2021-06-01

財布を拾った

財布を拾った.


コンクリートの色とはなじみそうもない水色の長財布だ.

急いでいたので通り過ぎようとしたが,持ち主は大層困っているだろうと拾った.


皮の質感がいつも使っているものと異なり,手のひらの中に少しだけ汗がにじむ.

一抹の罪悪感を覚えながら財布を開く.

カードを入れる場所の一番手前に免許証が入っていた.

年は私と二つしか変わらない人だった.

免許証の顔はだれもがそうなるように,顔色が悪く,髪のつやがなく,やや年齢よりも上に見える,いわゆる写真写りが悪そうな写真だった.


免許証の住所を見ると同じアパートの人だったため,管理会社電話をした.

アパート廊下を歩きながら,外から入る眩しい日差しが,白昼夢のようだった.

自分の住むアパートと部屋番号を伝えると,「確認します」と電話が切られた.


私は生来好奇心の前では善とは程遠い人間であるため,

人の財布などまじまじと見る機会なぞなく,ましてや知らない人間の,である

どんな人がこれを持っているのだろう,と.

掌の中にある財布を再度開いてみた.


財布のブランドは誰もが知っているものだった.

私たち年代であれば相応の価格帯であり,皮の質感からある程度手入れをするなど大事にしている,という印象だった.

中布の色がもう少し濃い水色で,開いた時のほうが少し派手に見えるデザインであり,こういうところにおしゃれさを求める人,

あるいは誰かからこういうものをもらう人なのだろうと思った.


カードケースには免許証が一番手前にあり,その後ろにクレジットカードがいくつかあった.

コンタクト専門らしき眼科の診察券,美容室の会員証,近くのラーメン屋クーポン券,

アニメイトカードと,ポンタカード雪ミクWAONカード

あの顔色が悪そうな写真の通り,ああ,結構オタクなのかな,と思った.

(ちょっとクレジットカードが多くて個人的には減らしたほうがいいのではないかと思った.)


保険証の下には保険者(勤め先)の名前が入っている.

初めて聞く名前であった.検索するとIT系のようだった.




私は隣に誰が住んでいるか知らない.

正確に言うと,顔は何度か合わせるが名前やどんな生活をしているのかは知らない.

さらに,私が知っているのは両隣と斜め向かいと二つ右隣りの人だけで,別の階にどんな人が住んでいるのかは知らない.


私が生まれ育ったところでは,全員が親戚同然であった.

誰がどこに住んでいて親は何をしているかみんな知っていたし,

そこを離れた今でもどこどこの誰それが戻ってきた,結婚した,出産した,転職した,車を買い替えたなどはみんな知っていたし,

あとあんまり家のカギは掛けなかった.


それがこうやって誰も知らない土地暮らしている.

夜,電車から見る街の,家の明かりひとつひとつに家庭や,歩んできた人生や,関わる人がいることを考えると,

ある意味気持ちが悪くなる.


お札を入れるところを見ると,千円札が数枚とレシートが入っていた.

コンビニお酒つまみを買ったことが記載されていた.

印字された時刻から,その時間に買い物に行くのかなと思った.

レシートは一枚だけだった.


再度免許証の顔を眺めていると,電話が鳴った.

連絡がつき,今家にいるとのことで直接届けてほしいとのことだった.


初めて自分の住む階よりも上の階にのぼった.

同じつくりの廊下を,先ほどの日差しが翳ることなく照らしている.

チャイムを押し,悪人に見えないように笑顔を作った.

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