勝谷氏が死んだニュースのトップブコメがそんな感じの論評だった。自分の考えを整理したい。
これは Noだろう。たとえ酒に利がないとしても存在を否定してよい理由にはならない。ゲーム・タバコ・大麻などがそう。より強い規制が不要かと言われれば一考に値するが。
また、酒を犯罪と並置するべきでもない。もし並置するとすれば、ナイフ・鈍器・ハイエースといった犯罪の手段だろう。そして、ナイフの存在を悪とする人がいないように酒もまた悪とするべきではない。
医療的な観点から酒の弊害が見なされる、という意味でも酒の存在を否定するのは変だ。徹夜だって体に悪い。酒が肝硬変などの健康障害の主因となりうるとしても、依存しなければ直接的な健康を阻害するとまでは言えないだろう。少なくともその存在を全否定できるような類のものではないはずだ。
酒が気晴らしの手段ではなく、酒自体が好きな人は一定数いる。そのために死んでしまうのは許容できる。酒に限らず「X を好きすぎて死んでしまう」みたいなのは愚行権の範囲だろう。X には酒が入るかもしれない、冬山登山が入るかもしれない。酒自体が目的であればそれで死んだのなら本望だろう。
酒が好きすぎて飲んで肝硬変になって死んで、残された家族の気持ちはどうなるの?という反論はあるかもしれないけれど、それは酒のせいではなく、酒を選んだ人のせいなのだ。家族を残して死ぬかもしれないというリスクを承知の上で酒をのんだのだから。
話は冒頭に戻る。酒を目的ではなく 気晴らしの手段として用いる機会がある。「酒でも飲まねーとやってらんねーよ」という定型句もある。なぜか人間は、酒を飲むと気晴らしになるのだ。コミュニケーションの手段になるのだ。現実を逃避することができるのだ。
この世界には多くのモノで溢れている。現実逃避の手段としてゲームもあれば、スポーツもあれば、小説もある。そんな中で酒を選ぶ。
気晴らしのために飲酒を習慣にするのと、気晴らしのためにフットサルを習慣にするというのは同じ構造を持っている。ならば気晴らしのために酒を飲むことを習慣にすることはいいのだろうか?ここに私は No と主張する。酒やフットサルは手段であって目的ではない。だったら他の何かでもいいはずだ。目的は代替不能だが、手段は代替可能であるはずだ。もしそうでないなら、それは手段ではない。であればそれは酒でなくてもよいではないか!
確かに「手段としてたまたま酒を選んだ」と抗弁する人や、「手段として酒が選べないのはおかしい」と自由を謳う人も出てくるだろう。そして何より「酒ぐらいしか手段がないんだよ」と追い込まれている人もいよう。それでも私は、酒を手段にするなといいたい。
「酒ぐらいしか手段がないんだよ」という人は、酒がよくない手段であることは重々承知なのだろう。ならば視野をもっと広く持ち色々なことにチャレンジして、酒ではない別の手段を見つけるように うながす社会であってほしい。追い詰められた人の逃げ道としてアルコールが簡単に手に入るような社会であってほしくない。
でもキモくて金のないおっさんが酒を止めて色々なことにチャレンジするとよってたかって笑い者にするのは止めないんですよねわかります
節度あるオタクが性犯罪者に感じてるのと同じ「自傷・他傷するまでやるバカと一緒にすんな」ってことかな