はてなキーワード: 32歳とは
http://anond.hatelabo.jp/20090408121545
面白いなあ。これ。
そこらのルサンチマンを抑制して書いてくれたから読みやすかった。
20歳代のうちに諦めもつくじゃないの。
それだと潰れた後、次のステージへ移ってもまだ何とかなるかも。
というのもよく分かる。
それよりマズいのは、
ガチンコで勝負する場がないから、
挫折するということがないし、打たれ弱い
「レベルの高い」ところで揉まれていないから。
だから、30歳代半ばになって目を覚ますこともなく、
諦めることもなく、
しがみついている連中も多数いる。
先月、
というような人たちと飲み交わしてきた。
オレも院生崩れ。でも方向転換はうまくいった。
宴席でも、あんたらももうダメだろう、なんとかしろよ
……とは軽口程度で指摘したんだけど、聞き流していったなあ。みんな
そんな連中に進路を思いとどまらせる方法をどうか教えて欲しい。
30代後半で未婚の女性を見ると、「なんで結婚しないんだろう?」って疑問に思う。
そういう私は今年32歳になる未婚女だ。やばいなあって思う。
一応彼氏いるけど、結婚はそんなにしたくない。だけど、結婚しないと周りから「なんで結婚しないんだろう」って思われるから、結婚したいと思う。
なんで「なんで結婚しないんだろう?」って思われるんだろう。
絶対既婚者に対し、「なんで結婚したんだろう?」なんて思わない。
すんごいデブな人とか、ブスな人が結婚してると、意外に思っちゃうけど。似たもの同士で結婚したんだろうなって納得する。
ああ、哀れみの目で見られたり、疑いの目で見られるのが嫌だ。結婚してないってだけで。
まともになりたいから結婚したい。
27歳で獣医学部再受験した同僚が大学に入学してもうすぐ1年になる。
最初に出た大学の時に借りた奨学金とあわせて、奨学金等の借金が卒業時に500万以上積もり積もってる計算になるそうだ。
年金の未払いぶんも含めれば、卒業時に700万くらい負債を抱えての再スタートとなるんだろう。
女の身でそれはきつい。
金持ちの亭主を捕まえてしまえばいいんだろうけれども、32にもなってようやく獣医としていよいよって時に子供産んだりする時間はないだろうし、子供嫌いときてる。
えらいモテる人だったけど、子供を産むつもりはない負債持ちの30代をもらってくれる金持ちを捕まえることなんてできるんだろうか?
借金を4年で返し終わると仮定して、36歳、開業のための頭金を4年で貯めて40歳、開業するときにつくった借金を5年で完済して45歳。
すごーく順調にいった場合のシミュレーション。
人生の一番輝いている期間を勉強にあて、みなが自分のためにお金を自由に使う独身貴族の時に奨学金返済に追われ、奨学金を返し終わってまた次の借金、がむしゃらに働き気が付けば50間近。
冷静に考えれば、どう考えても人生負け試合なのに、あまりの熱意に受験を応援してしまった。
合格の報せを聞いたときは、とても嬉しかった。
「売れるうちに(20代のうちに)体売れ」と言いたかった。言えなかった。
でも、でも、今体売ってでも、臓器を売ってでも、ある程度のお金を作らないとどうしようもなくなる。
夢を応援するのは簡単だし、自分も酔える。
努力も苦悩もなしに、夢だけ見れる。
今になって、自殺しようとする人の背中を押してしまったような罪悪感。
俺は、許されるのだろうか・・・
相手は32歳の人妻です。ずっとネット友達で顔も知ってた人。僕は高校中退してから1年くらい引きこもっている男です。中学生の頃なぜか告白されたことはあるけどずっと彼女なし。
一週間前にスカイプしてて、親がいない&たまたまえっちぃ画像見てやらしい気分になってセクハラ発言してた。「女の人の身体触りたい」とか。「Aさんとエッチしたい」って言ってたら向こうは「そんなこと言われたの久しぶりーw」って笑ってた。ケラケラ笑うから冗談のつもりで「エッチさせてよ!」って言ったら急にマジなトーンで「本気?」って。「ほ、本気だよ」「交通費もホテル代も出す?引きこもりに出せるの?」「……」「じゃあ私に全部出させるの?ねえ?」「ご、ごめんなさい」「……あはは、じゃあデートしようかー」で、昨日会うことになった。
池袋のホームで11時に待ち合わせ。ホームについたら電話してって言われてたからついてケータイ取り出そうとしてたらバッグでパーンって叩かれて振り向いたら笑顔のAさんがいた。顔は知ってたけど初対面なのでお互いニヤニヤ。Aさんが「けっこう背高いね(175cmある)。あの顔だから160ぐらいだと思ってた」って。Aさんは「どう?私の体型?想像通り?」、実は思ってたよりぽっちゃりしてたけど「コート着てるからわかんない!」って言ったらコートの前を空けたから「コート暖かそうだね」って言ったら「そう?」ってコートで包むように抱きしめられた。Aさん「暖かい?」僕「柔らかい」えへへへって二人で笑う。
Aさんに引っ張られてホテルに行った。「来たことある?」って聞いたら「あるよー」って。部屋についたら初めてだから色々部屋の装飾品が面白くて「すごーい」って見たり触ったりしてたら、Aさんが「そんなのいいから」って引っ張られてベッドにパンって倒された。ここから余裕あるフリしてたけど一気に身体が硬直。Aさんの顔が見れなくなって視線を下にしてたら、指で顔をくいって上げられてキスされた。心臓がバックンバックン鳴って黙ってしまう自分。Aさんが「初めてでしょ」って。「何でわかるの」「キスの仕方でわかる」って言った後ニコッて笑って「それに前に彼女いたことないって言ってたし引きこもりだし」。
ネットとかで見た手順だとする前にシャワーを浴びるはずって思ってたけど、いきなりベルトに手をかけて外し始めるAさん。「ちょ、ちょっと!」って言うと「え?」「恥ずかしい」「このくらいで?」「うん」「じゃあ、やめた」「え?」「する気ないんなら帰る」「する気はある」「嘘ついたの?」「う、うん」「じゃあ謝って」「ごめんなさい」。ズボン脱いだら上も脱がされて最後に下着。下ろしたら勃起してなくて「何で?」って聞くから「たぶん緊張してる」。でも手でしごかれたら一気に勃起して「緊張してるんじゃないの?」って。「今度は私を脱がして」って言うけど女性の服の脱がし方ってわからない。Aさんも教えてくれないし困ってると「もう!」って自分で脱ぎだした。
Aさんの身体は・・・おっぱいちょっと垂れてる。乳輪大きい。わき腹ぷにぷに。おっぱい超柔らかい!吸ってみたら特に味しない・・・。マン毛は整えたか切ったような長さだった。寝転がらされてディープキスする。これが超興奮!チンチンがピーンってなって上に乗っかってたAさんの身体に摺れてイキそうになる。「イキそうになった」って言ったら「若いね」ってえへへって笑って「イキたくなったら我慢しなくていいよ」って言われる。上半身の色んなところにキスされたあと、ついにフェラチオ。フェラチオすごい!!狂いそうになる!!あまりの気持ちよさに「あぅぅ」って声が出ちゃってたぶん一分も持たずにイッちゃう。我慢しなくていいって言われたから我慢せずに口に出したら「イク時は言って!」って言われる。イッても勃起しっ放しの僕のチンチンを握って「あいつのとは大違い!」って笑う。あえて何も聞かない。てか、怖くて聞けない。
マンコを開いて見せてくれた。うん、ぐろい。触ったらぐにぐにしてた。濡れてなさそうだったから「濡れてないの?」って聞いたら手掴まれて「指入れてみて」って入れてみたら濡れてた。
「じゃあ、入れる?」って言うので「うん」って言い、ゴムの付け方を教えてもらう。そしてついに挿入! ・・・なんかこうぬるま湯?暖かくてぬるぬるしてる。Aさんが動くと気持ちいい。「イキそうになったら言ってね」って言うから正直に「すぐイキそう」って言ったら「え!」って動きが止まる。止まった瞬間、イッた。
「ねえまだ私、全然まだまだだよ」ってゴムつけかえてもう一度。今度は正常位。AVで見た上半身を密着させて腰をバコバコするのがやってみたかったのでしてみる。身体がぷにゅぷにゅしてていい。でも、腰動かせない・・・。しょうがないので身体を起こして腰振ってみるも全然上手くいかない。ギクシャクしてるとAさんが起き上がってきて倒されてまた騎乗位。気持ちいい。「マンコやばいー、気持ちいいー」って言いながらイク。
「バックの方がやりやすいかな?」ってお尻向けてつきだしてきて「練習していいよ」って言ってきて、バックで入れた。真っ直ぐ腰を動かすのができなくて、リズムが取れなくてパンパン!って感じにできない。そして疲れる!それとAV見てるときはバッグでするより顔の見える正常位の方がいーじゃん、って思ってたけど実際にしてみてバックの方が絞まるしお尻がぷにって当たって良かった。Aさんが「いいよ、その調子」って言った数秒後にイッてしまう。・・・早漏なのかな?心配になる。
ホテルから出たら空がすごく綺麗に見えた。
細かく書きすぎたかなぁ。でも、はてなみてないだろうからいいや。
少し思い出したことなどがあるので。特にためになる内容はないです。
私は1976年生まれの32歳だから、1980年代前半くらいに物心がついてだんだんと世界を理解していくようになっていった。
そのころ、私が理解した当時の世界は「核の時代」だったと思う。もちろん、それが全てではないのだが。
当時は今よりもNHKなどでは原爆の特集を頻繁やっていたし、広島・長崎の悲惨な写真などもよく見させられた。
また、「世界の終末時計」というもの印象に残っている。世界の終わり(核戦争の勃発)である0時まであと残り何分、という
その時計では、世界の終わりまであと5分くらいまでのところまで来ていた。
そこで、あらまし次のような観念が幼年私の一時期、頭に存在していた(書いていて現在の自分は大袈裟な感じがするが)。
「私および家族、その他世界は生き延びる余地なく死ぬ。その死に方は広島・長崎の悲惨な写真や「はだしのゲン」で描写されたようなものである。
そしてそれは、今日、明日もしくは近日起こる」
民間のジェット機が低空飛行した時の轟音がそういう映像を強烈に呼び起こす一時期が私にあった。
現在の観点からみれば、1980年代はソ連にアメリカがチキンレースを仕掛け、軍事費の増大に耐えかねたUSSRが没落していく時代だったんだよ、ということでFAなのだろう。
また、当時からそのような考えを持った知識人は確実に存在していただろう。しかし、私はそれを知らなかった。
ノストラダムスの大預言なぞ、今では「と」ネタにすらならないだろうが、疑念を覚えつつもどこか真に受けているバカな小学生くらいの私がいたことは事実であった。
1999年に何歳になるのか数えたりした。
とはいえ、そんな観念といつまでも同居できるものではないから、いつしかそんなことは忘れた。
現在ではその感覚はかろうじて思い出せるくらいのものでしかないが。
さて、こういう経験をした人間が長じてどのような人なるのか知れるというものだ。
「あんたの死の危機がそこまできているよ」と煽られると不安になって、その発言者の思惑で動いてしまうバカ=私」
そして、
「日常が続くならすべてがそれでよい私」
である。
ネットであまり30代の人のこういう記憶について聞いたことがないような気がするので、書いてみた。気がするだけか…
※「世界の終末時計」はリアルに何分後に世界がなくなります、というものではもちろんなく、危機の度合いを象徴的に表現したものです。
くわしくはwikiを見てください。
なんだか、かわいそうだな。
もともと楽しんで音楽を作ってたら人気が出たと言うだけで年収20億円にもなっちゃったもんだから、お金の使い方がおかしくなっちゃったんだね。
宝くじに当たった女性も殺されちゃったしね、大金は不幸を生むね。
人にもよると思うし、豪遊したりもしてたんだろうけど、それもこれも、音楽著作権がわるいんじゃないかな。
音楽著作権の仕組みが儲かりすぎるから、悪いんだと思うな。大金が人を変えてしまうんだ。
資金繰りに困って夜逃げした中小企業の社長みたいに、綱渡りでお金をなんとかしようとして、ダメだったんだろうな。
なまじ有名だったもんだから、金額もすごいことになってて、まぁ逮捕は仕方がないね。
ちょっと大げさでしたかな。
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001005118&cycode=0
↓エクセル注意
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/Xlsdl.do?sinfid=000000036BBE
0歳児が1,056,800人
30歳 が1,873,576人
2倍とまではいかないわ。
1.8倍ぐらいでお願いします。
でも、32歳は2,009,592人いるから、ほぼ2倍といっても差し支えはないんじゃね?
もちろん総数での話しなので高齢化が激しい県については2倍以上の差はついているところもあるよね。
詳しくはエクセルをぐりぐりしてくれ。
都内の小学校とか1学年2、3クラスしかないらしいし。体感的には1/2.
つまり、この世代が50歳ぐらいになって会社の重役になったころには重役2人に新人1人ちゅう素敵構造になる。
これが高齢化社会だぜよ。
未来は予測しがたいものだが、人口と年齢分布だけはもっとも予測しやすいものだ。
って、バフェットさんがいってた。
10歳の子が途中から増えることは無いからね!
私は32歳の女です。
歩道の端を歩いているとクルマが猛スピードで幅寄せしてきたり、自転車が私をめがけてつっこんできたり、何度も死にそうになってきました。
実際に自転車に巻き込まれて足を20針縫いました。
変な人がよく近づいてきます。
浮浪者らしき老人が私のお尻を触りました。
このときはショックでした。
私がいやらしい雰囲気を発散させているのでは、と心配になりました。
だけどどう調べてみても私は普通の格好でマジメに歩いているだけです。
その後も繁華街でもない道で泥酔した男が「え??ニオイやな??チチ触ら してくれ」と近寄ってきました。一目散に逃げました。
もう労務者風の男性が怖くて仕方有りません。
私は足の裏の感覚が敏感で、靴を履いて歩いているのに右足がマンホールを踏んだら次のマンホールは左足で踏まなければ気が済みません。
白線や影も同様です。
足裏の中央部分で影を踏んだら 反対の足でも中央部分にぴったり影を 当てないと道を戻ってやりなおすのですが、やりなおしても達成感は薄いのです。
そして最近は死を怖がっています、
クモ膜下出血になりそうな予感と、交通事故に巻き込まれそうな予感と風呂釜や電化製品が爆発して大怪我を負いそうな予感と工事現場のクレーンが倒れてきそうな予感がして、それらが倒れたり爆発したりした場合に破片が届きそうな位置に近づくことが出来ません。
また、何よりも怖いのが「目に入る大きさの棒状のもの」です。
軸足を中心にして私がフラリと倒れたときに目に入る棒が目に届かない位置にしか立てません。
ガードレールも目をズバーっと裂きそうで近寄れません。
ときどきですが、水道の蛇口からも毒が出てくるのでは、という恐怖感もあります。
あと、毒見係ではありませんが サリンのときに活躍したセキセイインコも飼ったほうがいいかな、と思っています。
でも鳥は好きなので普通にペットとして飼うことになると思います。
小鳥を飼ったほうがいいでしょうか。
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
来春結婚予定
結婚相手は誰が見ても最高の相手。
でも、ドキドキ感キラキラ感はいつも私の毎日のそばにほしい。
体の関係は基本的になし。
職場やネットで知り合った(出会い系ではない)男性と食事やクラブに行くだけの関係。
でも明らかに友達ではない。
視線、触れ方、振る舞い。求められてるのがわかる。
それが私にパワーを与える。
たまに垣間見える、「俺と結婚できてよかっただろ」という態度。
私はそれを受け入れるつもり。幸せはその対価だから。
でも、心のバランスは保たなきゃいけない。
年下君が好き。
彼らは不器用ながらまっすぐに突っ走ってくる。
無理して高いレストラン予約したり。可愛い(!)
フレッシュな気分にさせてくれる。
私の心と体を切実に必要としてくれる。
私はそれをいつでも与えることも出来る。
そのことが楽しい。
でも彼と結婚したらこんな心境も変わるのかな?
32歳で700万円だけど
あと、もっと上で、以下同文の人も山ほど知っている。
年齢?
44歳の男性です。儲かっていない小さな会社を経営しいています。
妻は32歳、子供は一人で8歳の男の子です。妻のことは愛してますし家庭には特に不満もありません。けど、それだけでは飽きたらず家庭以外にも女性を求めてしまっています。最近、数が増えすぎて困ってきています。
今の「彼女」は
31歳主婦
33歳既婚看護師
この辺が月に一回ぐらい会っている相手です。可処分所得は月に20万円ぐらいで普通のサラリーマンより恵まれていると思うのですが一回のデートに3-4万ぐらい使うので正直金が持ちません。月に一回じゃなくてもっと会いたいとせがまれてますし。上記以外にも不定期で会っている相手が何人かいます。
彼女たちを騙しているつもりはないです。結婚していること、子供がいること、離婚するつもりもないことはちゃんと伝えてあります。妻以外にも複数いることは伏せてありますがw 相手によってはジレンマを感じつつ私と付き合っているようですね。
これだけ恵まれているにもかかわらず新しい相手を口説こうとしている自分がいます。今付き合っている彼女たちも愛おしいですしどうしたらいいのやら。病気でしょうか。病気ですよね。
以前にも何回か書いたけど、32歳にもなったわ。
子どもができてもう六ヶ月にもなる。
よく考えたら、大学卒業して就職してたら10年間給料貰えたわけだ。
それに比べて、俺ときたら奨学金で500万借金抱えてる生きる不良債権。
そんだけお金借りて、取った修士号って何の訳に立つのかね。博士はドロップアウトしてしまったしね。
大分の教員採用のあれをみて、やっぱり実力合ってもコネがないとだめなのだなと実感したね。しかし、あれだけひどいとは思わなかった。そりゃあ、学部時代優秀な人でも落ちるわけだよ。
親父の通夜で絡まれるわけではないけれど、伯父叔母の類はやはり愚痴を言いたくなるみたい。わかるよ。俺の方の親族には世間体ってものがあるし、妻の方には「離婚してくれ」ってプレッシャーをがつんと感じるよ。
うつ病になって八年にもなる。自殺念慮はもうないけれど、月一くらいにやるせない夜があってビールを少しだけ飲む。で、ODをしたくなる。たまにする。肝臓に良くないな。
そうやって、結婚三年目にはいろうとしているのだけど、妻が仕事を辞めるんですよ。だから、かなりのプレッシャー。死にたくなるけど、死ぬわけにもいかないし、ってかうつ病だと生命保険も入れないもんな。ああ、どうしようかな。てか、仕事しろよ。