2012-07-24

いじめられた」人たちの奇妙な自信

朝日新聞の特集シリーズを読んで思った。

なぜ「いじめられた」人たちの言葉は、こんなに自信にあふれているのか。

朝日新聞デジタル:《いじめられている君へ》内藤大助さん - いじめと君

 そんなときたまたま下宿先の近くにボクシングジムがあったんだ。通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、「ジムに行ってるんだ」と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思ったね。

 入ってみたらさ……楽しかったなあ。周りも一生懸命で、俺もやればやるほど自信がついて、どんどんのめり込んだ。自分を守るために始めたのに、いつの間にかいじめのことなんてどうでもよくなっていた。不思議なもんだ。

 ボクシングの練習がつらいときは「いじめに比べたら大したことない」って考え、マイナスの体験をプラスに変えてきた。でもね、「いじめられてよかった」なんて思ったことは、ただの一度もないぜ。いまだにつらい思い出なんだ。

 「いじめられたらやり返せ」っていう大人もいる。でも、やり返したら、その10倍、20倍で仕返しされるんだよな。わかるよ。

俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。


前半の経験はいいとして、後半のメッセージ部分では、内藤が膝を屈めて無理やりこちら目線になって話してるように思われるところがある。「わかるよ」と書いてあるけど、お前ほんとうに分かってるのかとツッコミたくなる。

こういう「私はいじめられた経験があるからあなたのことが分かるのよ」という自信はいじめ体験談全般に散見される。もちろんいじめ体験を語ること自体を否定するつもりではない。だが、世の中で様々な人がそれぞれ固有の状況下でいじめを受けているということを考えると、その自身はあまりにも無邪気じゃないか。この無邪気さは度が過ぎると残酷ですらある。それが押切もえの次の文章。

朝日新聞デジタル:《いじめられている君へ》押切もえさん - いじめと君

 中学生になって嫌がらせはやみ、雑誌モデルをするようになったら、今度は向こうから声をかけてくるようになりました。

夢と希望を持ってほしい。外見を磨くとか、学者さんを目指すとか。「誰かを笑わせたい」でもいい。声や体形がいじめきっかけになることもあるけど、それはあなた個性です。

 人生の主役は自分主人公が脇役からつらい目に遭(あ)わされる映画、ありますよね。でも、最後には必ず活躍する。いじめる子たちはしょせん脇役です。学校の外にはもっと広い世界があります。絶対におもしろい人生しましょう。


そもそも押切の書いてるようないじめって相当珍しいパターンなんじゃないのと思ったが、こういういじめを受けている人もいるのだろうからその点はとりあえず置いておく。

で、これを読んで夢と希望を持てる人はいるのだろうか。押切のファンくらいじゃないの。

押切は前半で自分いじめ経験告白したことで、現在いじめられているであろう読者と同じ目線に立ったつもりなのかもしれない。「あなたたちのことを理解できるこの私が、あなたたちに希望を持ってほしいと思ってるのです」と。

だが、読者の置かれている状況と、押切を襲ったいじめというのがかけ離れたものでありうることは容易に想像できる。むしろ押切本人がなぜ想像できないのか謎だ。

万人が目を背けたくなるような不細工で救いようのないくらい頭の悪い人はどうしたらいいのか。夢と希望を持てだって。ふざけんな、お前に言われたくねえよ。

もちろん、いじめられた経験を書くべきでない、と言っているのではない。

ただ、経験から得られた教訓・メッセージは最小限にするべきだと言いたいのだ。

森永卓郎のもの引用する。

朝日新聞デジタル:《いじめられている君へ》森永卓郎さん - いじめと君

 またあるときサッカー試合に補欠だった私が珍しく出場したら、たまたま足にボールが当たり、ゴールが決まった。おかげでみんなに認められ、仲間に入れてもらえた。おみそ扱いも終わりました。

 ビー玉やサッカーの「偶然」がなければ、いじめは続いていたでしょう。周りの子はよほど強くないと、いじめられっ子を助けてあげられない。本人が反撃し、もがくしかないと思います返り討ちに遭うかもしれない。でも、抵抗しないままだと、いじめはどんどんエスカレートします。相手と目が合ったときに「ふんっ」って、やるくらいでもいいんですよ。



構成としては今までに見た二つと同じようなものだ。

だが、決定的に違う点として、森永の文章は自分いじめられた経験と、それによって直接見えたことしか書いていないのだ。

森永自分経験を書いた上で、そこから全く関係ないメッセージ、つまり夢と希望を持てとか言わないのだ。彼が言うのは抵抗が状況を改善する可能性があること。これは前に述べられてる経験から見えたもの

いじめられた経験のある人にしか見えず、語りえないことというのは恐らくあるだろう。

ただ、ある人が体験できるのは「いじめ」というものの一面でしかないのだ。だから、そこから語るべきは一般論ではなくて、その人の体験と、そこから導かれる最小限のメッセージじゃないのか。

これはいじめられた経験というのに限った話ではない。いじめに関する言説の多くが、断定口調で「いじめってこういうものじゃない」「君はいじめを分かってない」という言い方をする。

この国の学校で生活していれば、たいていの人は何らかの形でいじめと接するから、そういう人たちの一部は、自分いじめ専門家だと勘違いしているのだ。

だが、「いじめ」というのにも多種多様ものがあるはずだ。私は色んないじめに接してきました、と言ったって、一人が生活の中で経験できるいじめなんてごく限られたものだ。

押切もえの文章で勇気づけられる人はいるだろうし、それはそれでいいのだろうけど、やはり彼女があそこまでの自信を持っていじめ一般論ぽいものを語るというのは、不遜であるしいい加減なように思えるのだ。

  • >> 押切もえの文章で勇気づけられる人はいるだろうし、それはそれでいいのだろうけど、やはり彼女があそこまでの自信を持っていじめ一般論ぽいものを語るというのは、不遜であ...

  • 以前偉そうな人が、 「教育六法も指導要領も読んだことない奴が、教育問題について語るな!」と言ってバッシングを受けたことがあった。 教育を支えているカラクリとか役人的後ろ盾...

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