2018-11-30

「酒に溺れるのは仕方ない、人間みんな賢いわけではない」という意見

勝谷氏が死んだニューストップブコメがそんな感じの論評だった。自分の考えを整理したい。

酒は存在するべきではない?

これは Noだろう。たとえ酒に利がないとしても存在否定してよい理由にはならない。ゲームタバコ大麻などがそう。より強い規制不要かと言われれば一考に値するが。

また、酒を犯罪並置するべきでもない。もし並置するとすれば、ナイフ・鈍器・ハイエースといった犯罪手段だろう。そして、ナイフ存在を悪とする人がいないように酒もまた悪とするべきではない。

医療的な観点から酒の弊害が見なされる、という意味でも酒の存在否定するのは変だ。徹夜だって体に悪い。酒が肝硬変などの健康障害の主因となりうるとしても、依存しなければ直接的な健康を阻害するとまでは言えないだろう。少なくともその存在全否定できるような類のものではないはずだ。

酒が好きすぎて死んでも仕方ない?

酒が気晴らしの手段ではなく、酒自体好きな人一定数いる。そのために死んでしまうのは許容できる。酒に限らず「X を好きすぎて死んでしまう」みたいなのは愚行権範囲だろう。X には酒が入るかもしれない、冬山登山が入るかもしれない。酒自体目的であればそれで死んだのなら本望だろう。

酒が好きすぎて飲んで肝硬変になって死んで、残された家族気持ちはどうなるの?という反論はあるかもしれないけれど、それは酒のせいではなく、酒を選んだ人のせいなのだ家族を残して死ぬかもしれないというリスク承知の上で酒をのんだのだから

酒を手段とするのは仕方ない?

話は冒頭に戻る。酒を目的ではなく 気晴らしの手段として用いる機会がある。「酒でも飲まねーとやってらんねーよ」という定型句もある。なぜか人間は、酒を飲むと気晴らしになるのだ。コミュニケーション手段になるのだ。現実を逃避することができるのだ。

この世界には多くのモノで溢れている。現実逃避の手段としてゲームもあれば、スポーツもあれば、小説もある。そんな中で酒を選ぶ。

気晴らしのために飲酒を習慣にするのと、気晴らしのためにフットサルを習慣にするというのは同じ構造を持っている。ならば気晴らしのために酒を飲むことを習慣にすることはいいのだろうか?ここに私は No と主張する。酒やフットサル手段であって目的ではない。だったら他の何かでもいいはずだ。目的代替不能だが、手段代替可能であるはずだ。もしそうでないなら、それは手段ではない。であればそれは酒でなくてもよいではないか

かに手段としてたまたま酒を選んだ」と抗弁する人や、「手段として酒が選べないのはおかしい」と自由を謳う人も出てくるだろう。そして何より「酒ぐらいしか手段がないんだよ」と追い込まれている人もいよう。それでも私は、酒を手段にするなといいたい。

「酒ぐらいしか手段がないんだよ」という人は、酒がよくない手段であることは重々承知なのだろう。ならば視野もっと広く持ち色々なことにチャレンジして、酒ではない別の手段を見つけるように うながす社会であってほしい。追い詰められた人の逃げ道としてアルコール簡単に手に入るような社会であってほしくない。

酒とたばこイコールか?

私にとってタバコと酒は完全に同じような立ち位置だ:

その意味で、「酒に溺れるのは仕方ない、人間みんな賢いわけではない」という意見には、反対だ。

  • でもキモくて金のないおっさんが酒を止めて色々なことにチャレンジするとよってたかって笑い者にするのは止めないんですよねわかります

  • 節度あるオタクが性犯罪者に感じてるのと同じ「自傷・他傷するまでやるバカと一緒にすんな」ってことかな

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