例えば陰謀論。
存在しないものを「有る」と言い張る人はキチガイに見えてしまう。
特別な根拠なく他者を否定するような攻撃性はそれ自体が狂気にも見える。
逆に 存在するものを「無い」と言い張るのも同様だが、いくらかビジネス感が強い。
明確にそこにある以上、何かしら意図があることを疑うのが普通だ。
その意図を達するために狂ってみせようという思考それ自体がサイコ感はあるが。
愛だの恋だのの価値を主張する人、主観以外で価値を感じようもないのに人に押し付けてくる輩が多い。
しかし外部からはあえて否定しないし、同じものを持っている人間がお互いに「自分たちは価値有るものを得ている」と確認し合うため
問題なのは監査されない環境を自覚していないことだ、つまり数が多すぎる。
その「誰にでも手に入る」数の多さはアイデンティティの確立を困難にし、持たざるものを攻撃することで実感しようとする層が一定数生まれるのが非常に厄介だ。
「50m25秒も切れないの?」
などと言い出したらどう感じるか。
技術に対するリスペクトは有るし、応援する選手が良い記録を出すのを見るのも嬉しい。
だがそんなものに普遍的な価値はあるわけもなく、それを自覚できなくなった盲目さはまさに狂気だ。
「そうは言っても多くが価値を認めているのだから、それは価値でいいのでは。」
よく聞く価値観だし、その通りだ。
だが日本円は海外では使えないし、動物相手にも役に立たないだろう。
その事実を見ないふりして強引に勧めてくる輩、冒頭のキチガイ2種のハイブリッドとして本当に狂った存在として映る。
これはあくまで干渉された際に感じることであり、幸せな家庭を築く人や特別な技術に対するリスペクトは常に持っている。
恐らく向こうから見ると「明確に存在する価値が見えていないキチガイに教えてやってる」という感覚なのだろう。(もちろん前述のアイデンティティの件のケースも有るだろうが)
大きなお世話、という言葉では恐らく伝わらない。我々はお互いをもっと違う生き物として認識している。
そちらがマジョリティだ。マイノリティはキリンか何かとでも考えて欲しい。
キリンは味噌汁は食わないし金にも人間とのSEXにも興味はない。無理やり食わせれば暴れるだろう。
いや分からん、食うかも。知らん。ゴメン。