はてなキーワード: 知事とは
http://yukiguni-club.rash.jp/?p=298
はてぶ含めて、なんか「ひどい対応」「犬飼は人でなし」みたいな反応がおおいが…
アポとろうとしたとはいえ、普通、そんな飛び込み営業みたいなマネして社長がホイホイ会ってくれる会社ってそうそうないよ?
それこそ、犬飼が会わざるを得ない人間を引っ張り出して渡してくればいいだけの話じゃん。
アルビやモンテディオの社長(理事長)とか、新潟や山形のサッカー協会会長とか、それこそ変わったばっかの新山形県知事とか…
まさかとは思うが、そういう利害関係者を巻き込まずにただ署名集めただけです、署名集めればきっと誠意が伝わるはずです、とか言わないよな??
知事時代の住基ネットでの騒動みても現実離れした危機をあおってプロパガンダする狼中年ってのはわかりきってたことじゃなかろうか。こいつに限らずたいていの草の根市民運動ってそういうもんだと思うが。彼らはニーメラーとかよく待ちだすんだよね。俺達と一緒に反対しないとお前もひどい目に遭うぞと。でも彼らが危惧してたほどの戦前軍国日本とか1984監視社会とか北朝鮮化には全然なる兆しがない。むしろそういうのすら反対するから納税者番号すらなくて年金消えたり所得再配分もろくにできずに余計に苦しんでるような気もする。何回こういう馬鹿騒ぎやれば気が済むんだと思うけど、終末論のカルト宗教に人が集まったり、財政破綻本が売れたりするように愚民は万年危機を欲してるのかも。
なんて言ってるアホは、そんなに多いのか?
ディベートで言葉遊びしてるような奴以外、ほとんど見ないんだが。
そういえば。
「朝の3時ごろまで盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思うが、
って述べた、広島県知事はフルボッコだったな。危険なことで結構有名な盛り場だったんだが。
記事にあった女性団体のほうも「発言を問題にはしてない」って言ってるのに、話題だけが勝手に一人歩きしてサヨクとフェミが大騒ぎ。
実際、マスコミの報道姿勢に対する批判もちらほらと散見された。
ところで。
沖縄女子中学生の件だって、中学生を責めるのは大間違いだと断言した上で。
それでも私は、自分の娘にはこう言うだろう。
「絶対に知らない男には近寄るな」と。
おそらく「中学生に落ち度はない」とか言ってる人達だって、自分の娘にはそう言うはずだ。
でも、それを公言する人は全力で叩くのだが、彼らは実際どうあってほしいのだろうな。
高校生らが「公立は定員があって落ちる子もいる。見捨てるんですか」と詰め寄ると、知事は「義務教育までは平等に扱う。その先は定員があってずっと競争。それが世の中の仕組みだと自覚しないと」と答えた。 asahi.com:橋下知事、高校生と熱く議論 財政難訴え「皆で我慢を」 - 政治
橋下知事は、このやり取りの前に「大阪府の借金を減らすためには、私学助成削減は仕方ないことだ」ともいってはいるが、私学助成金を削除する理由として、自己責任の原則を挙げている。なるほど、「義務教育以上の教育は自己責任でどうぞ」というニュアンスだ。
また、橋下知事はこうも言っている。
文部科学省や府など主催の「全国産業教育フェア大阪大会」で、開会式は約500人の高校生が出席。橋下知事は「僕は39歳だが、受けてきた教育は何でもかんでも生徒の自由。日の丸・君が代もまったく教えられなかった。結果を出しても評価されず、差がつくこともだめ。そういう教育はおかしい」などと不満をあらわにした。 橋下知事:「国旗・国歌を意識すべきだ」 高校生の大会で - 毎日jp(毎日新聞)
橋下知事によれば、日の丸・君が代の意義や歴史は公教育で教えるべきで、そのような教育を享受できなかったことが不満らしい。しかし、高等教育において自己責任の原則を挙げた橋下知事は「日の丸・君が代」の教育においてどのような自己責任を果たしたのだろうか?図書館にいけば、それこそ日の丸・君が代に関する書物には自由にアクセスできる。自衛隊の式典や一般参観に参加すれば、国旗・国歌が厳かに扱われている儀式の雰囲気をリアルに感じ取ることができるだろう。
橋下知事は、「日の丸・君が代」を重要さを学ぶためにどれだけ努力したのだろう。それこそ大学受験や司法試験なみに努力したんだろう。そうですよね。そうだと言ってください。
邪推しよう。橋下知事はこう考えているのではないか?「安定・安心して生きるために必要な高卒の資格は自己責任でどうぞ。でも無かったとしても大して不利益にならない(註1)『日の丸・君が代』教育に関しては充実させるべきだ」と。
デジャブを感じませんか?
「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば不幸になる」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%9C%B1%E9%96%80
http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200810220019a.nwc
ポール・クルーグマン氏(55)と初めて出会ったときのことは忘れられない。男子トイレでの出来事だった。
1998年8月、シンガポールのトイレで手を洗っていると、隣に(著名な)エコノミストがいることに気づいた。クルーグマン氏が今しがた講演した「流動性の罠(わな)」による日本経済の弱体化について、ちょっとした雑談をしながら、私たちはトイレの流し台が壊れているのをみた。
「これこそまさに、流動性の問題だ。世界中どこに行ってもつきまとってくる。」クルーグマン氏は顔色一つ変えずにそう言った。
そのときのクルーグマン氏のジョークを思いだしたのは、彼がノーベル経済学賞を受賞したからというわけではなく、国際金融システムが陥っている状況と関係があるからだ。問題は各国中央銀行が信用、ひいては経済をコントロールする能力を失ってしまうのかどうかにある。
「経済活動における貿易の傾向と拠点の分析」によってノーベル賞を受賞したクルーグマン氏は、日本のバブル崩壊後のいわゆる「失われた10年」に関する研究でも知られる。
アジアでクルーグマン氏に対する評価が高まったのは1990年代半ばのことで、当時、同氏は1997年のアジア危機を首尾一貫して予言した人物の一人だった。その数年後には、クルーグマン氏はアジアが目覚ましい回復を遂げると予測し、的中させた。
日本の金融政策の停滞に関する調査研究が、アジアやその他の地域にも通じることを証明した。日本の「失われた10年」が、例外ではなく世界中に蔓延(まんえん)するリスクだ。
米国も例外ではなかった。1月以降、米連邦準備制度理事会は主要政策金利を4.25%から1.5%まで引き下げてきた。そうした政策が米国の経済の支援となっただろうか。
中央銀行が金融政策を施してからその効果が経済に表れるまでに相当な時間差はあるものの、米国の消費者は信用危機の予期せぬ影響を完全には体感し始めてはいない。バーナンキFRB議長は一段の利下げ圧力にさらされるであろう。
クルーグマン氏は、ブルームバーグのインタビューに対し「あらゆる点から考えて、われわれは“流動性の罠”の領域にいる。バーナンキ議長はあと何回か利下げを実施できるが、実体経済に影響を及ぼさないだろう。ええ、そう。伝統的で従来型の金融政策が奏功する余地はない。弾切れだ」と述べ、さらに「米国は日本になってしまった」と語っている。
≪ケインズ主義浮上≫
クルーグマン氏はまた、経済において政府が果たす役割を重視するケインズ経済学(ケインズ主義)の提唱者でもある。12日に米NBC放送のインタビューに対して、ニュージャージー州知事でゴールドマン・サックス前会長のジョン・コーザイン氏の発言を補足して、「恐らく肝心なのは、われわれが実体経済に対する刺激を必要としているということだ」と語っている。
王立科学アカデミーが期を逃さず現時点でクルーグマン氏への授賞を決定したのは、ケインズ主義が過去の遺物ではないとの認識が高まっていることと関係があるように思われる。
現状はケインズ主義が葬られたとする向きにはほど遠い。米国が金融システムを国有化しているのと同様に、航空会社や自動車メーカー、大手小売業者が政府の資産としてバランスシートに計上されるのも時間の問題のように思える。
グローバリゼーションは世界に、国有企業が民営化され、そして再び国有化されるといった循環をもたらしている。レッセフェール(自由放任)型資本主義の信奉者である経済学者フリードマン氏の政策よりも、長きにわたってケインズが提唱し、最近ではクルーグマン氏が主張する経済政策に軍配があがるように思われる。
しかし、やはり最大のリスクの一つは、中央銀行の(存在)意義が危機にひんしていることだ。日本の信用システムはいまなお罠にかかったままだ。他の国が日本と同じ羽目に陥れば、事態はさらに悪化しかねない。(William Pesek)
◇
ご指摘ありがとうー。行政分野に強いわけではないから、こういう指摘をもらえると助かるよー。
第二京阪道路は法定受託事務で、削りたくても削りようがないものなんだ、という話なんだね?そういう事実があるのならば、そのことを根拠に「だから私学助成を削らざるを得ない」という主張はもっと説得的になると思う。(※1)
ただ、それを根拠とする場合、
「橋下知事、負担金を「まけてとはいえない」 第2京阪道の整備促進」政治も‐地方自治ニュース:イザ!
「関西の都市基盤にとって必要なものは必要と声を上げていかなければ」と述べた。府が今年度支払う、約210億円の国直轄事業負担金については「こちらが要望してつくってもらおうとしている道路で、まけてほしいとはいえない。払ってでもつくってほしい」と述べた。
こうした報道をどのように解釈すれば良いのかのかわからなくなるなあ。この報道では、道路の必要性を私学助成の必要性よりも高く評価しているように見えて、ちょっと首を捻ってしまう。(※2)
いやまあ、そういう産業・都市基盤を重視し、道路の整備を重視したスタンスの政治というのは当然ありうる(左派に多く見られがちな「道路はさして重要ではない」という主張は必ずしも適当とは言い切れないと思う)けど、橋下氏はそういう公約を掲げて当選したわけではないのだから(※3)、優先順位として産業・都市基盤の整備>財政再建>私学助成・文教予算となっているのは奇妙に思うのだよね。この辺りが(橋下氏が悪意でやっているのでなければ)具体的なイメージを欠いている・科学的根拠に欠ける印象をより強めてる。
上記のようなバックグラウンドを踏まえるならば、
ことを私学助成削減の根拠とするのは、自分にとってはかなり混乱した主張に思える。悪意に取るならば、二枚舌。まあ、そもそも現状では知事はこうした判断の理由について言及していないように見えるから、「二枚舌」なんていうのは仮定の上に仮定を重ねた話に過ぎないんだけどさ。しかし、二枚舌以前のところで話が止まったまま、私学助成の削減の話ばかりが進んでいる状況に「諸手を挙げて賛同」している人が数多く見受けられる現状はちょっとよろしくないんじゃない?そういうのって、小泉改革のときに懲りたんじゃないのかなー。
道路の方が教育より重要というのなら、それを正直に説明すればいいと思うし、少なくとも、その部分についての議論を避けるべきではないよね。そうやって具体的な判断の根拠を突き詰めていって、議論を深めることは、橋下派・反橋下派を問わず、歓迎されるべきことと考えるんだけど、どうもセンチメンタリズム・反センチメンタリズムの軸でしか話が進まないのはなんでなんだろうか。
(※1)詳しく調べればその辺りの背景がもう少し分かるかなと思って
に目を通してみたのだけど、正直さっぱり分からなかった罠。あたまがわるいと人生に苦労するね…。しかし、「国からの受託事務だったら、削りたくても削りようがない」なんていうけど、これって財政健全化を実行する上での目の上のタンコブなわけだよね?そうした状況を抜本的に変えるために、国へ現状の改善を訴えるパフォーマンスがあっても不思議ではないと思うのだけど、橋下氏がそうした行動にさほど積極的と思えないのは少々不可解ではある。彼は府民の利益を代弁する弁護士のはずなんだけどな。
まあ、その一方で、「橋下知事「国の仕事は国で何とかならないか」」政治も‐地方自治ニュース:イザ!←こういう要求もしているようだから、交渉を行っていないわけでもないんだろうけどさ。反橋下派が知事の酷さを誇大に認識している、という可能性も十分ありうると思う。
(※2)報道の方の勇み足・ミスリーディングという可能性も当然考えられるけど、それを否定する明確な根拠が確認できないのなら、知事の行動を好意的に見積もる態度もまた、権力者が被統治者に対して常に善意で、かつ賢明な政治的判断を行うという「甘ったれた」前提に立っているんじゃないだろうか。
(※3)橋下氏の公約は(抜粋だけど)ここで今も確認が出来る
http://www.asahi.com/politics/update/1026/OSK200810260045.html
当然暴力は無いほうが良いに決まってるんだからやらないほうが良いのは正論だけど、学校の現場でそういう状況があって教師がそうしないといけない状況があるなら体罰はすることもあるだろう。
しかし最悪なのは子どもを殴った当の教師が「知事の橋下さんが体罰を容認したので殴った」などと社会に言い訳をするようになることだ。
殴られた子どもにとっちゃそんなことどーだっていいのである。殴ったのはテメーなのだ。殴った罪を背負って生きろ。その覚悟で殴れ。
もうひとつ最悪なのは、マスコミや識者連中が体罰容認を政治的意思と摩り替えてバッシングすることだ。
殴った教師と殴られた生徒にとっちゃ誰が知事になろうと知ったこっちゃない。俺たちの関係を政治に利用するな。
第三者が口を挟むな。
横だけど、だったら知事はそう言えば良いのでは? 「政府との契約なのでそこは削れない」って。
大体、批判のポイントは「政策に対して政策で説明してないこと」なんだから、「教育で削らないとたとえば○○を削ることになるが、それはこういう点で目に見えるデメリットが大きい」と言うべきだよね、という話。
一応自分の仕事のフィールドの話なのに、高校生に対してさえまともに説明・説得できないでムキになって「だったらお前がやればいい」メソッド使う30代って、それこそ「民間で」いたら、恥ずかしいレベルじゃね?
タレントでよかったね、とーるくん。
てか既にこの人が恣意的なんだよな…
とかね。アホかと。まるっきり賛同側の穿った見方やん。
「いや違います。というかそういう見方をするのがまさしく私怨で」とかいいそうだが、それならソースひっぱってこいっつー話で。それもせずに、また「対談以前のレベル」とか抽象的な言葉で誤魔化し、公平な立場にいる振りしながらちゃっかり自分の意見からくる偏見で反対意見をこういう風にとらえて紹介する辺り、全く公平でない。「例えば」の話すら公平に持ってこれない人間にディベートを語られてもな(笑)。
http://anond.hatelabo.jp/20081026025416
ただ、橋下知事の言動を今のところざっと見た限りだと、その政策を実行に移した際の具体的なイメージや、その判断を行うに至る科学的根拠を示しているように見えないんだよね(※2)。知事がどう判断したか、という結果しか伝わってこなくて、なぜその判断なのか、ということがいまいちはっきり感じられない(世の中がどうの、というような話は説教ではあっても自らの判断の根拠とは言えないんじゃないか)。どうしてその政策を知事は妥当だと思ったの?道路建設に掛かる費用と比べて遥かに低い費用でしかない私学助成から積極的に削減を行う判断の根拠はどこにあるの?ということはもっと問われて然るべきだと思うのだけどなあ。
ディベートってあるテーマに対し、肯定派と否定派に分かれて相手側を説得させるゲームなんだけども。
まあゲームかどうかは置いておいて、ここで面白いのは「自分が直感的に抱いているのとは別の立場が与えられる」ことがあるんだよ。
一方でディベートじゃないけど、はてブとか増田の日記見て思うんだけど、私念のこもった奴が感情に任せて発言してるのが多いと思う。ソースはないけど、例えば橋本知事が高校生と対談した内容に対して、対談以前のレベルで橋本知事を批判してる奴がいたり。あとは、ネットでは普段与えられてる印象と逆の事を指摘された時に鵜呑みにしてしまうとか。
こういう時、一方的に賛成/反対表明するのもいいけど、一度自分の意見とは逆側に立って理由を考えて行くといいのではないかと思った。もちろん一方的に悪い出来事もあるだろうけど。
例えば同和問題を学習させるべきかどうかって議論があった時、賛成派と反対派が居ると思う。賛成派は理由として歴史を繰り返さないようにするとかあって、反対派は同和問題の学習自体が同和意識を高めさせるとかあると思う。
この議論の結論は私には何とも言えないけど、少なくとも私が言いたい事としては、
ある出来事があった時、肯定/否定の片方だけでなく両方の側面で物を見るべきだ
ってこと。
公立高校にすら通えない、そんな状況を国や自治体が作り出しているとしたら問題だと思うし、それを自己責任だと言い切るなら、死ねばいいと思う。
けれど、私学へ通う(それも記事にあるような消極的で後ろ向きな理由)のを国が補償しなきゃならん理由ってなんだろ?
確かに、知事としてはセンスのない受け答えだったかもしれないが、でも「なんとなく高校へ通う(しかも底辺の公立へは行きたくないから私学)」ってのを救済するの?
単に学歴が欲しいだけの理由で高校へ行くなら、行ける所はあるのに。
ここで、底辺高校の実態も知らずに云々と言いたい方も居るかもしれないが、それはそれで別個に解決すべき問題で、「他人事だからどうでも良い」と放置してきた結果として突きつけられているのだから、それは仕方がないだろう。
本当は、そっちこそ解決すべきだよね。
どんな学力のものでも公立の機関で問題ない教育を受けられるべきで、でもそんなの建前でしかないのは何年も前から判っていて、自分たちはちょっと上の私学へ通えるのだから関係なかったのでしょう?
底辺高校の彼らを「そんな場所」へ閉じ込めていても、どうせそれらのことは「自己責任」とか言うのだろう?
それなのに、自分たちが「私学へ行く選択」は自己責任じゃないと来た。
どうにもよく分からないのだが・・・・
うん?なんか誤解されてるなー。自分は「橋下は愚か」なんて言ってないよ。
増田に倣って当該スレの議論を整理するとこういうことだと思ってたんだけど…
(1)橋下氏の経歴と、その政策の妥当性は無関係だろ、橋下氏の経歴を持ち出して高校生を馬鹿にする奴らって何なの。知事の人生経験を盾に、お前らと大差ない意識の高校生を甘ったれ扱いして苛めてどうすんの。というか世の中超人だけで構成されてるわけじゃないんだから、知事が出来たことを前提に政治やるのってまずくね?
(2)でもさー、日本今ピンチって言われてるじゃん。余裕ないですよ?そういう状況下で、弱者をどこまで救うかという事をケースバイケースで考えると、それでも「駄目な人間は駄目なままでいい、政府が救うから駄目でいいよ!」ってのはおかしくない?
(3)えー、でも救わないでほっといても最終的にはケツ拭くのは大阪府じゃないの?そうやって財政削減をすることがトータルで見てトク、というのは自明じゃないと思うなー。発想としては有りだけど、その判断に至る根拠もはっきり出てないのはどうなのさ?今の段階で諸手を挙げて橋下氏を支持するのは早いんじゃないの。
…勝手に自分が読み取っただけなので、誤読・誤解があれば各自訂正よろしこ。
こうして論点を整理すれば、必ずしも議論になってないというわけではないと思うけどな。
橋下にコンプレックスあるのか何なのか判らないけど、論議になってない。
ばかやろー、自慢じゃないが自分は世の中でうまくいっているひとにはみんなコンプレックスがあるぜ!
もちろんガチで頭も悪いぜ!でもそのことと議論が成立するか否かはまた別の問題だと思うよー。
あとはまあ蛇足というか繰り返しになるんだけど、
に対して、教育予算を縮減しても、別に駄目な人間が駄目じゃなくなるわけじゃないし、メリットばかりではない、ということを指摘したつもりだったけど、そう読めなかったかな。悪文で申し訳ない。「弱者をどこまで救うかという事をケースバイケースで考えると、そこは救わない方がむしろいいケースなのでは?」と言うのならば、「救わない方が良い」という判断を下した根拠の説明も必要になってくるんじゃないかな、と思うんだね。少なくとも、メリットだけが考えられるような都合の良い政策ではないと思うから。
そういう妥当性の検証をおざなりにして、「正論だ!」で片付けてしまうのは、別の意味でセンチメンタリズムに囚われていないかい、と言っているのです。
で、その上で自分は
諸々のデメリットを勘案した上で、私学助成の予算を削減することによって得られるメリットの方が大きい、とみなす政治的スタンスは有り得る…というのは確か。
ということも認めている。橋下氏の政治的スタンスは(今のところ)賛同しないけどね。政治的スタンスに賛同できない、ということと、愚かである、ということは別の次元の話だと思う。出来れは同一視はしてほしくないなあ。右派にも左派にもこの辺を区別しない人って多いような気がするから、誤読されるのもしょうがないんだろうけどさー。
人生には、選べるものと選べないものがある。選べないものの代表としては、まずは親だ。それと、不慮の事故で親が亡くなるとか病気になるとか勤めていた会社が倒産するといったような、運命のような何か。それ以外にも出会う人とか、自分が選ばなくてもやってくるものは沢山ある。
困ったことに、この選べないものに平等さなんてものはかけらもない。極端なことを言えば、いつもの通り生活をしていても事故にあって突然死んでしまうこともある。他のいつもの通りに生活をしていた人たちは死ななかったのに。本当に不平等なものだ。
その不平等な、選べないものの隙間に、自分が選べる選択肢がある。選べないものが不平等なんだから選択肢も当然不平等なものになってしまう。けれども、その中から選ばなくてはいけない。更に言うなら、選択肢を見つけなければいけない。自分が選べる選択肢が全部が全部綺麗な形になって見えるわけではないからだ。自分の目の前の条件を検討して、その中から何が選べるのかまで自分で考えなければならない。これはとても難しいことだ。けれども老若男女関係なしに、この難しさに直面してしまう人は確実にいる。
そして更に厄介なのは、この難しい選択の結果は、ギャンブルのようなものだということだ。運が悪ければ、選んだ先にまた選べないものがやってきてその選択肢を選んだときの計画が全ておじゃんになってしまうことがある。
本当に心の折れる話だ。
それでも立ち上がれる人、それは本当に強い人だ。簡単に橋本知事の経歴を見てみたが、橋本知事は強い人だった。けれども誰しもがそんなに強いわけではない。正確に言うと、強くなれるわけではない。
けれども、選ばなくてはならない。自分が弱かろうとなんだろうと、選ばないで立ち止まったままでいるという選択も含めて自分の道を選ばなくてはならない。選べる選択肢が不平等であっても、その中から選ばなくてはならない。そして一番大事なのは、自分が選んだと自覚することだ。
もしかしたら、自分がその選択肢を選んだことを自覚することが一番難しいのかもしれない。他の人と比べて明らかに不平等な選択肢を見せつけられて、その中から自分が選ぶということを自覚することは本当に難しいかもしれない。こうせざるを得なかったといって、自分に選べるものがあったということすら気付かないのかもしれない。
けれども、その選択肢を自分が選んだという自覚が一番大事だと思う。そしてそれこそが希望だと思う。どんなに辛い状況でも、どんなに過酷な選択肢しか残っていなかったとしても、それを選ぶことだけは自分でできる。自分にしかできない。そしてどんなに辛い道であっても、自分が選んだという矜持があれば、それがきっとその先の道を照らしてくれる。
選べないことが起こってしまったら、それをなかったことにすることは出来ない。だから、せめてその中で自分が選ぶ自由がどれだけあるか考えなくてはならない。そしてそれを自分で選ぶ。それを自覚する。それが自分の人生を運命から取り返す唯一の手段だと思う。
生徒「公立に行ける人数は限られている」
生徒「そこで倒れた子はどうなる」
最後の砦である生活保護は機能していない。餓死一歩手前の男性が申請しに言ったら、申請の段階で断られたという話をよく耳にする。この知事の発言は間違っているとしか思えない。
「いいものを選べば、いい値段がかかる。条件を比較して、あなたが選んだのでは」
でも、すべての人間が余裕のある状態で選んだわけではない。
選ばざる終えない状況だってある(強盗にあったときとか)。
何でもかんでも自己責任といってほしくない。
横増田だが、
ものすごい疑問なんだけど、日本、今すんごいピンチって煽られまくり、実際ピンチだと思うんだけど。
この例でそういう意見が出てくるのがよくわからないなー。
どっちかというと私学助成の削減の方が「駄目な人間は駄目なままでいい」的発想だと思うんだけど。というか、教育の予算を削減したら、もっと駄目になりそうな気がするよ…。「予算が削られた方が、創意工夫をする生徒が増える」と言いたいのかもしれないけど、ちょっと楽観的すぎるんじゃないの(何か裏づけとなる統計や資料があるのなら話はまた別だけれども)。もちろん中には貧しい中から成功してのける人間も居るのだろうけれども、それを一般論として扱うことは出来ないんじゃない?それとも、もしかして公立高校に入学できないような馬鹿はそのまま沈んでいっても仕方がない、って考えているのかな?(※1)
だとすれば、ちょっとどうかなと思うよ。どんなにアホな人間だろうと、それが社会を構成する一員であることに変わりはないのだからさ。もし私学助成の削減によって、高校を出られない人間が増えるとすれば、そうした不安定な人間が増加したことによるトラブルとコストは、最終的に社会が引き受けることになる。このことは橋下知事も「最後は生活保護がある」と主張しているから、当然の前提(のはず)だよ。仮に生活保護を付けないにしても、自殺者・無宿者・犯罪者の増加は社会全体に大きな影響を与えるよね。ここからは個人的な意見だけど、どんな駄目な奴でも、生活保護をただあてがったり、そのまま放置するよりかは、適当に働いてもらって、その給与を経済の循環に役立ててもらう方がお得だと思うな。その基礎となるのが教育じゃないかしら。
とはいえ、
みたいな言論への反感というか、「お前ら無責任なこと言うなよ…」という増田の気持ちは分からなくもないんだけどさ。諸々のデメリットを勘案した上で、私学助成の予算を削減することによって得られるメリットの方が大きい、とみなす政治的スタンスは有り得る…というのは確か。
ただ、橋下知事の言動を今のところざっと見た限りだと、その政策を実行に移した際の具体的なイメージや、その判断を行うに至る科学的根拠を示しているように見えないんだよね(※2)。知事がどう判断したか、という結果しか伝わってこなくて、なぜその判断なのか、ということがいまいちはっきり感じられない(世の中がどうの、というような話は説教ではあっても自らの判断の根拠とは言えないんじゃないか)。どうしてその政策を知事は妥当だと思ったの?道路建設に掛かる費用と比べて遥かに低い費用でしかない私学助成から積極的に削減を行う判断の根拠はどこにあるの?ということはもっと問われて然るべきだと思うのだけどなあ。
だから、この件で諸手を挙げて橋下氏支持を訴える人は、(橋下氏支持の主張を変える必要はないから)その判断に至る過程と、その根拠にもう少し目を向けるべきではないかね。高校生が泣いたとか泣かないとか甘いとか甘くないとかで政策を判断するのは、旧来の価値観とは逆の意味でセンチメンタリズムに囚われているように見える。芋畑の件もそうだったのだけれども、反センチメンタリズムに囚われるのは、結局センチメンタリズムに基づく判断と何ら変わりないんじゃないだろうか。
(※1)「努力」を判断基準にしても、どんなに頑張ったって全員が全員公立高校に入学できるわけじゃないし、相対的な学力の差によって振り落とされる人間は必ず出て来る。頭の出来にはそれぞれ違いがあり、教育に対する意欲も家庭環境による影響は大きいわけだから(所謂インセンティブディバイドの問題)。努力を定量化して評価するのは凄く難しいよね。
(※2)まあ、府民ではないので突っ込んだところまでは調べ切れていないから、もしかしたらどこかで主張はしているのかもしれないけど。もしそういう根拠となる点を知っている増田・ブックマーカがいらっしゃったらご教示頂ければ幸い。一応、府政だより・大阪府財政再建プログラム案はざっと斜め読みしてきました。
地域の住民性が府の財政にどこまで影響を与えるか?ということだけど、
他力本願で他人の足を引っ張る人が多いってのは別に大阪に限った話ではないと思うのだけどね
やっぱり府民の気質が問題じゃなくて、
府政運用の失敗への対処が後手後手に回った結果だと思うのだけど
「うちの財政大変だよーカンカンカーン」と半鐘を鳴らさない限り、
誰も気にもしないのはおそらく他の地域でも変わらないとは思うよ。
259 名前: 社会保険庁職員(東日本) :2008/10/24(金) 20:28:41.18 ID:sFNyaW70
父が他界母子家庭に
これじゃいかんと番長を味方につけるために一緒のラグビー部へ。
→日本代表に選ばれラグビーへ明け暮れるも、大阪1、2を争う進学校の為ついていけずに落ちこぼれる
→弁護士めざす、二期で受かる
仕事がなかなかなく、家族の為に危ない橋を渡り独自のセンスで仕事をこなす。
仕事は増え、子供も増え、再婚した両親、嫁の両親、妹夫婦に同じ場所にマンションを買ってあげる。
後はご存知の通り。
こういうのを見て、「橋下って凄い経歴なんだ。こんな中でよくがんばってきたなあ。すごいなあ。こんな人が言うのだから納得だあ!」とか無邪気にはしゃいでる奴が俺は一番嫌い。
嫌いというか、その頭の悪さに軽くめまいがする。
俺からすれば、こんなんで喜んでる奴らって、恋空見て泣いちゃう層と同じレベル。
安っぽい物語に感動して、そこまではまあ個人の趣味だからいいとしても(それでも俺が嫌いな事に変わりはないが)、「こんな人が言うのだからすごい」「こんな人が言ってるのだから説得力ある」とか言っちゃってるところ。
何?お前ら、バカなの?
橋下がいくら苦労しようがそんなことは主張と関係ないから。甘ったれんな。苦労して育ってきたからそれが何だ?それでも論理的に間違っているなら間違いなんだ。橋下がいくら俺は底辺からでも頑張ってきたとかいったところで所詮それはお前の人生であって、その基準で他者の事を語るなど無礼千万に尽きる。人一倍苦労したからって他者に説教できるわけじゃない。勘違いするな。苦労したから、人生論ぶてるわけじゃない。甘えるな。
いくら橋下が苦労していようがあるいはもともと金持ちだろうがなんだろうが、今こいつが主張していることとそれは全く関係がない。議論というのはそういうことだ。バックグラウンドなど、猫の抜け毛ほども関係が無い。それを、あんな安っぽいストーリーに感動した挙句、それを安易に橋下の主張と結びつける、この愚鈍さ。その頭の悪さに俺は絶望する。日本人ってこんなものなのか?
それと、どうせ「うんうん橋下はすごい、偉い」とか言ってるお前ら自身はといえば、どうせこの高校生と大差ない、ほどほどに恵まれてて大学もそれなりに行った奴らが大半のくせに、「橋下はこんなに辛くても頑張ってたのに、このゆとり高校生どもは…」とか、勝手に橋下の苦労を虎の衣のように着込み、高校生を見下してるのがまたクズ。
バカじゃないのか。そんなの橋下にとっても失礼だろうが。勝手に人の苦労を借りてそれで他人を見下そうとするな。人がした苦労を他人を見下す道具にするな。他人の苦労でオナニーすんな猿どもが。
百歩譲って、橋下が、はいはい、逆境の中物凄く努力しました、凄い人です、としても、だから何なのか。
だったら逆にそんな人が知事なんてやるのは迷惑だ。
「凄い人」ってのは、扱いに気をつけなきゃならない。「凄い人」は、そのとおり、「凄い」のだから、「だからこそそんなものを基準に府民に求めるべきじゃない」のだ。「貧乏?橋下はそんななかからはいあがったぞ?」なんていうのは逆に橋本を「普通の凡人」扱いしているともいえる。
極端な話、ほぼ全ての不幸を背負った事がありそれを全て克服した、なんて人がトップにたってみろ。
「実はこんな不幸が」「俺は乗り越えた」
「実はあんな不幸が」「俺は乗り越えた」
「こんな不幸であんな不幸が」「俺は乗り越えた」
話にならない。それじゃ政治なんていらないだろうが。あくまで橋下ってのは、「不幸な境遇からなりあがった」というイレギュラー的存在である。「不幸を克服したえらいひと」、OKそうだとしよう。しかしならば尚更そんなものは基準におくべきじゃない。お前達は、天才を基準に教育を考えるのか?数学が神レベルにできる奴が数人いたからといって、そいつらのレベルに合わせてたらほかのやつはどうしようもなくなる。
不幸な境遇からなりあがった、そうだねそれはすごいね。で、どうしてそこから「だからその他の不幸なお前らもがんばれよ、橋下がやったんだからやれよ」になるのか。すべきことはそうじゃなく、橋下のような「不幸な境遇」をまず政治的に是正することだろうが。不幸な境遇からなりあがりましたすごいすごい、それはいいとして、そもそもはその不幸な境遇自体が、よくないものだったんだ。なくすべきものだったんだ。その不幸を「あってもいい」などと肯定しては、いけない。乗り越えたからといって。そもそもの悪はその不幸であった。そしてそういったものをなるべく軽減するのがある意味政治の役割なのだ。(当人が自身の胸の内で一人だけひっそりと肯定するのは構わないが)
不幸な境遇からなりあがった人間というのはこの辺りが面倒くさい。なまじ不幸を経験しそれを克服したからと、他者にもそれを要求する。「不幸な境遇があったこと自体がもともと正すべきことだった」などと言われると自分を否定された気になるのか知らんが、妙に「不幸な境遇はあって当たり前」としようとする。不幸を乗り越えた者が言ったことだからと、皆が妙に否定できなくなる。この悪循環。不幸を乗り越えたものは、その自身の不幸を正当化しようとするのだ。なぜならば自身の成功はその不幸と地続きであるから。なればこそそういったものはやけに「不幸はあって当たり前、そんなものに文句を言うな」となりがち。不幸を乗り越えたものの乗り越え方には、一見の価値があるかもしれない。しかし彼らの根性論は決して聞いてはいけない。語弊を招くのを覚悟で言えば、彼らはやや歪んでいるのだ。幼き頃の不幸ゆえに。まるで幼き頃性的虐待にあった子供が、かえって大人になり風俗につとめてしまうように。不幸を彼らは認めざるをえない。そういう人物なのだから、一概に「えらいひとだ、えらいひとだ」などと持ち上げてその全てを肯定などするな。甘やかしてはいけない。いくら不幸で成功した人だからといって全てが正しいわけではない(当たり前すぎるのだが)。
「不幸からなりあがった人」の話は話半分に聞くべき。
彼らは自身の不幸を正当化している。
個人レベルの話なら一向に構わないが、それを他者への基準にするな。
お前が不幸を乗り越えた凄い人なのはわかった、しかしだからといってその不幸をこれから「乗り越えられるはずだ」といって無視するのなら、もう、不幸を乗り越えた人なんて不幸な人にとって邪魔なだけだ。(なまじ悪意がないから余計にどうしようもない)
痛いニュースなんかでは、やれ女子高生が泣いた、男子高生が「いじめられたから私立しかいけなかった」とかよくわからないことを言ってる高校生とバッサリ切り捨てる橋下しか書かれていないが、高校生も一応言うこと言ってるんだよな。まあ、確かに、稚拙ではあるが。
「ちゃんと税金取っているなら、教育、医療、福祉に使うべきです。アメリカ軍とかに使ってる金の余裕があるのなら、ちゃんとこっち(教育)に金を回すべきです」と涙ながらに訴えると、橋下知事は「じゃあ、あなたが政治家になってそういう活動をやってください」と切り捨てた。
さらに高校生が「それは、わたしが政治家になってすることじゃないはずです」、「高速道路なんか、正味あんなたくさんいらないと思います」と税金に無駄遣いがあると指摘すると、橋下知事は「それは、あなたがそう判断しているだけで、わたしは必要な道路は必要だと思っている」と反論し、一歩も引かなかった。
「道路とかまずなんとかすべきでは?」にたいして
「それは、あなたがそう判断しているだけで、わたしは必要な道路は必要だと思っている」
ってこれ、反論じゃないよォオオオ!?
なぜ必要か根拠も示さない。議論になってねぇw
一方が「こう思うのだが」(まあこの高校生も、もう少し具体的に指摘するなどしたほうがよかったんだけど)と言ったら「それはあなたの意見。私はこう思う」って、反論じゃねぇw「意見交換」って銘打ってるのに、意見全然交換する気ねぇw何て意味のない場なんだ!
そこはしっかり、きょうは議論したいと思いますので
って言ってるのにこれっておまw
議論してねーよw
初めから「俺の意見はこうだ。あ?高校生の意見はそう?ああそう、でもおれはこう思うから」
って意味わかんねーよw議論じゃねーよwジャイアンリサイタルだよw
大体こいつ、反論なんてほとんどしてない。高校生は高校生で何言ってるのかわからんのも多いが。「16歳は壁にぶつかって、ぶつかって」とか「今は自己責任が基本!」とか、反論でもなんでもない。だいたい言ってることがイメージ的すぎ・曖昧すぎ。議論でもなんでもなくて、「オレの考え発表ショー」でしかない。だって高校生が「反論」(稚拙だが、むしろ高校生の方が一応「反論」はできている)したら「それはあんたの考え、オレは思わない」んじゃ議論もへったくそもねーだろがwで、挙句の果てに「だったらお前がこの国変えれば」って、結局「オレはこう思う。だから従えよ。従えないなら出てけよ」ってちょwww独裁国家ktkrwww民主主義びっくりwwww
「橋下徹の、『オレが日本を変えてやる』ディナーショー」はもう腹いっぱいだよwwwwww
これに「そのとおりだ!」「正論だ!」っていってるやつはなんなんだよw
「え?痛みって具体的になによ」
「痛みは本当に伴わねばならないのか?」
「ていうか漠然としすぎじゃないのか、結局具体的には何やるんだよ?」
等と本来は皆が冷静になり疑問に思わなければならなかったのに
「確かになんか、改革するっていったら痛みは避けて通れない感じするなぁ」
と感覚レベルでついていった日本国民の地は結局未だ変わっていないw
「確かに、自己責任だよなぁ」「学生は甘えたこといってないで勉強しろ!」
何も議論なんかねぇ。初めから心地よい一般論をただ主張してるだけ。
ニホンジン、ギロン、デキマセーン。
この高校生たちはこう応対すればよかったのに。
「やっぱり16歳はぶつかって、ぶつかって」
『橋下知事、失礼ですが、僕は知事の個人的な人生観を聞いているわけではありません。
具体的な言葉で説明をお願いします』
教育で財政を削る以前に、不必要と思われる道路等の財政の見直しが先ではないでしょうか。
道路やダムなどの大型公共事業の予算はそのままで、教育や医療などの予算は大幅削減する、という内容になっています。
例えば新名神高速道路なんかは、あまり必要性の低い道路であると僕は考えますが、これは1キロ180億円もの金額がかかります。一方、私学への助成金は、28億円です。
勿論、大阪府の財政状況が大変厳しいものであることは、僕たちもニュースを通じて知っています。本当にどこをどう削ってもこれ以上どうしようもない、私学の助成金も削らざるを得ない、そうであれば僕たちも勿論大阪府民として了承せざるを得ないとは思います。
しかしながら、あまり必要とも思えない道路を放置し、一方で国の基本ともいえる教育の、それも道路一キロ分の6分の1ほどの財政を細々と削るというのでは到底納得できるものではありません。
知事はそのあたりについてどうお考えなのでしょうか』
「それは、あなたがそう判断しているだけで、わたしは必要な道路は必要だと思っている」
『はい。私はそう判断しているだけです。しかし知事のご判断も、それはそれで知事がそう判断しているだけですね。
その知事の判断の理由、妥当性について私は問うているのですが。なぜ、必要だと思っているのか、それを問うているのです。道路が必要にせよ不必要にせよ知事が必要だと考える理由、根拠。必要だとしても教育より優先すべきか、という議論。その辺をしたいといっているのですが』
『失礼ですが、この会は意見交換の場だったのではないのでしょうか。僕は僕なりに僕の考えの根拠を示し、知事に提示しました。知事がそれに反論するのなら、それ相応の根拠と説明をもってしてもらわなければそれは「反論」にはなりえません。
最初から「高校生はそう思うのかもしれないが、知事である自分はこう思う、だからそれでいい」のならば、意見交換以前の問題ではないでしょうか。知事はさきほど「議論をする」と言っていた記憶がありますが、知事の言う「議論」とは最初から知事の考えをゴリ押しする、高校生が何かを言ってきても「それはお前の考えだ、自分は違う」と切り捨てることだったのでしょうか、ご返答お願いします』
生徒『それは新自由主義者の考え方ですね。そういった考えが、今日本・米国を初めとして
主流であるのは認めますが、日本憲法にそう示されているわけではありません。
知事個人の思想を、大阪府の政治に持ち込まないよう深くお願いいたします』
「いいものを選べば、いい値段がかかる。条件を比較して、あなたが選んだのでは」
生徒『僕はこれだけの助成金が支払われている私学を、その通り比較して選んだわけです。
その前提を知事が変えようとなさっているので、こうして反対しているわけです』
「最後のところを救うのが今の世の中。生活保護制度がちゃんとある」
生徒『知事、その台詞は生活保護制度が実際にきちんと実行されているのが前提で言える言葉ではないでしょうか?』
「今の世の中は、自己責任がまず原則ですよ。誰も救ってくれない」
生徒『それは、日本国憲法にそう書いてあるのですか?漠然とした感情論、精神論はやめていただきたい。また、知事個人の思想を政治に持ち込まぬようお願いします。また、知事の言う自己責任とは何でしょうか、きちんと定義をした上でお願いしたい。僕は自己責任というのは、そもそもその個人が自由に選択をできる場が保証されているのが前提で起きるものだと考えます。例えばですが、一種類の道しか目の前にない、あらかじめ他の道を実質削除されているのに、その道を進んだ結果起こった事が全部お前の自己責任だとするのは、それは本当は他者の責任であったものも、ある一人へ全て背負わせているだけの、ある種の「甘え」ではないでしょうか?勿論これは一つの例であり、僕たちが全てこうでるとは言いません。僕たちの責任もあります。しかし現状を全て自己責任自己責任と切り捨てるのでは本当の問題が見えてこないのではないでしょうか?自己責任だといって、知事の権力のもと、ただ切り捨てるのは簡単ですが、それは独裁政治とどう違うのでしょうか。知事はどういうつもりで自己責任という言葉をお使いになっているのでしょう、お聞かせ下さい。それを聞いてからでないと、何かと言えば「どれもこれもあれも自己責任」では、初めから議論にも何もなりません』
今朝、夢に及川光博が出てきた。(おそらく)TVの画面の中からこっちを指して「この国はおまえのものだ!」と叫んでいた。
夢の中の俺は思った。ちがう!この国はおまえのものじゃない。この国はおまえと、おまえが日本一きらいな奴のものだ!
日本人は世界でも珍しいぐらい周囲に気を使う国民だろうに、意外と変なところで他者が見えなくなってないか、と普段から思っている。学者も言ってるが、この国にはウチとソトがあって、その中間にPublicがないのだ。別にそれが悪いというわけじゃなく、ただ、それじゃこのご時世、どんどん生きづらくなるだけだと思う。案の定、神奈川の松沢知事みたいな規制大好き君がはびこってきて、県民に妙ちきりんな規制を強いて「これがPublicのルールだ」みたいなことを言い出している。
Publicの意識がないから、「だいたいこんな感じか?」と外から概念を借りてくると、みんなで「こんな感じか?」とやっていくことになるわけで、そうすると変な我慢もまかり通っちゃったりするわけで、そうすると何かよく分からないもののために我慢する状態になるわけで、でもそれが周囲の空気になるわけで、そうなるとKYを嫌う風土である以上そのままやっていくしかないわけで、どんどん生きづらくなるのだろう。