練習していることは前提としてそれ以外のより重要なシーンを描くことに重きを置いたと解釈するのが自然だと思う。
一方で二期目はどうか。そもそもの話として、二期は一期の成功を確認した上での企画であると思われる。二期を観ていると一期で評価された部分にスタッフが味を占め、そこをあざとく強調しているようにしかみえない。
もちろん一期の短い放送回数では描ききれなかった日常シーンを望む声はあるだろう。けれど、実際に放送された二期をみると制作側からのチャレンジ精神は見えてこず、安易な需要へのフィードバックだった。
つまり、二期は「空気系」および「日常系」といった単語で安全圏に引きこもり、惰性でなんの起伏もないシーンをだらだらと続けているだけである。
過去に大ヒットを記録したアニメは例外なく多くの論争を巻き起こした。某ロボットアニメを例にとるまでもなく、歴史に残るような作品はすべて多大なる長所と短所を包含し、ネット論壇において、放送当時はもとより未だに議論の対象となっている。
ここでけいおん二期に話が戻ると、この作品に至っては「短所」がほとんど存在しない代わりに「長所」も皆無である。一期の成功を前提に無難に無難に作られた作品であるが故に評価すべき点がまったくと言っていいほど見あたらない。
ネットを見渡してもこの作品について精緻な考察を繰り広げているブログも存在しないのではないか。あるのは、キャラに対する表面的な萌えの声や、“あるあるネタ”への共感のみである。
「けいおん!」(一期)は確かにヒットした。時代をうまく汲み取っていたし、批評性があるように思われた。けれどそれに続く二期は、うまみを知って舞い上がった制作陣による、薄く引き延ばした劣化レプリカ、失敗した二次創作、もしくは傲慢な京アニから放たれる醜悪な排泄物にすぎない。
京都アニメーションはこれまで時代性をうまく作品に反映し、優れた技術と相まってその時々を代表する作品を生み出し続けてきた。そういったアグレッシブなメンタリティこそが京アニの真価であり、圧倒的な人気を誇ってきたゆえんでもあろう。
その京アニがけいおん二期という冒険心のない凡作を生み出してしまったという事実は大きい。
一般メディアや中高生向けクラスタへの露出の多さから関連商品は売れ続けるだろうが、その求心力はどんどん衰えていくだろう。
確かに新しいことにチャレンジすることのリスクは大きい。それが京アニという巨大ブランドであればなおさらだ。しかし、当初のコンセプトを失い、目の前にぶら下がった利益だけをむさぼり続けた企業が衰退していくことは歴史が証明している。
京アニには腹の周りについた醜い贅肉をそぎ落とし、いつまでもラディカルな制作集団でいてもらいたい。けいおんはその意味でとてもいいクスリになったはずだ。
コメントも、本当に自分のためなメモ書き以外はやめようと思ってる。
ふと気付くとはてブの会話って偏った集団の内輪受けだから
これやってるとむしろどんどん頭が悪くなる気がしてきた。
一時は星を集めるのが結構楽しかったけどもう集め方が分かったのでゲームとして面白くない。
センス+はてな受けする方向。
その3倍ほどのお気に入られを得たけれど
彼らと会話や交流をするほど実は馬鹿になっていってるんじゃないか。
お気に入りは面白い言語センスや狂った物の見方をするぼっちっぽいidが多いんだけど、
彼等から学んでるんじゃなくて、刺激されてるんじゃなくて、実は考え方や喋り方が融合してるだけなんじゃないか。
仲間の誰かが攻撃されると庇ったりみんなで喧嘩するクラスタ、みたいなのも見えてくる。
自分が身を置きつつあった交流だって傍から見ればクラスタであり、脳が麻痺していくような馴れ合いだったんじゃないか。
議論は煮詰まりすぎたオタク趣味サークルの内輪もめみたいな感じで風通しがいいわけじゃない。
特に映画評論はみんなオトモダチかそのオトモダチと言う感じで、
下火ジャンルほど人間関係にサブカルっぽい腐臭がしているの法則。
はてなブックマークには5年とかそれ以上やってる人もいる。これがイタい。
20代前半に作ったらしきキャラからバージョンアップ出来てない人が居る。
それに限りなく温かい目を向けて甘やかす人達が居る。
「31歳にもなった男のグロッキー顔のアップ写真は本当にただのグロですよ、あなたがイケメンだと思ってても」
と直言出来ない人だけで作った、濡れた真綿みたいな質感の人の輪。
そういう人の輪の一部にもなりたくないし
そんな輪に包み込まれた人間にもなりたくない。
誰だってしらふの時はそう思うはずなのに、脳が麻痺し始めるとそう思えなくなる。
1年近くはてブをやり続けてきての今の心境は
大学生の頃の
こんなことをやっている場合じゃない。
http://anond.hatelabo.jp/20100813234019 これ読んで、自分がその先輩とは真逆のタイプだなーと思った。
あまり具体的に書くと僕が誰なのかばれそうなのでかなりぼかした話になる。
僕自身にはたいした能力はない。良く言えばジェネラリストで普通に言えば器用貧乏で、ようするにとても平凡だ。
知り合った奴の中に、
「こいつ底力も人望もありそうなのに、なんか遠回りしてるなあ」
「折角いいセンスを持ってるのに落とし穴にはまってる気がする」
「彼がやりたい事を実現するには、あれを学べば彼ならできそう」
「あの人とこの人を逢わせたら化学反応起こしそう」
という人物を見つけることがある。
そういう人に、こういう開発方法もあるんだよ、こういう発表の場もあるんだよ、こんな考え方もあるよ、これで悩んでるなら教えるよーって横で踊ってあげると、本来そうであるべきだったように伸びに伸びまくってあっちゅーまに僕の上にいく。
コツは、学ぶならこうしなければいけないと強制するのではなくて、あくまで選択肢を提示して自ら選ばせること。熱意を湧き出させるためなら、その人の手がけてるもののコピーを新しい方法でジョバンニで作り直して見せてあげるくらいのサービスはする。それが一番説得力のある方法だから。彼らは最初にエンジンが起動さえすれば、あとは自身の燃料で走り続けられるから。地図を広げ、発射方向を定め、エンジンを起動するためになら、僕は努力を惜しまない。自分の事では努力出来ないのに。他人を後押ししてる時は、成功のビジョンが見えていて大抵その通りになるんだ。
僕が色々教えたり後押しした人たち…そのうちの数人は大きくなりすぎて遠慮さえ感じる。人気デザイナー、必読と言われる本を出した奴…みんなすごくなってる、まぶしくなってる。
彼らは、僕が関係しなくてもいずれそうなってたのかもしれない。でも彼らのうち何人かが今でも、僕との出会いがなかったら人生違ってたって言ってくれる。お世辞かもしれない。今では、僕自身の仕事や人生を豊かにするのに彼らからたくさん与えられている。僕はもうなにも与えていないのに。
そんな経緯があるから geek 系のクラスタにやたら縁があるけど、深い親交のある相手は大抵そいつが無名の頃に知り合ったというパターンだ。僕自身はそんなクラスタにそぐわない普通の平凡な人間だから見上げるばかりだ。
もうこの歳になってから自分が何かを起こせる人間に変われるとは思えないから、すごい人の後押しをするだけの簡単なお仕事という生き方で一生行こうと最近は思ってる。皆、僕を追い越していく。だが、それがいい。
なにより、他人のすごい点が気になりすぎて自分の瑣末さが本当にどうでもよくなってしまうんだ。
元増田さんは、辛い、あんな風になりたかったと言ってるけど、僕は追い越されまくってるのにそれを辛いと思った事は殆どないんです。
むしろ自分の生きがいに近いものさえ感じてる。
縁って他では代替がきかないものだよ。先輩の今にもあなたの縁がきっと関係してる。
考え方次第で、辛くも嬉しくもなるはず。
はてな村ではあっという間に収束したのですが、はてな村の皆様におかれましては一体いかがお過ごしなのでしょうか。説明を要求します。もうコンテンツとして消費し終わったのでしょうか。あれだけエロゲ叩きには熱心だったのに、皆様、実在児童の保護には全然関心がないんですかね?
おちゃらけブログが取り上げたから話題になったもので、次のエントリが上がったらホリエモンと人生の有限感について考えるんですか。ニュースに脊髄反射して、話題が流れたら終了。これまでの虐待死でもそうしてきたし、これからの虐待死もそうする。そういうことですか。
しかし、大上段に構えて偉そうに何か説いた方々は自分の発言に責任を持ちやがっていただけないでしょうか。つまり、自分が「こうしろ!」と叫んだ対策を実現するためにいかなる費用、手間、意識改革が必要か考えるぐらいの責務はあるんじゃないですかね?
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/08/post-9158.html
コメント欄参照。耳に痛いだろ?
あと、「弱者を救おう」と言う人がいるなら
合わせて「それだけの負担を負います」とも言わないといけないと思う。
無責任に、思考停止状態で、その時の感情論だけで「弱者を救おう」って言う人が多すぎる気がする。
じゃ、あなたが救うの?って疑問がわくけど
「いいや、俺じゃなく国が」とかゆう論調だもんね。
社会のせいというならその社会を作った成員として反省と改善の決意を。責任を有耶無耶に拡散させたり、自分ではない漠然とした体制を責めて気が済んだりしちゃ駄目。
行政が悪いというのは、行政の体制を整えて、その追加費用も負担するし与えた強権が自分に振るわれても許容するという意味でなければならない。
都会の無関心が悪いというなら、自分も近所付き合いをちゃんとして、世話したり干渉されたりしなきゃいけない。今すぐ。
救え!って言った次の日には雁首揃えてホリエモンの本の話とかしてんの。アホじゃね?
大所高所から正論ぶってるつもりの奴って、自分は部外者気取りなんだよな。部外者でいられないはずの問題では無責任さだけが目立つ。
親クラスタはしてほしいこと望むことを実体験に基づいて絞ってるから上のような点では意外にまとも。無限に支援しろみたいなことは言わない印象。印象なんで分からんが。
代わりに、子なしをかなり無神経にDISってくれることが問題。子供を持たない権利を行使しているんだからお前らに社会福祉は与えてやらないだの、子育てを回避したんだからせめて他人の子育てを手伝えだの、子供を持ったこともない奴に発言権はないだの。何言っちゃってんの?
子供すら持てない貧しさは、好きで権利を行使している、と?最底辺に叩き落とされて喘いでいるのに、子供を持てるほど恵まれた奴のお子様にご奉仕しろ、と?
あの、これはあれだよね。若者は好きで何もしないから経済を失速させておりけしからんし自己責任だっておなじみの理論。若者の子供離れ。
子供を持って初めて分かった~子なしには分かんない~とか平気で言う。要するに自分の子なし時代には子を持つ親を支えようなんて発想のかけらもなかったわけ。どの口で子なしに放言浴びせられるんだ。
親です、親だからわかりますっつー部分はそりゃかなりあるだろうが、驕りが目立つ。いい加減にしろ。
そんな上司がいる。
社員同士非常に仲がよく、私の入社と同時ぐらいに第1次twitterブームが着たので、若手はすぐにそこでつながっていた。
twitterでの話題は、大学関係者とも関わることが多いので教育的な話から、コードのことであったり、最新インタフェースのことであったり、ネタやプライベートな話まで
まぁ初期ユーザに一番多い使い方をしてきたのだと思う。
一方、その上司は3、4年前から今の会社にやってきた。現在、40代前半。
上司が転職してきた直後は別のチームにいたから全く関わりがなかったが、1年前から新たなプロジェクトとして同じチームに編成された。
前いたチームの同期からの評判もよい人だった。
上司がtwitterを始めたのは、ちょうど1年前くらいのtwitterがメディアでかなり取り上げられてきた時だったので、誰かが上司さんもやってみたらいいじゃないですかーとでも言ったのだろう。
あっさりその上司はtwitterにはまり、職場の人から大学時代同期の研究者だったりをフォローして楽しんでいた。
そうすると、職場でもtwitterの話をするようになっていて、「~さんこの前twitterで言ってたあれどうなったのー?」なんてことを上司が聞いたりしていた。
それまでは職場でtwitterの話題をすることはなく、最初は私も合わせていたが、その上司にかなり気に入られたらしい私は、特にtwitterの話をされることが多く、次第にエスカレートしていった。
随分前に私が会社での飲み会について投稿したことをネタにしてきたりもした。
その飲み会には上司もいたし、投稿をみればなんの話かは分かるだろう。しかしその投稿をした時はまだ上司がtwitterを始める1か月以上前だった。
上司は、あっさりと「君のつぶやき読めるだけ読んだんだよねー」と認めたし
「あれって、"more reading"し続けるとページ重くなって全部は見れないんだねー」とケラケラ笑いながら言うし、その後ももっと前の私の話をネタにして話続けることもしばしばあった。
さらには、別クラスタでフォローしてる子と私のリプライのやり取りの話までしてきた。つまりは私のprofileページをチェックしているということだ。
別に読めるようにしているのだから、昔のを読むことは文句言えなし、読むなとも思わない。
しかしそれはこっそりやってほしい。よりによって本人に告げるな。
webでも現実世界でも同一人物であることは本人も認めているわけだけれど、私はやはりネットとリアルは異なるものと捉えている。ネットという画面を通したものだからこそリアル世界で知り合ってる人とも向き合えることがあると考えている。
今まで、webでのルールなんて意識したことなかったけれど、あぁ実は自分にもwebルールがあるのだとまざまざと実感した。
上司には、私や若手が持つそんなweb概念が全くない人だった。
こんなことがずっと続き、少し私が嫌がっているのも気にせずtwitterの話ばかりされるのが本当につらくなってきたので、上司とは徐々に距離を置くことを決めた。
ネットとリアルの区別がつけられない人だからリムーブしただけで傷つくだろうなと思い、フォローはしたままで、仕事としては全く悪い人ではないので、ただ表面上仲良くし、飲みに誘われても断っていた。
どうやら、その時点で上司はひどく傷ついていたらしい。さらにひどい事が起きた。
その頃私は、プライベートなことで深く悩んでいて、ネガティブな発言が多かったし、誰とも分からないように人を批判する分を投稿していたりした。
できるだけ一般的な話に持ち込むようにはしていたけれど、感情的な部分もあったのかもしれない。
なんと、上司はそういう私の一連の投稿を、自分のことについて書かれたと思ったらしい。
長期休暇などもかぶりしばらくぶりに上司に会う日があった。
廊下で会っても無視するくらいの機嫌の悪さ。
なんだ?と思っていたら上司に個室に呼ばれた。
すると、上司は私のその問題のついーとをプリントしたものを数枚もってて、いきなり目の前のデスクにその用紙を投げ出し「これはないよね」と言い放った。
初めて空いた口が塞がらなかった。
はっきりいって、そんなことを投稿してる間、上司のことは微塵も考えていない。完全にドン引いた。
仕方がないのでその投稿をするに至った経緯まで全て話、関係ないことを主張し、なぜか上司がうなだれていた。
そして私が避けていることが気になったようなので、さらに自分のwebの使い方と上司のwebの使い方の違いを説明し、
ネット上の話をされるのは私はつらいとだけ訴えた。
これが約半年前。
その時上司は分かったとは言っていたが、現在もなにも分かっていない。
落ち込んだ投稿をした時は、一緒にがんばりましょうというDがきた。
つい最近もまた思わず愚痴っぽいきついことを書いてしまったら、
ボクだって努力してるんですというDがきた。
だからお前のことじゃねーよ、親とのことだよ
「だからといって、人がどういう考え方をしていても勝手で、使い方を他人に強制されるようなものではない」と上司は言った。
確かにその通りである。
上司のようなネットの使い方をして、自分が傷ついたんだ!ってことを相手に伝えれば、そっちだってある程度もしくはそれ以上の傷を被る。
相手にそんな傷をつけた時点で、自分の使い方を強制したことになっていることを上司は気がついていない。
それだってその通りである。
でも上司には「受け手側はそれをどう受信したかの責任は自分で持つべき」と言いたい。
私の発言が軽薄な時も確かにあるかもしれないが、鬱ポストを連発するわけでないし、個人を中傷したポストをしているわけでもない。
流そうと思えば流せるものを真に受け止めるのは、その受け手だけで留めてほしい。リアルにまで持ち込み、他者を責めるな。
彼ら彼女らは、どうしてそんな自分が不幸になるような使い方をするのだろう。
ネットでは発信者の状況は分からない。それなのにどうしてそれを真に受け止めて、ネットがつらくなるような使い方をするのだろう。
しかしそういった人達は一定数必ずいる。
結局はtwitterもまた一部の人の利用に留まっていくだろう。
すばらしいツールなだけに、そういった考え方をする人達のせいで広まらなくなるのならなんとも勿体ないことだ。
しかしもっと勿体ないのは、ネット上で実力を発揮している人がそういった人達のせいで姿を消していくことにある。
素晴らしい人がひとり姿を消せば、このweb上の可能性も同時に一つずつ消えていく。
ネットとリアルを区別しない人達による罪というのは実は予想以上に大きい。
今でも上司とのフォロー関係は続いている。恐らく今後も変わらない。
確かにめんどくさくなる時もあるけれど、折角いいツールを見つけ、いい人達とも巡り会えたのに、やめたくはない。
自分がweb界にいつか影響をもたらすとは思いもしないが、確実にそんなやつらよりはいい使い方をできる気はする。
なのでなにがあろうともやめることはない。
「ふたりでできるもん~オトコのコのための相互アナニー入門~」
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51056330.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/geek/archives/51056330.html
ブコメで言及しようかなと思ったけど色々とチキンな自分は増田でこっそり言い逃げしようかなと思うんですけど、まあ、感想として「引く」「何か間違ってる気しかしない」ですよ。
ただ、100歩か100万歩か判らないけど譲るとすると、筆者の言う「これはけしてホモセックスではない」という主張は理解できなくもないんですよ、正直。自分は。
けして愛情じゃなくて、オナニーの一環として、同姓のパートナーを見つけて二人で女装して裸になってちゅっちゅして最終的に<censored>までするけどけしてセックスじゃないよ、相互オナニーだよっていう。
正直、自分はその主張を受け止められなくもないんですよ。だからブコメなんかで言及されがちな「これただのBLじゃん」ってのが的外れだってのも一応、理解できる。自分がソレをやりたいと思うかどうかは別として。
ただ、それは一応、理解はできるけど、それを現実に実践できる環境と精神力ってもう普通に異性の恋人作って(以下略)を目指すよりもずっと非現実的でハードルもリスクも比べものにならないほど高いと思うのに、どうしてこうなった…!って思うのと、本当に一応、その概念は理解できるんだけど、それを実践できる精神力とか覚悟とかって、どんだけ今のオタクの最先端クラスタは進化してしまうんだっていう。もう、軽くヒトの概念を超えかけてるんじゃないかって言う、そんな戦慄を感じた。
まあ多分だけどこういう本を買う人ってネタ精神や興味本位やブログでツッコミエントリを上げる目的だったりで買う人が99%以上で、本気でこれ買って実践する人は約1%も居ないとは思うのよ。でもその約1%の人たちは、本当に恐るべき人種だと思う。自分は。
仕事をするようになってからか、
それ以前からか区別しにくくなってきている。
しゃべることが億劫になっているように感じ、
気づくとうまく言葉が出なくなってきている。
それは、自分で喋らなくてもそれなりに整備された
代替品が散らばっているからじゃないかと思った。
つまり
自分の言葉をつむぐ <<<<< それっぽい名言や文章を引用する
A <<<<< B : A よりも B がでけーのです。
になっているのだ。
しかもひどいのが、それも記憶して繰り返すのではなく
ただC&Pとして、転記するのみ。
内容は「あぁたしかに、そんなのあったかもしれないのぅ」くらいの
いい加減な思考までしか残っていないといういいかげんっぷり。まじひでぇ
脳を使うのがいやだということなのか、とも考えたが
単純に楽な方に楽な方にと体が傾いて転がっていっているというのが自然。
もちろん、それでいいのなら無駄な労力・不必要な苦労は求めないでいい。
ただ、要される無駄・不必要という言葉の裏にはちょいちょい、「今すぐには」
という言葉が隠されていることがある。今回の場合がまさにそれに当たるだろう。
人は喋らなければいけない。喋りたいものだ。
表現して自分を示すことが出来ないようになると人間は呆ける。感性が鈍化し、錆びる。
使わなくなったニューロンが断絶されるように、不必要になったものは最適化という名の下で
排除されるのが常だからである。
ここで、排除されるのは「機能として」もあるが、もう一つ重要なことに
世の中やそれまで所属していたクラスタから取り除かれることになる危険性
さり気ない言葉や話しかけやすい雰囲気などを表に展開できていれば問題がないが
考えたり悩みだすとその方向にだけ焦点(フォーカス)が向いてシャットアウトされる
僕のような人は警戒が必要だ、KYの怖いところはKYである自覚がない所に尽きると思う。
で、ここまでの内容で見えてきた話す理由としては
でもなぁ・・・理由は出来たさ。
ただ、自己防衛だけで喋り続けるって楽しくねー。
習慣化の敵は退屈とメンドクササと
続けた先に見える報酬有無だと思う。
自分だったら
何十人もフォローするのが苦痛。
これより先に、いやまっさきに
そもそもみんなよろしくやってるのに声がかからんかったっていうのは私が参入したら迷惑だろう…
これが浮かぶかな。なんで呼んでくれなかったの!!!?????ってなっちゃうな
ネトゲのギルドつながりで知り合って、今はゲーム自体よりもリアルで絡むのが主体になった人たちがいる。
いい歳になってきたしリアルも忙しいし、何よりもうそろそろゲーム自体が寿命なのだ。
現状はこいつらと飲んだり食ったり行楽したり新しい漫画アニメゲームを薦めあったりしたい、というコミュニティであって、ネトゲという共通の趣味はもはや発端でしかない。
で、元からリアルでの交流も多かったのだが、交流の主体としてはmixiが用いられていた。
旅行の計画だの、やれ上京するから暇な人迎撃してよ!だの、楽しく遊んでいたつもりだったのだが…
ここにきてツイッターである。
いつの間にかmixiでの発言やら日記やらが減ってきて、ああついにこのコミュニティも衰退して疎遠になっていく段階にきたのかな…と思っていたら、みんな何も言わずにツイッターに移行していっていたのだ。
ふとした興味で、ツイッターをやっていると公言していたギルドメンバーのアカウントを糸口にフォロワーをつたっていったらこれが出てくる出てくる。
活発度はギルドの全盛期そのまま。
だったら自分もアカウントとって、となるのが普通の前向きな発想なんだろうけど、私の場合そうならなかった。
何十人もフォローするのが苦痛。
クラスタだのハッシュタグだの、沢山の人をフォローしたり沢山発言したりすることで帰属意識を高める要素みたいなのが苦痛。
そもそもみんなよろしくやってるのに声がかからんかったっていうのは私が参入したら迷惑だろう…
というところまで至って、あーこれ非コミュの発想じゃないか。となった。
楽しく交流できてると思っていたのが間違いだったのだろう。
みんな楽しくやっていってください。
http://anond.hatelabo.jp/20100114215738
付き合い始めの頃を懐かしんで思い出してみた。
3年前にTwitterを始める。ちょうど第一次のTwitterブームの頃。相手は遅れること2ヶ月後に始めたらしいけど、面識は全くなかった。
(当時はユーザも今ほど多くなく、出自のクラスタである程度Followerのコロニーができていたと思う。私ははてなクラスタ、相手は学校クラスタにいて、相互の交流はほとんどなかったように思う。)
約2年前 ついったったーだけのオフ会にて初お目見えする(ただしこの時点ではこちら側だけが認識)。
1週間後 初めて相手にReplyする。その後ちょくちょく@会話。
1ヶ月後 別にあったついったったーのオフ会に誘う。
3週間後に初デート。
その後はDMをやりとりしたり、週1ペースで会ったり。相手の存在が自分の中でどんどん大きくなっていった。
初デートから約1ヶ月後に告白する。相手の返事は保留。
その2週間後、OKされる。付き合うことに。
Twitterが恋愛に関わるコミュニケーションツールとして優れていることは間違いないと思う。それは、「出会い」の機会としてというよりも、性格が合いそうかどうかということが、当人に向けた発言以外のtweetからも情報収集できるからだ。私の相手は、私とコミュニケーション的な距離が近づき始める端緒の時点で、私の名前をぐぐって、ネットワーク上の私の発言を逐一確認していたとのことだ。そして、Twitterはそれを容易にしてくれる。良い意味でも悪い意味でも、相手がどのような生活を送り、どのような発言をし、どのような嘘をついているか透けるからだ。例え自分を偽って見栄を張った発言をしていたとしても、大量のTweetは発言者の性格を否応なしに表す。「あ、この人とは関心領域が似てる、趣味が合いそう」ということがわかったのは、今の2人の関係を考えれば大きかったと思う。
元増田も言っているように、DMの作用は重要だ。140字のコミュニケーションは携帯メールに似ている。ただ、携帯よりも文字を入力しやすいキーボードから入力ができる点で、DMのほうがより直接的に考えを送りやすい。もちろん慣れの問題はあるだろうけれどね。
私も相手が大事な人だと思っていて、最初は付き合うなんておこがましいと思っていた。ただ、この点は関連があるというより、たまたまである可能性のほうが高いと思う。恋愛において、上下関係などどのようなケースでもありうるだろうと思うからだ。
ちなみに相手が「尊敬ときどきかわいい」は同意。たまに、もう少ししっかりしてほしいと思ったりもするし、思われたりもする。相手に至っては、いい年してかわいいTweetはやめて!と言われる。バリバリ。
大きな差異点は一つくらいだろうか。
この時点で、純粋にTwitter経由とは言えないのだが、Twitter関係のオフ会だったので、これもある意味ではTwitterつながりなのかも。
2人の現状としては、2年経ってもそんなにマンネリにはなっていない。趣味領域が近いこと、Twitterでコミュニケーションがしっかり取れていることが、2年経っても続いている最大の要因だと思う。お互いに好き嫌いははっきりしているので、スルーすべき場所にはお互い立ち入らず、でもたまに真剣な話もしたり、馬鹿な話をしたり、そんな感じのゆるくもお互いに良い意味で頼りあえる関係だと勝手に思っている(相手がどうかは知らないけど)。
Twitterを起点とした恋愛は、特に状況把握の点で他のコミュニケーション手段よりも強みがあると思う。当人に向けたTweetやDMでないとしても、その人のtweetを見れば、何をしているのかはある程度把握できる。ありったーなどのツールは要注意かなあ。このへんも発言傾向ですぐばれそうだけど。もしTweetがなかったりすると少し心配になるけど、単に寝てるだけの時もあるし、気にしすぎることもない。
コミュニケーションが密になりすぎると、アディクション(病的依存)状態に陥るリスクがある。私も特にこの点を気にしていたのだけど、もうすぐ2年経つ現在のところは、アディクション的関係に陥る気配はない。単純な2点間通信でないことが、ゆるいつながりを保ち続けられている理由のかもしれない。共通のFollowerもいれば、互いに全く関連のないFollowerも多く、それらの人とのつながりから、お互いがお互いに個のついったったーとして独立した外界との接点を多く持っていることは、こと恋愛の中で視野が極端に狭まることを防いでくれる。
とはいえ、私は今でも、Twitterを使う限り、相手を疑い始めれば簡単に相互束縛関係に陥るリスクが依然として残っていると思う。Tweetの中で「かまってほしいオーラ」を出すことは簡単で、かつ相手に対して容易に束縛感を与えられる。私の周囲のFollowerでも、この傾向にある人を何人か知っている。この点は本当に気をつけていきたいと思う。
Twitter発の恋愛という共通点に共感していくつか書いたが、私にとって、かつて相互依存関係の部分で失敗した経験があるので、ゆるいつながりを維持できるTwitterというのは、本当にすっぽりとピースが埋まったようなコミュニケーションを実現させてくれた。
そして元増田さん。元増田さんが分析を含めていろいろと書いていたので、嬉しくなって私もついチラシの裏的なことを書いてしまいました。お互いにゆるく、かつ強固なつながりを持てる幸せな時間がずっと続きますように。