はてなキーワード: 真犯人とは
その考え方を突き詰めると、車は交通事故を生むからメーカーを規制しないといけないし、包丁など刃物の製造や販売も禁止しないといけなくないか?
仮に本心から日本に永住するつもりで来日してきたとしても、たとえば生活が苦しくなったりすれば「日本に無理矢理連れてこられた」と言い出す人は必ず出てくる。それを黙殺したり批判したり出来るほど日本人は冷徹にはなりきれない。
それは真に受ける方が愚かというもの。
真犯人が「自分はやってない」というのを、真に受ける捜査官や裁判官がいるのか?
当時の人達は強制されたと思っていなかったかも知れない(多分思ってなかったんだろう)。しかし今は強制されたと言ってるわけで、仮に嘘だとしても、もう訂正がきかない所にまで行ってしまってるのも事実(今更嘘でしたなんて言ったら彼らのアイデンティティが崩壊しかねない)。これはその時すぐに反論せず半端に信じて長年放置してきた日本人にも責任はある。
実際に強制された(ただし当時の国内法としては合法だろうが)人もいれば、そうでない人もいる。
当事者がどう思っていたかとか、今どう思っているかというのは関係ない。
行為自体の評価の問題だからな。
重要なのは、事実がどうだったかではなく、強制連行された「事にしておく」方が得かどうかだと思う。神が人を作った「事にしておく」方がうまくいく国や文化もあるわけだから。
最近バイトもせず、遊びほうけているわけでもなく引きこもり気味の大学一年春休み。
あんまり家にいるのと、段々息が詰まってくるので本屋に行く事にした。雨なのに。
着いて1時間ほど立ち読みして、狙いの本が無かったのでそのまま店を出た。
鍵を出すのに手間取っていると、後ろから声がする。
「おい」
振り返る。
そこには自分の親父より干支一回り分くらい若そうな30後半のおっさんが立っている。
「おまえだな」
「さっき何したか覚えてんだろ?」
俺は考える、信号無視でもしたか、無理な車線変更でもしたか。
なんでこんな事を考えたかと言ったら大人に高圧的な態度をとられたのが、
現付免許をとって一週間足らずで一時停止の違反で捕まった時以来だったからかもしれない。
相手は続ける
「覚えてねえのかよ、ああ?」
「・・・身に覚えがありません」
「お前さっきここにいた奴だろ? 青い合羽着て」
さっき、というのがどれ位前の事なのかは分からなかった、が俺は紺色の合羽を着てここまで来ていた、紺だって青に類する。
まだ出していなかったが、荷台のボックスの中にそれが入っている。
「お前だろ?」
ここで俺は焦った、本当に何かしでかしたのかもしれない。つーかおっさん殴ってきそう。
こういう時のために護身術習うのかと思った。
だが相手はまだ俺が何かしらの犯人であることの確証を得ていないように感じた。
もし俺が何かしていたとしても、ここではぐらかす手もあるんじゃないかと考えた。
俺がこの間にうろたえていたのが相手の確信に繋がったのか
「お前、俺の娘に何かしたんだろ?警察とも探してんだよ」
「いや、それはないです」
・・・ああ、人違いだったか。そもそも娘に何かってなんだよ?おさわり?露出?強姦?
相手は激昂している、下手な事を言ったら俺が何かされてしまう。
ここでとりあえず合羽を見せる事にした。
「・・・紺ね、あとお前ニット帽被ってただろ」
「いや被ってないです、ヘルメットなら被ってましたけど」
「じゃあちょっと見せてみろ」
ここまでで、もう俺の中で俺は犯人ではない事は確定していて、見ず知らずのおっさんに持ち物検査をされようとしている。
これはおっさんの芝居で俺の財布を狙っているんじゃないかと、そんな考えが頭をよぎった。そもそも平日の16時に大人の男は働いてるもんじゃないのか?
しかしおっさんの顔が怒っている、恐い。怒られ耐性があんまりないんだよ。
鞄の中にタバコとかエロ本とかやましいもの入ってたらどうすんだろ、嫌だな。
とか考えながら財布しか入ってない鞄と原付の荷台に乗っている空のボックスの中、座席の中を見せる。
相手は、人違いだったと認めたかのように見えた。
俺は何故か、おっさんの追っている事件、犯人が気になってしまって
「あの・・・」
と声を掛けてしまった。
「ああ?なんだよ、文句あんの?やんの?」
と身構えるおっさん。
「あ、いや、すいません」
平謝りする俺。でも誤ったおっさんが謝るべきだろう。
そうしておっさんは去って行った。
ドキがムネムネした。
そこでこんな疑問が残った。
何でおっさんは真犯人はニット帽で青合羽だったのに、ニットも合羽も装備して無い俺に突っ込んできたのか。
月曜の日中に娘の敵を探しているおっさんは何者だったのか。
二つとも考えようによってはすぐ答えは出るけれど、真相は謎のまま。
[2010.1.23]
この事件は、釈放中の受刑者が嘘の自供をした為に捜査が打ち切られ、真犯人が野放しになっている。
有罪の根拠とされていたDNA鑑定で別人である可能性が出てきた為に、無罪判決が出るという事になっているのだが、では、真犯人はどうなるのであろうか。
釈放中の受刑者は、被疑事実については無罪なのかもしれないが、自供によって捜査を妨害し、被害者の無念を晴らす機会を喪失せしめた事について、どのように考えているのであろうか。いずれも時効が成立してしまっている為に、今更蒸し返す事は出来ないのだが、嘘の自供をした事に対して、道義的な責任が存在する筈である。この責任を、どのように果たすつもりなのであろうか。無罪判決を受けても、この責任について、無罪となったわけではないのである。
自分の事だけしか考えず、被害者やその遺族の無念や、真犯人を野放しにする事に考えが至らない思慮の浅さは、長年の刑務所暮らしをしても、変わらないようである。
捜査担当者や検察官に対し、犯罪を認める嘘を述べたのは、厳しい取り調べを受けたからであると主張し謝罪を要求しているらしいが、捜査担当者や検察官は、被疑者を取り調べる職務を果たしていただけである。大量の犯罪者を見ているそれらの人々は、本当にやっていないのであれば、どんな証拠が出てきても証拠の捏造を訴え、無罪を主張すると、経験的に知っている。また、証拠が事実であっても無罪を主張する精神異常者か、社会的に失う物が大きすぎて認められないという状態であるかどうかを見極められるというレベルにまで、犯罪者を見慣れている。そういう観点からだと、証言があやふやな被疑者は、精神異常者でないのであれば、犯人である。
証言とDNA鑑定だけという立証であった為に冤罪が発生したとも言えるが、釈放中の受刑者の側にも、社会性の欠落という原因があった。釈放中の受刑者と捜査機関の対立は、どっちもどっちであり、不毛である。そして、殺害された被害者とその遺族の無念だけが放置されている。彼等は誰を憎めばよいのであろうか。
最近は、精密司法へと起訴基準が変わっており、自供が無くても有罪が確定的な犯罪しか起訴しないようになってきている。自供は、他に犯罪が無い事を確認する為と、量刑を決定する際の更生の可能性を測る基準にしか使われない。懲役を受けている最中に他の犯罪事実が明らかになると、心証が悪く、確実に刑期が伸びる。自供を求めるのは、まさに、被告の為となっている。
取調べの可視化という話が出ているようであるが、公職にある政治家の日々の活動こそ、可視化するべきであろう。勤務時間中は長時間録音が可能なICレコーダーを持ち、全ての会話を記録し、誰と会って何を話したかをテキスト化し、議事録として関係者に内容の確認を得た上で公開することは、webを使う事で不可能ではなくなる。守秘義務やプライバシー等の理由で非公開にするならば、何年後に公開という条件をつけて非公開としておけばよい(cf.[2003.9.29])。検察の任意聴取の内容も、自ら公開できるのである。下に可視化を求める前に、自ら可視化を実行してみせるべきである。今まで求められてこなかったから政治家はやらないが、警察・検察はやれというのでは、たんなる嫌がらせでしかない。
tonbo tonbo 読書会で、その「限界」に言及したけど、「ラノベの限界」の解釈のニュアンスがずれてるんだよなあ。ブクマコメント見るとさらにズレて解釈されてる。もどかしい。商業的な限界を言いたかったんだが……。 2009/09/23
あえて商業に話を限定して言うけど、クオリアに限らず今のラノベでSF分を増やせば増やすほど読者は加速度的に減少していくというでっかい現実がある。これは詳細までよく練られていようが、理論的な整合性がきちんととれているかどうか、とかはあまり関係がない。
もちろん、いくつか例外はあるけどそれはあくまで「例外」なのであって、SF分を一定以上に濃くした物語で損益分岐点を越えようとすると、特に大手のレーベルのような初版が多いところにはバクチ要素がかなり強くなる。
さすが、ライトノベル感想サイト大手の中でも指折りのスイーツ(笑)脳の持ち主、極楽トンボ御大でございますな。
自分のジャンル小説リテラシーのなさ(SFもミステリもファンタジーも本当に読めませんよね、この人)をライトノベル読者全体の問題であるかのように語らないでいただきたいものです。
小・中学生でも、《涼宮ハルヒ》シリーズを単なるキャラ萌え小説として読んでいる読者ばかりでもないし、SFよりもある意味でハードルの高いファンタジーでも、『精霊の守り人』みたいな、リテラシーが要求される児童文学作品を普通に読んでいる(《守り人》シリーズは下手なラノベよりよっぽど売れてるし、学校図書館の貸し出しランキングでも上位に入る率が高い)。そういうものは全部「例外」ですか?
トンボ御大やラ管連の大勢は、そろそろ自分たちが「一般的なライトノベル読者」ではなくて、「まともな知性も向上心もないライトノベル読者」という少数派の代表であることを悟っていただきたいものである。この人たちの声が大きいことって、害悪でしかないと思うよ。
サマーウォーズの鑑賞中、セキュリティ描写が気になって映画を半分(主にカズマパート)しか楽しめなかった。
その後、はたしてどのような描写であれば納得感を得られたのかと妄想していたら、妙な答えに行き着いた。
http://d.hatena.ne.jp/LM-7/20090831/1251727185
ここにあるように、もしあの2056桁の数列がRSA暗号における鍵であるとして、健二が素因数分解により平文(おそらくアバターの操作や仮想建物への入室のためのパスワード)の復号をマトモに暗算で行っているということは考えにくい。そこには何らかのショートカットが存在するはず。おそらく、OZの暗号鍵生成アルゴリズムに実装上のバグがあり、何らかの推察(法nに規則性、乱数が甘いとか)を許してしまうような物だろう。これは、おそらくOZの技術者の中では既知のもので、対応中のものだったのではないだろうか。そう、だいたい55人くらいにはそのショートカット法を知られていたくらいには。
ここで思い出してほしいのは、健二はOZのメンテナンスのアルバイトをしていたということ。
メンテナンスのため管理棟(だっけ?)と言われる領域へログインし、何か作業を行っている様子が見られる。どんな作業かは分からないが、物理部の彼らのこと、そうした暗号への興味もあるだろうし、知ってしまっていたとしてもおかしくはない。(こんな危険なバグの対応をバイトの学生に任せるなんてありえないが、あるいはバイトとはこの問題への対応のためのテストであり、その過程で知ってしまったのかもしれない。)
だが、ラブマシーンの描写を見ると、できることはアバターを乗っ取ることだけで、OZの基幹系システムそのものを乗っ取ったわけではない。あくまでアバターの可能な範囲での権限の行使に限られていて、たとえば花札のルールに介入したり、配られる札を操作したりするようなことはできない。
ラブマシーンが米軍によりOZに放たれたとき、彼にできることは相当限られていたはず。
彼が暴れるためには、多くのユーザの秘密鍵の管理を行う管理棟へ入れるアバターを乗っ取ることが必要だった。
ラブマシーンは何かのきっかけで上記の脆弱性を知り、OZ管理者に近いアバターの鍵をなぜか知り、その解を解けそうな人物へ送付する。メールでその鍵の復号を知る。
それを手がかりに秘密鍵へのアクセスを可能にし、あとは選択平文攻撃によってアバターを次々に乗っ取っていく。でも、最初の一歩、管理棟への出入りのための鍵はどこから?
その、最初の鍵は、どうやって手に入れたんだろう?
ここで、一人の傷心の人物が浮かび上がる。
OZでバイトしていた、物理に興味のある、あまり目立たなかった人物。
彼は暗号を自力で解くほど数学の才に恵まれていたわけではなかったが、秘密鍵のありかと、脆弱性があることは知っていた。
じゃん拳に負け、東京に一人残った彼。
傷心の彼はその日、管理塔のまわりをうろつくラブマシーンに気がついた。何でも知ろうとし何でも吸収しようとするbot。
本当は、知識を吸収して報告するだけの何も権限のないbot。
そう、佐久間敬君、きみ、あれに何か渡さなかったかい?その見返りとして健二のアバターを使うように申し出たり?
暴走したラブマシーンとは、あれは君?
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▽
遠山の金さんといえば庶民感覚で犯罪者を裁いた”名裁判官”として歴史に残る。通俗大衆小説のモデルにもなり、何回かテレビドラマにもなった。
お白砂には花吹雪舞う刺青の松方弘樹扮する金さんが颯爽と登場して悪を懲らしめ、弱き庶民から拍手喝采をあびる。
江戸時代までは検非違使の伝統が息づいていた所為か警察、検察、司法が同じ行政機関で行われた。警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が法に従って結審するという近代の概念はなかった。火つけ強盗改めの長谷川平蔵も然り。
大岡越前守も温情主義裁判で庶民に人気がある。考えてみれば南町と北町奉行所の同心だけであらゆる民事裁判をまかなっていたのである。
江戸時代を世界同時代的に俯瞰すると日本はたいそう治安が良かった。日本人が裁判沙汰を好まなかった証左にもなる。
水戸黄門様は印籠をかざして即席裁判。これは超法規行為であり、そもそも黄門様は司法の独立って概念を知っていたのかな。
そういうわけだから日本人は争い事が嫌い、裁判は避ける。なにごとも裁判で決着をつけ、交通事故でも弁護士をよぶ米国とは法律の風土が違う。
だが世の中が変わり「国際化」というアメリカ化が進んだ。外国人の犯罪ばかりか、外国企業との軋轢、特許係争が頻発し、あげくは米国からの強い要求が突きつけられる。日本に弁護士が少ない、と。
この結果、二つの政策が実現した。まずは大学に雨後の竹の子のごとく誕生した法科大学院。
そして日本に馴染むかどうか不明な新制度、すなわち裁判員である。しかもこの裁判員が臨む裁判と言えば殺人、傷害致死、放火、身代金誘拐などの重大犯罪であり、死刑か量刑か無罪かを決める「大岡越前」の小型ヴァージョンとなる。実際に最初の判決が八月初旬に実現し「業界予想よりすこし思い」量刑が下った。世間の常識が裁判官の常識を変えた例になった。
ともかく裁判員制度の発足は米国からの圧力が遠因、これに財界の要求が一致し、日弁連が便乗した。奇妙な、面妖な裁判員制度が日本にうまれた。
左右の境界線がないまま賛否両論が渦巻き、「ともかく始めてみなければ分からない」ということになったわけだ。
議論は曖昧なまま、米国へのジェスチャーのごとくに審議が進み、国民が誰も知らないうちに米国流の「陪審員」制度の誕生となったことは述べたが、米国には黒人奴隷制やリンチによる縛り首があった。日本とは異なり犯罪者も多く、弁護士は百万人以上、なかには悪徳弁護士、アンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて患者から事故の弁護士を成功報酬でいかがかと注文をとる)もいれば、マッチ・ポンプもいる。セクハラをでっち上げて日本企業から大枚をせしめた手合いもいる。
だから伝統重視の保守派がいきり立って反対の論陣を張る。教養の低い、裁判官に比べると法律知識のない素人にそんな重大犯罪を判定させて良いのか、それこそ左翼の思う壺ではないのか、と。
第一に無知蒙昧なる庶民が重大犯罪を裁けるのか。冷徹な判断が出来ず情実に走り、死刑を避ける傾向が顕著になるのではないのか。
第二に陪審員は買収されやすく誤審、冤罪が多く死刑執行後に真犯人がでるケースが米国では頻発している。だから「逃亡者」というテレビは大ヒットした。反面で、陪審員を黒人ばかりにして、妻殺しの「無罪」を勝ち取ったO・J・シンプソン事件のような法廷テクニックの悪用がおこる。
第三にこれは基本的に人民裁判であり、ソクラテスの「法は法なり」と言って毒杯をあおいで死ぬようなケース、あるいはマリー・アントアネットのように左翼お得意の人民裁判が復活する恐れはないのか。
▲上告審には適用されず、なんのために必要なのかは不明
細かな問題点はほかにも多々ある。
一、選挙管理委員会のリストを元に無作為に選ばれる「裁判員候補者」は面接で拒否されることもあるシステムとはいえ、拒めば罰金とか、法廷の密室での協議内容は一切喋ってはいけないが、違反した場合、数十万円の罰金とか馴染めない特徴あり。
四、多数決で裁定することが本当に妥当なのか等々、問題点が沸騰する。
ところが新制度では凶悪犯罪の一審でしか適用にならず、高裁から最高裁へと上告するに従い、裁判員はおかれない。どのみち現在の裁判で一審で終わる裁判は稀だから、それならいったい何のためにこういう「改革」が必要かも論議された。
裁判員制度導入に賛成する保守の論客も意外に目立つ。代表選手はコラムニストの高山正之氏だ。
高山氏は産経新聞ロスアンジェルス特派員時代に多くの裁判を傍聴し、陪審員制度に精通し日米の裁判に関連する著作も多い。
法律の解釈しか知らない裁判官、世間知らずの無知な裁判官より大衆の叡智、つまり民度が裁いたほうが適正な判決が出やすく、主知主義、インテリの暴走、左翼優勢といういまの偏向状況を覆せる嚆矢になるかも知れないという。世間智の欠如甚だしきインテリの裁きより大衆のほうが賢いという日本人への信頼がそう言わせるのだろう。これぞまさしく遠山の金さんの時代への回帰ではないか。
ただし米国の陪審員制度といい、今度の日本の裁判員制度といい、これらは民主主義の発展とは相関関係にはない。司法の民主化などというお題目は寝言の部類であり、推進側だったはずの日弁連ですら一部は反対に回っているそうな。
通巻第2702号
「真犯人の処罰と,無実の人の処罰を防ぐことの2つの要請の間で,どこでバランスを取るかという問題なのではないか。」
「それはバランスの問題ではないし,価値観の問題でもない。答えは決まっている。刑事司法は後者の役割を果たすことを第一次的に期待されている。」
「理想論ではなく,現実の問題の話をしている。一人の無実の処罰を防ぐために,多くの真犯人の処罰を放棄するのか,それとも,真犯人の適正な処罰のためには多少の無実の人の処罰はやむを得ないと考えるのか。」
「そのような発想は根本的におかしい。無辜の処罰を許容する考え方は採れない。」
「目の前で泣いている被害者を無視できるのか。そんなことで社会の治安を守れるのか。」
「被害者の救済や,社会秩序の維持は,司法だけの役割ではない。司法は無辜の処罰はしない。その場合に被害者や社会に問題が残るのであれば,市民や行政が手当をすべきだ。痴漢を防ぐためにはまず電車会社が努力すべきであり,警察も取り締まりを強化すべきだ。行政は被害者の救済に配慮すべきだ。」
「自分が被害者になったときにも同じことがいえるのか。自分の娘が強姦されても。」
「確かに悪質な性犯罪には憤りを感じるし,自分がいつでもその被害者になりうることも自覚している。しかし,同時に,誰もが「被疑者」にもなりうる。」
「それで市民が納得するか。」
「道路の速度制限の問題なら,交通の安全と迅速輸送の要請の間でバランスをとればいいだろう。そして,そのバランスは政策の問題であり,国民の合意が得られる立法をすればいいだろう。しかし,刑事罰は国民の恣意で左右させることは本来的にできない。無辜の処罰をしないことは近代刑事司法の大原則だ。」
「それは理想論だ。現にえん罪事件は起きている。それは,一定の場合には無辜の処罰を許容しつつ,犯罪者の適切な処罰を図っていると言うことなのではないか。」
「実際にえん罪がありうるとしても,それを刑事司法は許容していない。えん罪は刑事司法の病理現象であり,それをいかに防ぐかが課題だ。そして今は,刑事司法の生理現象の話をしているはずだ。」
「裁判員はそれで納得するだろうか」
「むしろ裁判員は,自らが『無辜の処罰』をすることを決して望まないだろう。評議はこれまでの裁判官の合議よりも慎重になると思う。」
「目の前で泣いている多くの被害者を見てきた立場からすれば,多少疑わしい程度で処罰を回避することはできないように思う。」
「警察の立場で,被害者の立場を重視する考えが強いのはよくわかる。警察・検察は被害者や治安の維持のために努力し,弁護人は被告人のために努力し,その上で,裁判所はどのように判断すべきか,という話だ。裁判所は被害者の立場のみを過度に強調することはできない。」
「当然のことだが,警察と裁判所とでは考え方が違うと言うことはよくわかった。」
「それはかなり健全なことだと思う。三者が努力し合うことで,刑事司法がより適切なものになると信じる。」
(注)「バランスの問題だ」と言ったのは財務官僚であり,被害者の立場を強調しているのは警察官僚であり,「無辜の処罰をしない」建前を強調しているのは刑事裁判官及び弁護士である。
前の日記「裁判員制度を問い直す議員連盟の主張が判らない(http://anond.hatelabo.jp/20090501004438)」では、はてブ1個と言う寂しい状態ですが、構わず続きます。
『「裁判員制度」凍結、見直しにむけた「12の論点」』はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/21929301bf51872669470a5abd17bbeb
③「無罪」の判断をしても強制的に「量刑評議」に参加を強いられる
主権者である国民は、日本国憲法第19条によって「思想・良心の自由」が保障されています。多数決で決められた有罪判断の後に、「無罪」の意見を述べた裁判員が、被告人の量刑に関する評議に加わるように裁判所から強制されるいわれはありません。(現在の裁判員法はこの場合の裁判員辞任を認めていない)よって、評決において「無罪」の意見を述べた裁判員は、量刑に関する評議への関与を強制されないこととするべきです。
「無罪・有罪」の評議の後に量刑の評議になる、と言うのは確定情報じゃないですよね。もちろん、殆どの場合そうなると思いますけど。前の日記でも例に出した精神鑑定が議論になるケースで、裁判官はともかく、裁判員はそんなに割り切って判断できないのでは? 無罪はありえないけど死刑は反対とか、無期なら賛成だけど死刑にする位なら無罪とか、そういう人は居ると思う(その考え方が妥当かどうかはともかく)。
それに、大前提として「評議が2択だけで無効票を投じてはいけない」と言う決まりは無いのでは? 少なくとも今現在見える範囲でそんな事は何処にもそんな事は書いてない。増田はただの一般人なので、無効票は禁止されているのにそれが知らされていない、と言う事なら、それはそれで大いに問題だと思う。けど、ありもしないルールを前提に制度批判するのはおかしいですよね。
現状のままに裁判員制度が実施されれば、多数決で有罪が決まり、死刑判決が下される場合が想定されます。無罪と判断して死刑判決に反対した裁判員も、「有罪・死刑判決」に加担したことに、多大なる苦しみと自責の念を抱え続けるおそれがあります。ましてや、判決後に冤罪の疑いが強まり、救援運動が起きた時などの苦悩は想像がつきません。
4月26日放送の『NHK日曜討論』では、但木敬一元検事総長が「模擬裁判でまずかったのは、時間の関係で全部を多数決の評決で進んだこと。せめて、死刑判決だけは全員一致するまでていねいに評議を尽くしてやる必要がある」と発言しました。そうであれば、「死刑判決の全員一致制」を評決ルールの中にきちんと位置づけておくべきではないでしょうか。
死刑だけ特例にする人には「死刑は取り返しが付かない」と言う感情がある様ですが、無期懲役なら取り返しが付くって物でもないでしょう。裁判員が感じる負担云々と言う話に対しては、死刑以外の判決なら感じないとでも言うのか、と言いたい。
取り返しが付かないというなら、無罪はどうなのでしょう。日本の刑法では一度無罪判決が確定したら、例え後から確実な証拠が出て来たとしても2度と同じ罪で裁判に掛ける事は出来ない筈。
冤罪があってはならないのと同じ様に、真犯人が罰を逃れる事はあってはならない訳で、実は有罪だった事が後で判った時の裁判員の負担は多大なものでしょう。特に、裁判員制度では「裁判官がどう判断していようと裁判員が多数派であれば、幾らでも刑を軽く出来る(無罪にも出来る)」訳ですから、プロの判断を押し切って素人判断で無罪にしてしまった、となれば、その後悔や被害者への自責の念は相当なものだと思います。
では、死刑と同様に「無罪判決も全員一致制」にすべきですか? 増田はそうは思いません。全員一致性など無用です。特定の判決だけを条件変えるのは余りにバランスが悪いでしょう。
穿った見方も付け加えておきます。『①思想・信条による「辞退」や面接時の「陳述拒否」が認められない』の中で『裁判員候補面接時に「死刑も含む法定刑を選択出来るか」と問われた国民が、「『憲法19条の思想・良心の自由』に照らして、私はこの質問にお答えできません」と応答した時に「正当な理由なく陳述を拒んだ」として制裁を受ける危険があるのも問題』であり、陳述拒否が認められるべきだ、と主張していますね。これを組み合わせると、「何があろうと死刑反対」の人がその主義主張を隠して裁判官・検察を欺けさえすれば、全員一致制に反対票が入って死刑判決は出ない、と言う事になりますね。死刑を済し崩しに廃止する為に裁判員制度批判を利用している、と言うのは穿ち過ぎた見方かも知れませんが、この2つがセットになれば事実としてそう言う事が可能になります。
実は『「裁判員制度」凍結、見直しにむけた「12の論点」』の中で、増田が最も胡散臭いと思うのはこの2つがセットで出てきた所です。少なくとも『①思想・信条による「辞退」や面接時の「陳述拒否」が認められない』と『④死刑判決を全員一致ではなく「多数決」で行うこと』の両方が同時に修正される事は絶対にあるべきではない、と増田は思います。死刑に賛成するしないの問題ではなく、「裁判員制度」の(納得できない)問題修正のせいで、「死刑」の問題が済し崩しになる事は不適切だと思うからです。
日本国憲法第32条には、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」とあり、被告人の権利を幾重にも規定している日本国憲法の趣旨に鑑みれば、「裁判員裁判」しか選択できない制度は憲法に反します。よって、被告人に、裁判員裁判を受けるか否かの「選択権」を保障するべきです。
そもそも被告に限らず、誰にも「裁判制度の選択権」なんて無いです。
第一、選択権を行使する事に意義があると言う考えは、裁判員付き裁判かそうでないかで被告に有利不利の差異がある、と言う発想ですよね? そんな差異はそもそも有ってはいけないのであって、差異がある事を前提に選択できる様にしろ、と言うのは制度策定の発想として、根底が間違っていると思います。
⑥取調べの可視化が実現していないこと
警察官、検察官が作成した調書の任意性・信用性をめぐる深刻な争いが起こることを防止し、裁判員が適切な事実認定を行えるようにするためには、取調べの可視化(全過程の録音・録画)の実現が不可欠です。現在、警察庁、検察庁において、取調べの「一部」について録音・録画の「試行」が行われてはいるものの、取調べの可視化の「実現」には至っていません。また、国連などから長年にわたって人権上の問題を指摘されている「代用監獄」も存置されています。
⑦公平な裁判のための条件は整っているか
被告人のための十分な弁護活動を保証するためには、公判前整理手続で、検察官の手持ち証拠リストが開示される必要があります。また、「公判前整理手続きを担当する裁判官」と「裁判員裁判の裁判官」が同一人物では、法廷に臨む裁判員と裁判官の情報落差は決定的なものとなり、裁判官のイメージ通りに評議・評決が誘導されるおそれがあります。また、被告人が捜査段階の自白を強要されたものと訴えた場合には、検察官面前調書(2号調書)の採用は禁じることが必要です。
この2つは裁判員制度の問題じゃありません。裁判員の居ない裁判制度ならこの2つは関係ないんですか? 違いますよね。
唯一『「公判前整理手続きを担当する裁判官」と「裁判員裁判の裁判官」が同一人物では、法廷に臨む裁判員と裁判官の情報落差は決定的なものとなり、裁判官のイメージ通りに評議・評決が誘導されるおそれがあります』の部分は妥当な意見だと思います。
放火・殺人等の「重大事件」を裁判員制度の対象とすることを改めるべきです。裁判員となった国民に、短期間で「死刑」か「無期」かの究極の選択を迫るべきでない。よって、裁判員制度の対象事件から、少なくとも「死刑」に当たる罪に係る事件を除外し、軽微な犯罪から審理するべきです。
軽犯罪で裁判員なんて集めてたら年間何人裁判員が必要になるんですか? 凡そ現実性のない主張だと思います。
あと4つ残ってますが、いい加減長いので、一先ずこの辺で終わります。
反応あってもなくても、12個全部書きますよ~。
ほんとは保坂議員のBLOGや、この件で対立して「この問題については、私は一切譲るつもりはありません(http://ameblo.jp/gusya-h/entry-10252659453.html)」とか書いてる早川忠孝議員のBLOGにもトラバしたいんですが、増田ははてな内しかトラバ出来ないんですよね?
http://anond.hatelabo.jp/20090306040620
この手の意見に反論する人って、
http://anond.hatelabo.jp/20090306052519
とか、
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20090306/1236317982(コメント欄)
とか聞いても無いこと前置きする人多いね。
擁護するんだったら別に「利益が出てるエロ同人誌の作者」という立場であっても反論できるはずなんだけど。
いちいち、そうじゃないって表明してからなのは結局、その手の行為がやましいと思ってるからなんじゃあないだろうか。
本当に純粋な同人活動してる人が、この手の嫌儲意見にわざわざ反論してあげて、単に儲けてる「愛の無い」同人ゴロは黙って擁護してもらって不思議だね。
私が生きてきた中で
最も怖かった恐怖体験を聞いてください。もしよかったら今現在も地元に住んでる人が
現われてくれたら、情報をください。
今から10年くらい前の話になります。私は毎朝愛犬を散歩する事が日課で、
いつものようにいつもの道を散歩していました。
いつものようにその道にさしかかると、不思議な光景を目にしました。
文章力が無いので何と説明したらいいのか分かりませんが、
黒い車が学校の正門を正面に、乗り上げるように停車しているのです。
(丁度学校の正門と車が向かい合うような形で停車。)
私は「???」と思いながらも、車を通過しました。
時間にしておそらく6時15分??30の間だと思います。
犬を飼ってる人なら分かると思いますが、犬の散歩の時間は大体安定しているので、
その時間に間違いはありません。
そしてその道を通過し、いつもの散歩コースを歩いたあと、また先ほどの道を通り、
家に帰るのですが、その時に正門前に「人間の首」が置かれていました。
正直な話、本物だとは思いませんでした。おそらくこのレスを読んでいる人は「異常な臭いで分かるはずだろww」と思うかもしれませんが、全く異臭はしませんでした。
最もそれが本物だったと知ったのはその後、警察が情報収集?(専門用語わかりません。)しに来た時でした。
ただしその時の警察の話があまりにもおかしいのです。
警察は確かに言いました。「正門の柱の上に置いてあった首」間違いなくそう言いました。
事件が事件だけに、TVにも散々取り上げられましたが、TV放送でもそう報道されていました。
しかし私が見た時は間違いなく「正門の前」(すなわち道の上もちろん学校の敷地内ではある)である事に間違いはありません。もちろん私はその事を警察に告げました。
例えばそれが、私だけが見た現象ならば私の「幻覚」にすぎないかもしれません。
しかしどうやら幻覚ではないようです。
なぜなら早朝あの通りをジョギングしている近所のおじさんも正門前に置かれている事を目撃していたからです。しかしこのおじさんと、私の意見は少しずれています。
おじさんは「首が正門の方を向いていた。(つまり道に背を向けていた)」と言います。
何度も確認したから間違いないそうです。おじさんも「本物の首」とは思わなかったらしいです。時間帯は5時10分だったらしいです。
学校の時計でいつもここを通る時時間を確認するらしく間違いは無いと言います。
しかし私が見た時は、間違いなく正門に背を向けていた。(道を正面から見ていた状態)だったのです。だからこそ「タチの悪い悪戯だな。」と思えた訳です。
犯人が見つかるまで、地元でも(おそらく日本中で)犯人探しに近い情報のやりとり
が行われました。その結果、私が見た黒い車を「トラックの運転手も目撃」している事が
分かりました。問題なのはその時間です。私が黒い車が正門に乗り上げるように停車しているのを目撃したのは6時15分??30分の間と言いましたが、彼は4時50分頃目撃したそうです。
それだけではありません。この黒い車は新聞を見てしりましたが、散歩中のお婆さんなどにも同様に正門前で停車している所を目撃されています。時間帯はまちまちのようです。
更に新聞や、近所の人の話によれば、どうやら犯人は「学校近くに潜み、何度が首の位置を変えていたらしい」ようです。TVでも似たような報道を確かにしていました。
私はそこまで丹念に見たわけでは無いので気づきませんでしたが、少ないものの、
血痕があったらしく、それも「首を移動していた事」を売らずけているそうです。
一部ではこんな報道もありました。「正門の柱の上に置くのはかなり背が高くなくては
不可能で・・・・仮に台等を用いたとしてもかなりの大男が犯人だと思われる。」
地元ではこの「黒い車」の男の話で持ちきりでした。私地震目撃した訳ではありませんが、
この「黒い車」と同様と思われる車は被害者J君が行方不明になる当日も公園前(J君が行方不明
になったと思われる公園の前)に駐車されていた事が確認されていたようです。
おそらくこの時点では日本中が「黒い車」の男に注目していたと思います。
いざ犯人が捕まってみれば中学生ではありませんか!!あの時の「????」と
いう気持ちは今も忘れないほど衝撃的でした。地元では「警察本当かよ!?」的な
話題で持ち切りでした。私達地元住民が「????」と思うのは何も「黒い車」だけでは
無いんです。
J君が行方不明になった後、警察が公開捜査に踏み切りました。この時、地元住民も協力を
しています。相当な人員だったと思います。周囲を見渡せば警察だらけです。警察が視界に入らない
事などありませんでした。私達地元住人がまず一番に探したのは「タンク山」です。
あのあたりで人間を隠せそうな所と言ったらタンク山くらいしか無いはずです。
だれもがこのタンク山を見て周りました。
公開捜査では誰もタンク山で遺体の「胴体部分」があった事など目撃できませんでした。
ちなみに警察は警察犬を導入して探していました。公開捜査を止めた翌日にその「タンク山」で胴体が目撃されたのです。
確か私が見た新聞ではこんな見出しだったと思います。「遺体の服を着せかえる??」
そうです。この前夜は雨が降っていました。新聞によれば衣服に乱れが無い事、
土が付着していない事、濡れていない事から、「別の場所で殺害し、公開捜査が終わった翌日に胴体をタンク山に捨てた。」と警察は考えているようだ。
みたいな事が書かれていました。
しかしいざ犯人が捕まってみれば、「タンク山で殺害し、タンク山で首を切断、その後タンク山アンテナ基地内に胴体部分を移した。」ようです。
タンク山アンテナ基地内と言うと、文字だけみれば発見にくく見えるかもしれませんが、金網張りに
なっているだけです。外からみてすぐに分かるんです。
タンク山は歩道のような物があって、そこを辿るだけで、「アンテナ基地を正面から捉える視点になるんです。」したがってそこに本当に遺体があったなら地元住人が見逃すはずがありません。ましてや警察犬がみのがすでしょうか?
おそらくググれば分かると思いますが、この時新聞ではこうも書かれていました。
「用意周到な犯人が珍しく焦りを見せていた。靴の片方が脱げ落ちており、片足がアンテナ基地内からはみ出していた。」
この状態で死体を見つけられない事なんてありえるのでしょうか?
さらにこれもググってもらえれば分かると思いますが、少年AがJ君の首を切断した日は「日曜日、しかも公開捜査中の真昼間」です。
このタンク山は散歩コースに使っている人も多いです。そこでどうやって首の切断に成功したというのか・・・・・・。
少年Aが真犯人だとして、首の切断、移動はうまくやってのけたとして、胴体部分をどうやって誰にも
みつからずに移動したのでしょうか?胴体が公開捜査で見つからなかった事からも、後からそこに置いたのはほとんど明らかです。
ちなみにこの事件を担当した兵庫県警は「グリコ森永事件」と、もうひとつ過去にあった大事件を、解決できていません。
その後にまた大事件が起こってしまっただけに・・・・・・・・・・・・・。
↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4770502001
内容紹介
●乳がん発症 → 乳房切除 → 5年後に転移 → 2週間後に再々転移 → 放射線療法 → リンパ節に3度目の転移 → 放射線による卵巣摘除 → リンパ節に再度、鶏卵半分ほどの大きさのがん発症 → 牛乳・乳製品・乳牛肉の摂取をやめる → リンパ節のがんが小さくなり消滅 → 15年間一度も再発なし。
……以上が、42歳で乳がんになったプラント教授の乳がんの歩みである。たたいても、たたいても、消えないがんにおびえながら、プラント教授は、自分がなぜ乳がんになったのかを調べ始める。
●プラント教授は、最初に乳がんになったあと、ブリストル・ダイエットという有名ながんの食事療法を取り入れた。これは、油・動物性食品・塩分・カフェインなどをとらず、野菜や果物、ヨーグルトなどを多くとるという食事療法であった。しかし再発! 余命は長くないと、医者からも告げられる。……愕然とするプラント教授は、それでもあきらめなかった。学術論文を読みあさり、まさに命がけで研究を続ける。そしてついに、プラント教授は乳がんの真犯人を探り当てた。それから15年。プラント教授の乳がんは一度も再発していない。
●プラント教授が本書でその研究を発表したとき、多くの科学者がこれを批判した。だが、一人としてプラント教授の説をくつがえすことはできなかった。やがてプラント教授は、医学の発展に貢献したとして英国王立医学協会の終身会員となる。そしてもちろん、いまも元気で活躍を続けている。
──私が乳がんになる2年前に、このような本が出ていたら、私が乳がんになることはなかったであろう。──ジェイン・プラント。
乳がん、前立腺がんの原因は牛乳だった! 転移4回の進行性乳がんに侵されながら、乳がんの原因を探り続けた女性科学者が、その結論を紹介。乳がんになったときの医療との向き合い方、再発を防ぐための食事療法なども述べる。
これに限らず「牛乳=悪」説は根強いみたいだが。
酔っぱらいおっさん増田だけど。
これなんだよね。
この手の犯罪って被害者意識と復習意識が相当強くないと被害届けは出せない。
そう言う人が正確に犯人を捕まえられるかというとそんなことはなくて、
もうこいつに違いないと思い込みに凝り固まって行動するんだよ。
痴漢被害者の痴漢捕まえた武勇伝blogとかみても頭に血が上っちゃって全然冷静じゃない。
だから、当事者の証言だけで捕まるって凄く恐ろしいことなんだよ。
同級生も一様に先生を恨んでいたよ
実際に検証もしないで自分を殴ったのは先生なんだからさ
力のある立場のものは軽々しく憶測で行動してはいけないんだよ
うーん、真犯人はただの悪意から出た被害だけどさ
善意から出る被害だからね
孤立無援になるし
自分が正義だと思う奴はやることにブレーキがかからないから、どこまでも攻撃ができる
まぁ、だから痴漢冤罪の場合は痴漢被害者よりも警察の対応におかしさを感じる
物証がないのに逮捕とかね
受験競争により選抜された人々(知識複合体)が知恵を使って国民を巧妙に支配しているという現実を認めると屈辱感を感じるので、それから目をそらそうとする。妄想、陰謀論というもっともらしいレッテルがぽんぽん飛び出すが、要するに支配の事実を頭から消したいのだ。そして、知識複合体側も、あらゆる情報装置を使ってそれから目をそらすことを奨励するので、人々もその段取りに流されてしまう。いかに賢いと自称する国民でさえ、複合体側の巧妙な心理戦術に太刀打ちできないのだ。その結果、国民がみている世界は、複合体側に作られた夢の世界であり、そこではみな平等であり、存在するはずの支配者はただの「会社員」となり、支配などはない。覚者からみれば荒唐無稽な夢の世界が精神的に窮地に追い詰められている国民にとっては切実な「リアル」なのだ。そして、彼らの世界では、ただ働き、他人と競争して金を使うことのみ奨励されている。長いこと経験をつんだいっぱしの大人さえ、この幻想に捕らえられているので、複合体側の観念支配がいかに強力かがわかる。要するに、支配されているという事実に屈辱感を感じるので夢の世界に逃げる、という心理構造まで複合体側に利用されているのだ。ほとんどの国民はそのようなまやかしの中にいるので、まともな人間が見ると不思議な事件が多発する。最近の例でいうと、秋葉原事件などその典型だろう。一人の青年をして、真犯人の代わりにまったく無辜な一般市民を殺させるほど、夢の世界をみせる知恵の力は恐ろしいのだ。この知恵と情報の力こそ現代日本の支配力の源泉であり、その端緒がどこにあるかというと膨大な知識暗記を強いる受験競争に決まっており、支配力のシンクタンクが東大・官僚・マスコミであることも明らかである。
毒入りギョーザやら何やらでただでさえ食に対する不信感が強まってるのに、
あっちこっちで「使いまわし」が発覚していて、「外食もダメじゃん!」みたいな雰囲気になってる。
まあ被害者は俺らメシ食う側なんだけど、なんか違和感があるんだよな。
そもそもそのメシ残してるの、俺らじゃね?
っていう。
殺人事件やクソガキのアホ事件、DQN親を見るときの非難の声って、
裏に「俺は絶対こんなことしない!」っていう自信があるから声高に非難するんだろうけど、
使いまわしの原因作ってるのって、メシ残してる俺らなんだよね。
被害者が実は加害者で、加害者が実は被害者であるっていう構図。
たしかに使いまわしのもん食わされるのは気分悪いが、
じゃあまず、出されたもん全部食おうよ。
俺らが「もったいない」って思わないから、店側が「もったいない」って思うんだろ?
残さなきゃ、使いまわしのしようがないwww
(パセリとかぁ別だがw)
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」とは言わない。
自分が犯している(かもしれない)罪をいったん棚にあげて、論議するのは重要だと思う。
まずすべきことがあるだろうと思ってしまう。