カウンターカルチャーというのは、wikipediaに対抗文化と書いてある。サブカルの一種であると。
私はカウンターカルチャーの神話という本を読み、カウンターカルチャーを知り、そして否定的である。
特に私が書きたいのは資本主義に取り込まれているカウンターカルチャーである。
私は新人発掘や、素人を応援する行為、またまだ人気の出ていない何かを応援する行為はカウンターカルチャーに近いと思っている。
メインカルチャーに対して、つまり今人気がある何かに対して満足できない物足りない、または自分が最初から関わりたいなどの気持ちがあるときに
カウンターカルチャーには実際のところ、メインカルチャーの腐敗に対抗するとして、正しさのようなものも含まれているが、今回はそれは省いて考える。
今回、なぜこのことを書こうかと思ったかというと、いつか言語化したいと思っていたが、いつまでもはっきりと思い浮かぶものがでなかったので
例えば、うっすらと感じているのは、なぜこんなものが人気になったんだ?と思うものは、
カウンターカルチャーの影響を受けている可能性があると思っている。
しかし注意しなければならないのは、なぜ人気なのかということに対しては、単純に理解する自分の知識不足である可能性や
ヒットする階層が異なる可能性、時期がよかったなど、人気が出たことを単純な理由では説明はできない。
カウンターカルチャーが一部分として占めているだけだけかもしれない。
それは一言で言ってしまえば、対抗先がいなくなると消滅してしまう文化で主体性が無く、継続性もないからである。
文化の発展性から言えば、サブカルチャーがメインカルチャーになるような可能性をつぶしていると私は思っている。
ドイツの哲学でアウフヘーベンという言葉があるが、否定することで発展するというケースが存在するか私は疑問に思っている。
仮にあったとしたらカウンターカルチャーはメインカルチャーが発展するための踏み台である。
残酷ではないだろうか?
私たちはカウンターカルチャーを応援してメインカルチャーへ攻撃する(と人は思っている)
しかし実際のところはカウンターカルチャーがメインカルチャーになりうるとはだれも思っていない。
むしろなったら不幸である。時限爆弾が起動(発火)するのだから。
言いたいことがまとまってきた。
つまりカウンターカルチャーで人を応援するのやめようぜ人類ってことだ。
しかし、こうも言えるかもしれない素人のただの思い付きがメインカルチャーに匹敵するレベルに成長するというのは
本人やその集団にとっては幸せだが、巨視的に考えると私は不満だ。
私がさらに不満なのはサブカルチャーをメインカルチャーの踏み台、または不幸な結末を迎えるために用意することだ。(自覚的なのか無自覚なのか分からないが)
ほとんどの人は自分が応援しているコンテンツがメインカルチャーに匹敵するほど人気が出るなんてことは思わない。
その人たちは問題ない。
例えば、自分の文化に刺激が足りないから、対抗文化を盛り上げようとか!
不幸になることが仕組まれている。
なぜなら私もそうだが、カウンターカルチャーが大好きだからだ。
なろう小説がもっと人気をでて日本の小説文化に影響を及ぼすことを考えると愉悦を感じないだろうか?
アニメ映画だらけになっていることに何とも言えない気持ちにならないだろうか?
なんや?野党はカウンターカルチャーだから必要ないってか?