はてなキーワード: 茜丸とは
FC時代の名作「火の鳥」に漫画の原作があったので読んでみて衝撃だった。主に衝撃的だったのが、原作を全然無視していてそれでいて名作に仕上がっていた点なんだが、他にも細かい部分が色々あったので書いてみる
・書いてたのが手塚治虫
・「未来編」「異形編」など数本の中短編を集めたのが「火の鳥」。ゲームで「鳳凰編」しか出てない謎が解けた。原作に複数の編があったのだ
・原作の鳳凰編では太古にも来世にも行かず、ずっと奈良時代にいる。ていうか後半は奈良の都が舞台なんで大和にすら行ってないんじゃないんだろうか
・原作で火の鳥を探していたのは我王じゃなくてもう一人いる主人公の茜丸
・この茜丸はゲームのどこを探しても出てこない。2Pプレイヤーで出してもよかったのでは。イケメンだし
・鏡や勾玉などのマジックアイテム、ボスのモンスターに相当する奴らも原作では一切でてこない
・というより複数ある「火の鳥」のストーリーの中でマジックやらモンスターやら超自然現象が一番出てこないのが「鳳凰編」。ひたすら人間ドラマに始終している。ゲーム化にあたりなぜ鳳凰編を選んだのか謎
・鬼瓦は出てくる。最後に少しだけ作る。当然ジャンプしながら足元に作ったりしない
・結局何のために火の鳥の絵を16個集めてたのか、なぜボスモンスターがそれらを持っていたのかは原作を読んでも解決せず
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反応ありがとう。確かにドラえもんも鬼太郎も原作とかなり乖離してたよね。
ただそれらのゲームもアイテムやらボスやらは一応原作に関連するものがいくつか出る中、火の鳥は主人公の名前とタイトル以外全然別物じゃんこれとか、
そんな雑な企画で作られたにもかかわらず何周もできるくらい面白いゲームに仕上がってたのが奇跡かとか、そんなふうに思ったので思わずエントリー上げてみた。
そして映画。そういうのもあるのか!
もやもやしながら推移を見てきたわけだが、追いオリーブによって決定打が打たれた。
「見苦しすぎワロタ」。
今となってはもう明らかだが、これはもともと、店にいやな思いをさせられた客と、客にいやな思いをさせられた店との、ただの口論に過ぎなかった。
どちらが正しいか、というより、どちらが相手の状況を汲み取れる大人だったか、という程度の。
ところが、乙武氏は致命的な対応をしてしまった。彼は自分の最大の弱点にして最大の武器「五体不満足」を掲げてしまったのだ。
これは最強のカードだ。
おすぎとピーコに勝てるのは、三つ子以上のオカマであることが必要なように、
このカードに勝つには、六体以上の不満足を満たさなければならない。(不満足を満たすとはこれいかに)
あまり面白くない冗談を書いてしまったが、これの何が致命的であるかというと、かねてから彼が主張するバリアフリー、健常者も障害者も対等である、という意識は、お互いの意識改革によって実現されねばならないのに、対等のテーブルを自分から早々に降りて、攻撃に転じたことを意味するからだ。
(ふと、現在の彼の心境は、手塚治虫『火の鳥』鳳凰編の、茜丸ーー我王と鬼瓦を作る競争をして、誰の目にも我王の作品が優れていて、自分が負けるのが分かるのだが、茜丸は我王の、殺人鬼であった過去の所業を明かすことで、我王を追放して自らの面目を保つーーに似ているかもしれない、と思う)
彼は一人の客として、店側の不寛容に文句をたれるべきだった。(60万人に店名を挙げ褒めるもけなすも、私は問題のあることだとは思わない。それは影響力をもった彼の自己責任だ)
しかし、障害者差別のカードは、「かの差別”的”発言に寛容で、バリアフリーの主張を持つ」乙武氏がここで切るカードではなかった。
スレタイでもあったが、「私怨」を差別問題にすり替えたことによる周囲の落胆と、差別問題の後退は、やはり大きい。
(そんなの有名人ひとりに出来ることじゃねーよ、という意見はあるだろうが、彼はその力も、魅力もある、稀有な人物であると思っている)
失われた信頼を取り戻すのは、長い時間と苦労を伴うだろう。茨の道もあるし、これまでと変わらない道も、あるにはある。選ぶのは彼なので、その選択にとやかく言うことはできない。
しかし、やはりもう一段踏み込んだ言葉を発言する責任はあると思う。ネットを巡る日本の言論状況は、今回の問題も含めて、きわめてリテラシーが高く、本質を逸れてない意見が多かったように思う。西洋の言論のアプローチとは異なるかもしれないが、決して遅れても、愚かでもない。じじつ、最初にあげた2chの一行は、彼の、反省はしているが謝罪はしていない長文の本質が簡単に見抜かれている。