仕事をするようになってからか、
それ以前からか区別しにくくなってきている。
しゃべることが億劫になっているように感じ、
気づくとうまく言葉が出なくなってきている。
それは、自分で喋らなくてもそれなりに整備された
代替品が散らばっているからじゃないかと思った。
つまり
自分の言葉をつむぐ <<<<< それっぽい名言や文章を引用する
A <<<<< B : A よりも B がでけーのです。
になっているのだ。
しかもひどいのが、それも記憶して繰り返すのではなく
ただC&Pとして、転記するのみ。
内容は「あぁたしかに、そんなのあったかもしれないのぅ」くらいの
いい加減な思考までしか残っていないといういいかげんっぷり。まじひでぇ
脳を使うのがいやだということなのか、とも考えたが
単純に楽な方に楽な方にと体が傾いて転がっていっているというのが自然。
もちろん、それでいいのなら無駄な労力・不必要な苦労は求めないでいい。
ただ、要される無駄・不必要という言葉の裏にはちょいちょい、「今すぐには」
という言葉が隠されていることがある。今回の場合がまさにそれに当たるだろう。
人は喋らなければいけない。喋りたいものだ。
表現して自分を示すことが出来ないようになると人間は呆ける。感性が鈍化し、錆びる。
使わなくなったニューロンが断絶されるように、不必要になったものは最適化という名の下で
排除されるのが常だからである。
ここで、排除されるのは「機能として」もあるが、もう一つ重要なことに
世の中やそれまで所属していたクラスタから取り除かれることになる危険性
さり気ない言葉や話しかけやすい雰囲気などを表に展開できていれば問題がないが
考えたり悩みだすとその方向にだけ焦点(フォーカス)が向いてシャットアウトされる
僕のような人は警戒が必要だ、KYの怖いところはKYである自覚がない所に尽きると思う。
で、ここまでの内容で見えてきた話す理由としては
でもなぁ・・・理由は出来たさ。
ただ、自己防衛だけで喋り続けるって楽しくねー。
習慣化の敵は退屈とメンドクササと
続けた先に見える報酬有無だと思う。