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はてなキーワード: 物言いとは

2009-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20091207151753

欲望を忖度する物言いは、結局泥仕合にしかならないということを、私は家庭で学びました。

いやぁ、あの頃のわが家はギスギスしてたなぁ...

2009-11-29

かな書きの文章はなぜ「読みにくい」と言われるのか?

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1

ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。

●時間厳守は遅刻する人に迷惑がかかるのでやめてください

この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。

前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

●記事のブックマーク・ページ(1)

●記事のブックマーク・ページ(2)

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページ

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ

以上の4つのリンク先からブックマークコメント引用させてもらいます。

id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。

私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。

1. 漢字について

2. 「学校という空間」をこそ問題にしよう

3. 表記が生成される場に立ち返ってみる

4. 国語廃止論序説

5. 「国語廃止論序説」への補足

5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。

ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。

上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。

それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。

また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。

とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。

そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。

もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマークコメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。

id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。

日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字学習に費やされていることも。

日本学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。

いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。

あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。

●漢字が排除するもの - hituziのブログじゃがー

 漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。

 もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。

 私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者日本語学習者です。

 そうした人たちが文字情報アクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。

こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。

こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。

「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」

これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータスロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。

同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。

だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。

さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。

「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマークコメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?

前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。

id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい

id:baumkuchen555 みんなよく読めるな

id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること

id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな

id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw

id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる

id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり

id:makiyamakoji とても よみに くいね

id:feita さすがによむきがおきないね。

id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。

id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない

id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?

id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…

id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない

id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。

id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ

id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化

id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。

お疲れ様でございます。

みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。

「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。

「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。

上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。

id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。

この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。

なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。

ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。

そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。

つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。

こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。

id:Yagokoro [これはひどい] 日本語すぎて読めない。

日本語すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。

書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?

なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。

すでに述べたように、私は自分言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。

たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?

その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。

しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。

繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。

次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。

 このごろ建物階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。

 たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。

 もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。

 つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞ニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。

 何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……

(訳者注:原文ではかな書きで引用されている)

見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄り自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。

文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。

だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。

同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。

そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。

石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。

 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。

 たとえば、駅の階段エレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーター車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。

あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。

要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。

その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。

私は前の記事で次のように書きました。

 さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。

これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。

漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。

そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。

id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記

id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。

id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった

id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認

ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。

たとえば、「日本語同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。

しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。

実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。

他によくある誤解はは、漢字表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。

id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど

ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。

英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。

つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。

要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。

(続き)

2009-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20091124013855

元増田ですが、えーと、本文にも書きましたが、「実際に回答してみると云々」の話は、日本の話で、夏の衆院選投票日直前にNHKからかかってきた電話世論調査のことです。具体的な設問は忘れてしまったので、ご指摘のとおり先入観というか、感情的物言いになっている部分はあるかも知れません。

ええと、どうも誤解されているようなので改めて説明しますが、

「これって具体的にはどの国のどの事例を指して仰ってるのでしょうか」ってのは「世論調査が全国的な影響力を持って時の政府が倒れるきっかけになったりした」事例なんてものが実在するのか?それは元増田幻想ではないのか?という意味で訊ねたのです。夏の衆院選に於いて、そういう世論調査が「全国的な影響力を持って」「時の政府が倒れるきっかけ」になったと元増田が信じていることは了解済みなのですが、こちらが訊ねているのは、それはきちんと証明された話なのか?それって幻想なのではないか?ということなのです。幻想でないという確信を持つに至る何かがあるなら、それをお尋ねしたいと思っているのですが。

調査の結果が「政治的に妥当か」という判断は、政治専門家でない限り、できないでしょう。私が、世論調査として認めるべきではないと感じるのは、被調査者の大多数が「なんか今回の調査は質問のしかたが変だったな」と感じる調査です。実際の世論調査の内容とは別に、「この調査自体、いい調査でしたか」という設問が必要だと思う、という話なのですが。

政治的に妥当か」という価値判断は、政治専門家でなくとも出来ますし、やってもらわないと困ると思います。ていうか、衆院選に行ったなら、元増田だってやっているはずです(『その選択が元増田自身を幸せにするのに妥当なものであったかどうか』を客観的に評価するには、専門的な知識・技術が必要になるかもしれませんが)。そもそも、「この調査自体、いい調査でしたか」という設問への回答にはそういう「政治的に妥当かどうか」の判断が含まれていると思うのですが。だって、『実際に回答してみると、かなりいい加減な調査なのに、それが全国的な影響力を持って時の政府が倒れるきっかけになったりするじゃないですか』という問題意識があって、それに対する懐疑心を持つことが重要だ、って考えてるわけでしょう?それって、政治に対する影響力・世論調査のありようを考えて判断したものだと思うのですが・・・。

で、自分が提起した論点に戻りますけど、調査を受ける側の多くが「おかしな質問の立て方だ」と思うようデリケートな問題(例えばマイノリティに関する問題)が世論調査の内容に含まれたとき、それが表に出ない可能性についてはどう思われますか。

http://anond.hatelabo.jp/20091123223003

元増田ですが、えーと、本文にも書きましたが、「実際に回答してみると云々」の話は、日本の話で、夏の衆院選投票日直前にNHKからかかってきた電話世論調査のことです。具体的な設問は忘れてしまったので、ご指摘のとおり先入観というか、感情的物言いになっている部分はあるかも知れません。

というわけでうろ覚えなのですが、確かあの時も麻生政権のことについて、気分的に答えてしまいがちな設問があったように思うんです。「その質問にはYes/Noというより、質問自体がおかしいと思います」と答えたことを覚えています。もちろん、そんな回答は電話口のバイトお姉ちゃんには受け付けてもらえず「それでは『その他』にさせていただきます」と言われました。

調査の結果が「政治的に妥当か」という判断は、政治専門家でない限り、できないでしょう。私が、世論調査として認めるべきではないと感じるのは、被調査者の大多数が「なんか今回の調査は質問のしかたが変だったな」と感じる調査です。実際の世論調査の内容とは別に、「この調査自体、いい調査でしたか」という設問が必要だと思う、という話なのですが。

2009-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20091121063513

ええっとね、バブル景気頃から変わってきたんだけど、それ以前は「こだわる」ってネガティブ意味で使われていたのね。「そんなつまんないことにこだわるんじゃないよ」という感じに。

バブル景気グルメブームが始まって、「素材にこだわる」というフレーズが多用され、妥協しない、自分がよいと思ったものをとことん主張する姿勢がポジティブに感じられるようになって世の中変わったんだけど、

宮崎駿ってその昔の価値観で考えれば、心方面の障害者として扱われているはずなのね。

ダメだと思ったらとことんダメなんだもの。そしてそれを縦横に言える環境を作ることに成功して。

売れているから周囲が認めて、ワガママや一方的な物言いに従っているけど、アニメマンガを作っている人達宮崎さんを除く全員が心の中で

「あんな破綻したストーリーが、なぜあそこまで受け入れられるんだ?でもそれでも面白いんだよな」

不思議な気持ちになっております。

竹熊健太郎さんがそれらを書いています。破綻していると指摘されたところを説明できればおk

増田の不運は、自分の好きなものを見つけられていないことだね。

好きなものを見つけると、その世界の中で認められる関係が築けるものなんだけど、何かなかった?

2009-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20091119193624

自分ロジックにはその必要を感じないのだが、増田が必要だというのならその説明が欲しいな。

ここで言ってる「ロジック」ってのは実社会におけるものだから。

社会では厳密な公理は存在しないし、推論規則にも常に(無視できない)不確実性が伴う。

その物言いだけじゃ不確実性を十分除去するには根拠が薄いということ。

2009-11-16

徒にスクロールバーを長くさせるだけの迷惑極まりない掌編

ぱがん、と、乾いた音が耳を突いた。まどろみに埋もれていたわたしの意識が、急速に引き上げられていく。気だるげに開いた眼は、薄暗く静寂に沈んだログハウス天井を視界に捉えていた。

ぱがん、と、乾いた音が再び聞こえてくる。のっそりと上体を起こしたわたしは二段ベッドの上から室内を見渡し、まだサークル仲間の誰も彼もが目を閉じたまま微動だにしない様子を確認すると、がりがりと寝癖のついた頭を掻いてしまった。

もう一度眠ろうかと考えた。予定では、今日は引率している野獣の如き子ども達を宥めてオリエンテーリングに向かわせなければならなかった。下手に寝不足のまま参加してしまえば足手まといになってしまうだろうし、やつれて無駄に疲れてしまうことが目に見えて明らかだった。

やっぱり眠ろう。決めて身体を横たえて瞳を閉じる。小さく、仲間達の呼吸が小さく聞こえてきていた。意識はじゅんぐりと眠りの海に沈み始める。布団を引き寄せて、身体を小さく抱え込んだ。温もりが再度まどろみに沈んだ身体にとても心地いい。

ぱがん、と、三度あの音が鼓膜を振動させた。瞬間、わたしの瞼は何者かに支配されたかのように勢いよく見開かれる。まだ浅いところで引き上げられてしまったせいで、とうとう完璧に目が冴えてしまった。こんな朝っぱらからうるさいなあと少し腹が立ったわたしは、仲間達を起こさないよう静かにベッドから降りると、懐中電灯を持ってひとりログハウスの外へと足を向けてみることにした。

「……すごい」

扉を閉めると同時に、立ち込めていた噎せ返るような濃霧に、思わず呟いてしまっていた。少し息が苦しいような気がする。まるで水底に立っているかのようだと思った。山間だというのに立ち並んでいる木々の姿さえも確認できない。濃密な霧の姿に、わたしは途方もなく圧倒されてしまった。

霧はまだ陽も昇っていない早朝の薄闇の中、心なしか青白く色付いているように見えた。纏わりつく気配の中手を動かすと、水流が生まれるかのように顆粒が小さな渦を巻く。懐中電灯がなければとてもじゃないけれど踏み出せそうにはなかった。霧のせいで迷子になってしまう恐れがあったのだ。ともすれば壁だと錯覚してしまいそうなほどの密度を持った濃霧は、その奥底に圧倒的な幽玄を潜ませながら、音もなくキャンプ場を覆い尽くしていた。

そう。本当にあたりには何も物音がしなかった。鳥の鳴き声も、梢の囁きも、虫の音までも、一切が外気を震わせていなかった。空間を満たしているのは、どこまでも深い霧ばかりだ。昨日来たときには煩わしいほどに感じられた生き物の気配は、どれだけ耳を研ぎ澄ませてみても拾い上げることができなかった。

先ほどの言葉でさえも、口にした途端に濃霧に絡め取られてしまったのだ。生き物達の振動も、片っ端から霧に呑まれて分解されているのかもしれないと考えた。

ぱがん。辺りにまたあの音が谺した。随分近くで。あるいはとても遠い場所から。あの音だけは、やけに周囲に響き渡っている。まるで、霧があえて分かりやすくしているかのように。わたしは音がした方向に向けて懐中電灯の心細い光を放つ。

「誰かいるんですか?」

返事の代わりなのか、しばらくしてから再びぱがん、と音がした。導かれるようにして、わたしは濃霧の中に一歩足を踏み出す。一定の間隔で聞こえてくる音だけを頼りに、見通しの悪い、すでにどこにログハウスがあるかも分からなくなってしまった霧の中を進んでいく。

唐突に、光の円の中にひとりの老人が浮かび上がった。

思わず息を呑んで立ち尽くしたわたしの目の前で、どこか古めかしい翁のような雰囲気を纏った老人が手にした斧を大きく振り被る。耳に張り付いてしまったあの音を響かせながら、刃が突き刺さった丸太はぱっくりと左右に割れて落ちた。

「お早いのう」

こちらに振り返ることもしないで黙々と薪を割っていく作業を続けながら、老人が言った。

「音が聞こえましたから」

「ああ、そうじゃったか。……もしかして起こしてしもうたかな?」

言いながら老人は斧を振り被る。ぱがん。薪が割れる。

態度に少し気分を害したわたしは不機嫌を装って返事をした。

「まあね。うるさかったから」

「そうじゃったか。それは申し訳ないことをした」

と、老人はまったく反省したような素振りを見せずに口にする。なんなんだ、この人は。思ったわたしは口を噤むと思い切り睨みつけてやった。友達から、怖いと評判の眼差しだった。止めた方がいいよと。

けれど、老人は意にも介さない。丸太を立てて、斧を振り被って、割れた薪を横に積み上げていく。

漂い始めた沈黙と続く変化のない作業に、先に耐え切れなくなったのはわたしの方だった。

「あなたは、この辺りに住んでいるの?」

「ええ。長いもので、かれこれ三十年近くになりましょうかね」

「こんな朝早くから薪を割りにここまで昇ってくるんだ?」

今日はちょうど薪を切らしてしまっていての。寒いし、こりゃあ大変だということで、急いで準備に取り掛かったんじゃよ」

「でも、この霧だと大変じゃなった? よくここまで来られたわね。住み慣れた経験がものを言ったのかしら」

少し嫌味っぽく言うと、老人の口許に淋しそうな笑みが浮かんだ。その表情に、わたしは思わずどきりとさせられてしまう。老人は一度作業を中断させると、腰を伸ばしてから額に浮かんだ汗を拭った。

「深い、とてつもなく濃い霧じゃからなあ。あなたも驚かれたんじゃありませんか?」

「え、ええ。まあ」

「息が詰まって、溺れてしまいそうだと思った」

発言に、わたしは無言のまま頷く。老人は初めてこちらに目を向けると、とても柔らかく微笑んだ。穏やかな、それでいてどこか影の差し込んだ微笑だと思った。

「私も、初めてこの霧を経験した時にはそう思ったもんじゃからなあ。とんでもない霧だとな。けれども、いい場所だとは思わんかね。神聖な気配が満ち溢れているような気になる」

「神聖?」

突飛なキーワードに思わず声が口をついて出てしまった。

「ええ。ええ。そうじゃとも。この辺りには神聖な気配が満ち満ちておる。とりわけ、こんな濃霧の日にはの」

言って、老人は濃霧の向こう側を、その奥底を眺めるようにそっと目を細めた。

「……辺りを少し歩いてきてみたらどうですかな。きっと、とても気持ちがいいはずじゃよ」

しばしの沈黙の後、再びわたしの方を向いた老人は穏やかに微笑んでそう提案してきた。

「それに、もしかすると今日不思議なことが起きるかもしれない」

不思議なこと?」

繰り返すと、老人はこくりと頷いた。

「ええ。まあ、噂にすぎないんじゃがね」

そう口にして苦笑した老人に、わたしは最早当初抱いた不快感を消し去ってしまっていた。この人は少し仕事に集中していただけで、本当は親切ないい人なのだ。そう思うことで、優しくなれるような気がした。

「あんたなら、あるいは出会えるかもしれん」

口にした老人に、ありがとう、と礼を言うと、わたしは言われたとおり少し辺りを散策してみることにした。依然として先の見えない濃濃密密たる霧には変化がなかったものの、どういうわけか迷子になって帰られなくなる、といった不安は感じなくなっていた。ぱがん、と背後から断続的に薪割りの音が聞こえてきたからなのかもしれない。わたしの足はずんずんと霧の奥へと進んでいった。

どれほど歩いたのか、濃すぎる霧はわたしから時間感覚を奪ってしまったようだった。ぱがん、と聞こえる音の回数も、五十を過ぎたあたりから数えられなくなっていた。

一体、ここはキャンプ場のどの辺りなのだろう。どこをどう進んで、どこまでやってきたのかが分からなかった。劣悪すぎる視界は距離感覚も曖昧にさせてしまっていたのだ。加えてどういうわけか聞こえてくる薪割りの音はいつも同じ大きさだった。遠くもなることも、近くなることもないせいで、同じ場所をぐるぐる回っているような奇妙な感覚に陥ってしまっていた。

先の見えない霧の中、疲労にがっくり項垂れたわたしは、とうとうその場に屈んで、膝に手を置いてしまった。上がった呼吸を整えながら、もうそろそろあの老人の許へ帰ろうかと考えた時だった。

幼い笑い声が耳に届いた。

驚き、わたしは素早く顔を上げる。聞き間違いじゃないかと思ったのだ。引率してきた子ども達がこんな時間に外出しているはずがないし、そもそもその声がこの場所で聞こえるはずがなかった。

わたしは膝に手を突いたまま硬直して、こんなことはありえないと念じ続けていた。目の前にいる何かを幻だと理解しながらも、どこかでそうではないと信じていたかった。

再び笑い声が響く。たった三年だったにも関わらず耳馴染んでしまった、最後に息を吸う特徴のある、誰が笑っているのかを知っている声が谺する。

視界に映った霧の中で、その影は確かに楽しそうに口角を吊り上げていた。

「七恵なの……?」

呟くと、ひらりと身を翻して小さな子どもの姿をした影は霧の奥へと駆け出してしまった。

「待って!」

叫び、わたしは全力で影の背中を追う。疲れた身体の都合など知ったことではなった。実際、膝はすぐに悲鳴を上げ出し、やがて横腹も痛みを訴え始めた。いつの間にか木々の間に入ってしまっていたらしく、足場が安定しないのも苦しかった。

けれども、それでもわたしは身体に鞭を打った。影を追わなければならなかった。ここにいるはずのない、ましてやこの世に存在しているはずのない妹が、いま目の前を走っているのだ。どうして追わないことができよう。彼女に伝えなければならない言葉をわたしはずっと胸のうちに秘め続けていた。

掠れ始めた呼吸音と、立ち込める霧そのものが発しているかのように響く七恵の笑い声を耳にしながら、わたしはあの一日のことを思い出していた。決定的に何かが失われてしまった、手を離すべきではなかった日のことを。

あの日まで、わたしはお姉さんだった。三歳になったばかりの七恵を、監督し守ってあげなければならない責任があったのだ。

なのに。

先を行く七恵の影は、どうやら現状を鬼ごっこか何かと勘違いしているらしい、奇声のような歓声を上げながらするすると木々の間を縫い進んでいく。

「待って……待って、七恵」

もう手放さないから。絶対に、必ず握っておくから。

――だから、もうどこへも行かないで……!

ぎゅっと閉じた瞼の裏側に、あの日の光景フラッシュバックする。病床に臥していた祖母のお見舞いに向かっていたのだった。病室でわたしは暇を持て余していた。近くにいるように母に言われていたのに。七恵を連れて院外へ出てしまった。

近くにあった商店街。立ち止まり見惚れてしまった文房具店。陳列されたいろいろな文房具は、小学生になったばかりだったわたしの目に、キラキラ光っているように見えた。どれもこれも可愛くて、熱中してしまた。

握り締めていたはずの七恵の小さな掌の感触。いつの間にか、なくなってしまった感触。

生々しく思い出せるが故に、後悔は杭となって打ち込まれていく。鈍痛は、いまなお血と共に滴り続けている。槌を振るにやけ顔の罰は、愉快そうにこう告げてくる。

「おいおい、なにを寝ぼけたことを言ってるんだ。それだけじゃないだろう。お前の罪はそれだけに留まらなかったはずだ」

そうだ。そのとおり。文房具から目を上げたわたしは、隣に七恵の姿がなかったことをかなり早い段階で認識していた。その時点でわたしが探していれば、もっと違った現在があったかもしれなかったのだ。

幼かった七恵。まだ三歳になったばかりだった。生意気で、なんでも真似して、両親の愛情まで奪っていって――。わたしは邪魔だったのだ。幼い独占欲は、妹の存在をうっとおしく思い始めていた。

わたしはあの時、本当は喜んでいたのだ。疎ましい七恵がいなくなったと。人通りの多い商店街の中で、これでようやく好きなだけ文房具と向き合えると思ってしまっていた。

失った感触。温かくて柔らかくて、小さかった脆弱な掌。

両親は血相を変えてわたしたちを探しに来た。どうして急にいなくなっちゃったの、と、鬼のように母さんに怒られた。それから、父さんが言った。

「七恵はどうした」

ななえはどうしたななえはどうしたななえはどうした……。

わたしは言葉を何度も頭の中で転がした。意味を理解しようと努めた。そして、同時にかっと全身が暑くなって、唇が動かなくなってしまった。

「ねえ、七恵は。七恵はどこに行ったの?」

怒ったままの鬼の母さんまでもが々ことを口にする。わたしは俯いた。父さんは周りを見渡しながら困ったなと呟いたはずだ。探してくる、と駆け出していったから。

「どうして勝手に抜け出したりしたの」

母さんはヒステリックに叫んでいた。思えば、あの時すでに最悪の事態を予想していたのかもしれない。当時、近くの町で未解決の誘拐事件が発生していたのだ。高圧的に、そして混乱しながら怒鳴り散らす母さんの声を、わたしは俯いたままぐっと唇を噛んで耐え忍んでいた。

罰が愉快そうに口にする。

「そうだ。思い出すんだ。お前の罪がなんなのか。本当に最悪ないことはなんだったのかを」

母に怒られながら、しかしわたしは七恵の手を離してしまったことを後悔していたわけではなかった。むしろ、七恵を恨んでいた。勝手にいなくなって、そのせいでわたしが怒られてしまったのだと、やっぱりいらない奴だと考えてしまっていた。

だから、わたしは泣かなかったのだ。いくら怒られても、いくら詰問されようとも。そして、時が経つにつれて本当に泣くないようになってしまった。

記憶は正確に当時の状況を把握し続けている。行き交う人波の中から戻ってきた父の表情。分からない、との呟やきを耳にした後の母のパニック。宥める父と泣き崩れた母の姿。ようやくわたしにも事態の深刻さが理解できかけてきたのだった。両親が人目も憚らず取り乱す姿なんて後にも先にもこの一件以外に見たことがなかった。

警察への連絡、掴めない足取り、過ぎていくだけの日数、憔悴していく両親。わたしは何も言えなかった。言えなくなってしまった。そもそも言う権利など、端から存在しなかったのだ。

誘拐事件への疑い、寄せられた怪しい人物の目撃情報。七恵は、商店街の出口付近で、若い男に手を引かれていたのだという。

そしてその翌々日。

七恵は、近くの池に浮かんでいた。寒空の下、下着姿でぼんやりと漂っていた。性的暴行を受けた末に、死体の処理に困った犯人に投げ捨てられたのだった。その後、連続誘拐犯の若い男は逮捕され、死刑が決まった。

けれども、もうなにも蘇らなかった。わたしのせいでわたしは、わたしの家族は、そして七恵は、どうしようもなく損なわれてしまった。もう二度と元へは戻れない。失われた存在の代償など、七恵本人以外にありえるわけがなかった。

足がもつれる。転びそうになってしまう。前を向いて、歯を食いしばり、泣き腫らしながらわたしは走り続けている。影に追いつかなければならなかったのだ。あの掌を握り締めることだけが、わたしにとって可能な唯一の贖罪だった。

唐突に影が急に立ち止まる。限界を通り越した身体で追いすがるわたしに振り向くと、にこりと微笑んだ。表情など見えないはずなのに、なぜか笑っていると理解できた。同時に、迎えなければならない別れの予兆も感じ取れた。

「な……なえ……」

息も絶え絶えにそう呼びかける。七恵はどうしてわたしが苦しみを抱いているのか分からないといったような顔をして、首を傾げる。

「ごめん、ごめんね、七恵。わたしが手を離したばっかりに、わたしはあなたを死なせてしまった」

そう、全てわたしのせいなのだ。幼いわたしの自分勝手な考えが、全てを反故にしてしまった。用意されていたはずの七恵の未来も、温かな家族の団欒も、些細な笑い声さえも、残された家族から損なわせてしまった。

崩れ落ちるようにして膝を突き、両手で落ち葉を握り締める。瞑った両目からは、涙が零れ落ちていった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

この言葉しか口に出せないわたしの肩に、そっと手が触れたような気がした。

顔を持ち上げる。霧の中で七恵は満足そうに笑っている。影の腕が動いて、大きく左右に振れた。口が動いたのが見えなくても分かってしまった。

さよならの合図だった。永遠の別れ。奇跡は二度とは起こってくれないだろう。

焦ったわたしは手を宙に伸ばす。待って。行かないで。もうどこにも。この手から離れないで。そうじゃないと帰れなくなってしまう。あなたは二度と帰られなくなってしまう。

膝を立てて懸命に、力の入らない足を遠ざかりつつあった影に踏み出そうとした瞬間だった。霧の向こう側から、鋭い陽光が網膜を貫いた。

そのあまりの輝きに堪らずわたしは目を閉じる。瞬間、周囲を穏やかな風が通り抜けていった。柔らかな、優しさに満ち溢れた風だった。

ゆっくりと瞼を開く。あれほど濃密で深かった霧がすっかりと薄くなり始めていた。見れば、手を突き出した先の地面は、すとんと途切れてしまっている。山の断崖に出ていたわたしは、昇り始めた太陽に照らされた雲海を、裂け分かれていくようにして音もなく消えていく霧の姿をじっと目に焼き付けることとなった。

壮麗な光景言葉を失っていた最中、そよいだ風の合間に幼い声を聞いたような気がした。バイバイおねえちゃん、と聞こえたその声は、紛れもなく妹のそれであり、もう決して届かなくなってしまった彼女のことを思ってわたしは再び涙を流した。

泣き疲れて適当に歩いていたせいで、どこをどう帰ってきたのか分からなくなってしまった。気がついたとき、わたしは再びあの老人を視界に捉えていて、何かに操られるかのようにして近づいていったのだった。

老人は相変わらず薪割り続けていた。

「どうじゃった。なにか、起きたかね」

斧を片手に顔を上げないまま、そう口にする。如実に現実感が蘇ってきて、わたしはついさっき体験した出来事を思い出し、それからそっと笑顔になって口を開いた。

「ええ。とても素敵な出来事でした」

もう二度と合えない相手と、たとえ影だけだったとしても会うことができたのだ。伝えられなかった想いも、伝えることができた。一方的ではあれど、わたしにとっては確かに素敵な体験だったのだ。

「……前を向けそうかね」

老人の問い掛けに、やはりこの人は霧の山で起きていることを正確に把握しているのだなあと理解した。わたしはくしゃりと表情を崩して、どうでしょうと口にする。

「また会いたくなってしまうかもしれません」

言葉に、老人は少し困ったような笑みを浮かべた。ぱがん、と薪が割れる。

「あんたも過去に囚われてしまいますか」

わたしは何も答えない。額を拭って、老人は斧を振り下ろす。ぱがん、と薪が割れる。沈黙が二人の間に染み込んでくる。

「かく言う私も、この山の霧に魅せられてしまったひとりでね」

不意に口にして、薪を割る手を休めた老人は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「失った日々を前にしてからというもの、ここから離れられずに、こうして樵のような真似事をしておるわけなんじゃよ」

「ご家族の誰かを?」

自嘲気味に笑った横顔に、失礼とは承知で訊ねたわたしに対して、老人は素直に頷いて答えてくれた。

「妻と娘をね、冬場の火事でいっぺんに亡くしてしまったんじゃ。あの冬はとても寒くての、ストーブは欠かせなかった。今思えば不幸なことに違いないのだろうが、ちょうど私は出張で家を離れていてのう。事のあらましを聞いて駆けつけてみれば、二人は見るも無惨な姿に変わり果ててしまっていた。面影すらなかったんじゃ。熱によって筋肉が収縮したんじゃろうなあ、口だけぽっかり開いていて並んだ歯が見えるんじゃよ。でも、それだけじゃ。身体は顔も全身も真っ黒に焼け爛れてしまっとってな、まさしく消し炭で、私は一瞬妻と娘じゃない、他の誰かが死んだんじゃないかと思ってしまったんじゃよ」

進んで訊いたくせにどうとも反応することができず、わたしは目を伏せて小さく頭を下げた。老人は遠く、消えつつある霧が覆い隠してしまった妻子を見つめるかのようにして目を細めた。

「この山はの、異界と繋がっているんじゃよ。もしくは、壮あって欲しいと心のどこかで願う者に山が望むものを与えてくれる。けれども、だからこそあまり長居をしてはならないんじゃよ。私は運よく山に管理者として認めらはしたが、私以外にここで長居をして無事にいられた者は他にはいないんじゃ。皆、山に呑まれてしまった。霧の奥へと誘われて、とうとう帰ってこなかった」

その淋しそうな物言いに、わたしは抗うようにして微笑を湛えた。

「それでも、またいつかこの場所に来てもいいでしょうか?」

驚きに目を見張って振り返った老人が、わたしの表情に何かを見たようだった。柔和に顔をほころばせるとそっと口を開いた。

「……いつでも来なさい。ここはどんな時でもちゃんとこのままであるはずじゃからのう」

「はい」

確かな返事をして背後に振り向く。木々の間を縫って差し込んできていた朝陽に目を細めた。鳥が羽ばたいて空を横切っていく。甲高い鳴き声が響き渡る。存外近くにあったログハウスの中から、いなくなったわたしを心配したらしい大学サークル仲間達が顔を出し始めていた。

「行かなくっちゃ」

呟きに、老人は力強く頷きを返してくれる。

「またいつか」

「ええ。またいつか」

言うと、老人は割り終えた薪をまとめて背中に担いだ。木々の間に分け入っていく背中を見えなくなるまで眺めてからわたしは踵を返した。

帰るべき日常へ、あるべき仲間の場所へと、わたしは歩を進めた。

2009-11-12

インターネットからは撤退したほうがいいよ

http://anond.hatelabo.jp/20091112171439

ネットは「言葉」の付き合いだから、非コミュは「真面目に言葉を受け取り過ぎる」んだ。たとえ「あっちいけ」とか「シネ」とか書いてあっても、パソコンの向こうでは鼻くそほじりながらヒマつぶしにキーボード叩いてるだけだよ。そんな奴らにだって、普通の生活がある。オフ自分にとって大事な用が出来たら、さっさとパソコンの電源切って、そっちに時間を使い始めるんだよ。

オフの付き合いなら、「言葉」以外に服装、視線、声の抑揚とかで相手は、自分がどう思っているのかを表現してくるから、言葉はきつくてもたいして怒ってないなとか、穏やかな物言いとは裏腹に相当怒ってんなとか、そういう判断がつく。ネットより、オフの付き合いを求めたほうがいいぞ。

つーか、そういう「言葉にならないこと」がどういう意味なのかを理解するのが、非コミュ脱出の第一歩。ついで「自分は相手にどうしたいのか?」を考える。私は相手に「なんか励ましの言葉をかけたい」と思っているから、こういう記事を書いてる。たぶん、他の増田からは「上から目線説教くせえんだよ、ケッ」と思われてるだろう。んなこたどうでもいい。増田の付き合いは一期一会だ。今、この書き込みに、今、私が言いたいことを書かないと、あなたに伝わることは永久にないんだから、伝えることのほうが大事だ。

増田は? どうしたいんだ? 他人に対して、増田は何をしたいんだ?

「他人と笑いあって、落ち着いて過ごしたい」と思っているのなら、まずは、その夢は実現すると信じよう。そこがスタートだ。

神曲=SHIT

いくらあまり宗教的で国とは言え、神様大安売りしすぎ。

中古ナギ様よりもっと安い。

神曲ってのは「俺はこれがいいと思った」くらいの意味で言ってるんだろうと思うんだけど、神って単語が単語だけに価値観押し付けのように感じられてしまう。

そうでなくてもオタク連中の物言いは妙に押し付け臭いのに(あまぞ~んのレビューとか)。

2009-11-03

富士山静岡空港を使って思ったこと

静岡県に住んで2年になる。出張がてら富士山静岡空港を3回くらい使ってみた。今年開港したばかりのあたらしい空港だ。

 

感想としては、この空港ビジネス客のこと一切考えてないということですね。というのも、書類やパソコンを置くデスクがない。あと、今どき、電源プラグがない。

 

この空港は、クルマジャンキー静岡県らしく、自家用車でのアクセス(だけ)が想定されている。結果、連絡バス飛行機との接続が悪く、空港で2時間近く待たされるなんてことがざら(東名高速はすぐ渋滞するので、ぎりぎりのバスでは危険すぎる)。というわけで、県外からのビジネス客はラウンジどころかコンビニ寿司屋しかないような空港で、ベンチに腰かけて待つしかない。作業のできるデスクくらい作ろうよ。

 

さらに、上述のとおり電源がない。たまたまないわけではなく、無断借用を警戒して、利用客のいる空間からコンセントプラグ)をほとんど追放している。確信犯羽田札幌中部福岡無料の電源が豊富にあるし、佐賀愛媛小松女満別などは、職員に言うと「不便な空港すみませんね~」と言われつつ、電源を貸してもらえた。

 

ところが、富士山静岡空港の職員は違った。

 

掃除用のコンセント勝手にお使いになる方が多いので、その都度、注意しております」とのこと。

 

その物言い違和感を覚えた私が、「今どき、空港の電源使用は必須のサービスだと思いますけど?」と聞いたところ、

 

「みんなの空港ですので、一部の方だけを優遇することはできないという、公共のルールです」と自信たっぷりに言われた。

 

 

静岡県ネイティブはこの手の高飛車役人的な奴が多くて私はいつもうんざりしているんだが、それはともかく、

 

「では、空港使用料を払っていない、空港見学の住民がトイレを使って水を流しているのも注意なさっているんですか?」とお聞きすると、

 

「この空港の決まりごとですので!」と繰り返すだけの壊れたレコードになってしまった。

 

 

 

いや、無許可で電源を使ってはいけないのは分かるよ。私もそれはしない。

 

ただね、空港での電源開放が「一部の方への優遇」になるという発想はどうなのかなと。

 

私は、空港での電源使用は最低限のインフラに含まれると思います。特に、こういうフライト前後にやたら待たされる空港では。実際、静岡空港の複数の職員は、電源プラグがないというクレームをよく受けていることを認めた。

 

富士山静岡空港(というか静岡県庁)のおかしいなと思うところは、クレームが多い案件改善点として上にあげるのではなく、「ルール違反者」として処理したがるところ。別に、空港温泉を作れとかムチャクチャ言うてるわけじゃないのにねえ。

 

そのようなわけで、富士山静岡空港の真意がどうであれ、この空港ビジネス用途で使うのはやめたほうがよいなと思った。

 

 

 

あと、コンセントを無断使用していたわけでもなく、ただ利用の有無を問い合わせただけの人間にまで「説教」口調で話しはじめたのがいかにも静岡県民らしいと思いました。この県は全般に、接客下手なんだよな。これは余談だけど。

 

 

2009-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20091030072955

の補足。http://h.hatena.ne.jp/umevoshi/9234073176963339874から、

それとモノ扱いしてるなら胸が苦しくなることはない、ってのは全然意味が分からない。

実際に「物」をなくしても胸が苦しくなることはざらなのに。

んだから胸が苦しくなってるんだからモノ扱いしてないよ、とは言えないっしょ。胸が苦しくなることと、人をモノ扱いすることは全く問題なく両立すると思うが。

ね? 物扱いと一口に言っても、その対象を理不尽に扱うような「物扱い」から丁重に扱う「物扱い」までいくつものバリエーションがあるわけよ。

あと別の人だけどhttp://anond.hatelabo.jp/20091030081409にも少し。

それって国や社会が認める人権というわけじゃなくて「女イラネ」とかいってる個人が生身の女に人権認めないって話なんじゃないのかとは思う。

いやだからさー、それでも「Amazonあるから本屋イラネ」つったらすなわちその本屋の人の権利一切を認めないことになる、とかあるか? せいぜい「本を流通させてくれるという特性では、何の重み付けもしなくなる」「本の流通については本屋に全くコンタクトしなくなる」くらいで終わっちゃうと思うけど。べつにわざわざ本屋をぶち殺したりしねーよ。そこでぶち殺しに行くやつの問題は、それでまた別の話でなあ。

実際にはそういう連中はそんなに多いわけじゃないうえに、将来的には子孫を残せず滅びる運命だし、おそらく長生きもできないから無視していい集団だと思うんだけどね。

「子孫を残せず滅びる運命だし、おそらく長生きもできないから無視していい」ですかー、いやすげえ。子孫が残るかとか長生きするかなんて脅威とは直結しないのに、なんでそれが「無視していい」と言えるんじゃろ。なんつーかこういう物言いに内心って透けるよね。あとそれって「セックスダッチワイフがあるし、恋愛ラブプラスが面白いから女の存在は無視していい。イラネ」にちょっと似てるよな。これ(政治的存在としてイラネ)のほうが「(ある対象としての)女イラネ」よりよっぽどアレだけどどうなんだろ。

2009-10-28

http://anond.hatelabo.jp/20091028205635

そうやって、無理に自分のペースに引き戻そうとする余裕の無さとか、ちょっとひねった

言い回しをしてやろうと待ち構えている感じが、「ちょっと頭悪そう」なんだよ。

あとは、芝居がかった物言いスベリっぷりとか、いかにも空気の読めなさそうな感じとか、

こいつが>>1になったスレは荒れそうだな、と思わせる感じとか。

 

そもそも頭がいいことの必要充分条件とは何かを考える、なんてのが本題じゃなかった気がするんだが。

とりあえず「他人を納得させることができる、ということ」って答え出してるんだし、それでいいんじゃないの?

http://anond.hatelabo.jp/20091028204930

では衒学的でない提言をする者が「頭が良い」のか。

回りくどくない物言いをする者が「頭が良い」のか。

リズミカルな文章を書く者が「頭が良い」のか。

文章上のミスの少ない者が「頭が良い」のか。


そのどれもが「頭が良い」ことに対する必要十分な条件とは成りえない。

いいとこ十分条件といったところである。

とりあえず本来の論点を踏まえた返答を期待しているよ増田くん。



(要約:うっせー誰が校正して下さいなんざお願いしたよすっこんでろ)

2009-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20091026000046

ちがうよ?上司にそんなこと言われるのは関西弁のせいじゃないよ

関西弁でも別にやわらかな物言いをする人はいるし、そもそも東京で働いてるのなんか地方出身者が大多数なんだから方言だとニュアンスが違って聞こえるくらい同僚も上司も知ってるよ。

単に増田物言いが本当にきついだけ。

2009-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20091025221649

同僚がミスったときの言い方がきついらしい・・・

「お前なにやってんねん」とか、「ちゃんとせーよ」とか

そういうのは言うんですけど・・・

それって普通じゃね?と思うわけで・・・

NOT関西人です。仕事であちこち行きます。

個人的な感想ですが、あまり嫌じゃありませんね。

イントネーションが軽いというか明るい感じがするんですよ。

同じ事を言われると、東京人間物言いが鼻につく事がよくあります。

「なにやってるんですか?」とか「やる気あるんですか?」とかですかね。

目をつりあげてドヤす、という感じならダメだと思いますが、

「なにやってんねん!」って感じなら本当に何やってんだよ!って状況でも

「うわースンマセン!」って返せそうな。

どっちにしろ、言い方使い方だと思うんですよ。

何弁だろうが、相手が100パーセント悪い!って険悪な言い方をすればアウト。

大手のメーカーとの付き合いもありますが、

協調性や雰囲気って、東京と比べて断然関西の方が柔かくて、明るい。

東京は険悪にさせる天才じゃないかと思う事がしばしばあります。

(といっても、東京人間は少ないんでしょうけど)

けして、「関西弁の罪」ではないと思いますよ。

多分、同じ事を標準語で言ったら、確実にもっと嫌な奴です。

http://anond.hatelabo.jp/20091025221649

全く普通じゃない。あなたのキツイ物言いのせいで職場空気は相当険悪なものになっているはずです。私が上司でもその空気を解決するためにあなたに矯正を迫るでしょうね。

http://anond.hatelabo.jp/20091025101147

あっそうですか、俺の言葉の使い方はあなたの「普通」ではありませんでした。以上。おしまい

東洋って大きな括りで出しておいて、現代日本固有って意味で使う人間とまともに会話を成り立たせる自信がない。

意味わからん。誰も日本では「動物に配慮する発想自体がない」なんて言ってないぞ。

そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。それも事実ではないけど。

むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。

定着してない?たとえば「生類憐みの令」が完全にそのまま続いたかどうか、というなら否だろう。ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。

西洋的発想に対抗する形で提示された東洋的発想というからには、ヨーロッパに比べて動物福祉の実践が小さかったことを示さないといけないので、「生類憐みの令などがパーフェクトに定着したわけではない」というのは反証として不十分。

もっとも、東洋で君が行ったように、君が西洋という言葉を極めて操作的に定義しているなら、比較対象は歴史ヨーロッパ一般ではなくなるけど、そこまで察してくれと言われても、困る。

俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。

横から入ってきたって、それ以前からの議論の文脈を無視されると困る。

というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。

あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を

牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。

ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。

と切り捨てて、一方で独善菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。

何がブーメランなのかわからない。

とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。

どっちも等価であるっていうメタな視点を取れば上位に立てるっていう考え方こそ独善でしょ。

「どっちも等価」という”あなた”の主張を擁護しなければならない。

上位から裁定できる超越的な神の座から語ってるつもりだった?

それこそブーメランだよ。

ついでにいうと、実践的には自分も「食べることに感謝してる」人にいちいち文句つけて回らないよ。

自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。

ちなみに「どっちも主観」なんていう卑怯な高みに立った物言いはできるだけ使わないようにしている、つもり。

http://anond.hatelabo.jp/20091025130828

あれを読んで日本馬鹿にされていると感じるということは、

そこで批判の対象となっているものごとこそ日本本質だと考えているのだろうか?

あるいは「世界で一番良い国は日本」だから何一つ変える必要がないというのだろうか?

私も日本が大好きだが、「世界で一番良い国は日本」だなんてよく言えるものだと思う。

客観的にみてあらゆる面においてもっとも優れているわけではないのは、国際的な指標でもみてみれば明らかなことだし、

主観的にそう思えるのかも、世界日本以外のすべての国に住んだことがあるわけではないから分からない。

私も海外生活はそれなりに経験したが、すばらしい部分はもちろんあったし、生活は楽しかった。

どこへ行っても、日本が見習うべきと感じる部分はある。

その反面、最終的に帰るべきところは一つだという思いも深まったが、

それは別に日本世界に誇ることのできる偉大な国だからなのではなくて、

私のたった一つのふるさとだから、というだけのことだったと思う。

「器用で真面目な国民」や「平和文化のすばらしさ」が日本の誇るべきものであるとしても、

それは、日本職場の悪しき労働慣行と何か関係があるのだろうか。

自分の国に誇りを持つということは、古き悪しき部分まで盲目的に愛さないといけないということなのだろうか。

よりよい方向に変えていくことの方がよっぽど面倒で、愛が必要だと思う。

日本から出て行けばいい」だとか、最近のこういう物言いにはいい加減もううんざりしてきている。

人は皆、基本的にはよりよい社会になってほしいと願っている。

よりよい日本のかたちがどのようなものであるのか、そしてそこにはどうやって到達できるのかについて、

意見が分かれるのは当然で、「いやなら出て行け」ですむ話ではない。

だいたい例のブログのお方はすでに日本から出て行っているのであるし、

あとに残してきた人たちが本当にどうでもよかったら、ああやって書き続けることはしないであろう。

2009-10-21

千葉市OB寄付して!財政再建市長要請

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091021-00000498-yom-soci

千葉市ですら財政難かー。

しかし

熊谷市長は「寄付の金額にはこだわらない。協力の姿勢をまず示してほしい」と訴えている。

なんで上から目線なんだ?ヤクザ物言いと変わらない気がするが…。

http://anond.hatelabo.jp/20091020232146

本当においしいと思うなら、役割を交換すれば良いのではないでしょうか。

ま っ た く そ の 通 り で す 。

「積極的に育児に参加」と自負するなら

たまには、奥さんを365日子ども2人と元増田3人分の面倒を見る家事から解放してあげてほしいです。

交換を実行してから、初めてどっちがおいしいか同じだったか大声で言えるんじゃないでしょうか。

実行しない・できない段階で「自分仕事が特においしいと思わない」と言いはるの

相手の仕事を軽くみた想像力と思いやりに欠けた物言いです。

一緒に仕事したくないタイプですね。

私が外に子供を遊びに1人で連れて行くのは妻が「今日は家でこれをやりたい」と言ったときに、それを集中してできるようにする時に限っています。

念のため聞くと、奥さんの「やりたい事」ってもちろん趣味とか将来を考えての勉強とかそういう「やりたい事」ですよね?

まさか「衣替え」とか「幼稚園の手提げ袋作り」とか「家計簿の整理」とかじゃないですよね?

つまり「子供をつれて外に出る=晴れ舞台」的な発想があるということで、軽くショックでした。

この文章を、奥さんは自分の分担より元増田の分担が「おいしい」(いろんなニュアンスがありますが、育児の簡単で楽しいところだけやって、「育児してる」つもりだといった気持ちになる)と感じているらしいと気づいたんだなあと嬉しく読んだんですが

この後に及んで元増田さんが「自分は!」「そうは思いません」と頑固に繰り返すのにはがっくりしました。

ほんとに奥さんに同情します。。

http://anond.hatelabo.jp/20091017110009

何日か前にこのエントリを書いた。元増田と言うのだろうか?

ブクマコメで温かいお言葉をたくさんいただいてしまった。大変ありがたい。

優しいのは私の周りにいる人達だけじゃなくて、多分世の中には優しい人が大勢いるんだろうと思う。あんまり優しい人が多いものだから、私はちょっと世の中をナメてしまいかねない。そんな生やさしいもんじゃねえぞと言ってくださっても構わない。

色々言っていただいたので、軽く追記しようと思う。

まず、自分について把握していること。

重症軽症という言葉を使ってしまったが、これはいわゆるトランスセクシュアルトランスジェンダーと呼ばれるもので、前者がいわゆる性同一性障害の中核群、後者は肉体を変えたいとまでは思わないが性別違和があるというものである。ともに性同一性障害として認知されており、私もこの後者の部類であるものと自分では思っている。

とは言え、広く一般のトランスジェンダーに対し「覚悟がない」だとか「肉体の性別で生きていくという選択肢もあるんじゃないの?」などと言う気は全くない。今回ぼやいているのはあくまでも私個人の問題だ。あくまでも私が、私の中にある不安のために、私を宥めてみたり鼓舞してみたりしようとしているだけだ。以降も、そういう文脈と思っていただきたい。

考えていたこと。

前回のエントリ

この辺りの「どっちでもいいよ」感というのが、非常に微妙なところで、批難されるに値するところだろう。

と書いた部分が、どうも人目に止まるものだったようだ。実は、指摘を受けてぎくりとした。

この文章自体は、実のところ何の気なしに書いた。ただどうも色々露呈してしまったらしい。つまり私は、そもそも心のどこかで、「どっちかであるべき」と思ってしまっているのである。

自然摂理とかその手のものを持ち出すつもりはなく、それは一種の「しめし」の問題だ。

つまりこういうことである。「特殊」な人間がそれを白日の下にさらけ出して生きるなら、それ相応の、格好よく言えば「覚悟」のようなものを示すべきなのではないか、それが大人としての礼節であり責任というものではないのか。そして実際そのくらいでなければ、世の中渡っていけないんじゃないの、という。

以前友人の一人が、私がこのような人間であることを知らないままに率直さをもって、このように言ったことがある。「オナベって、美人じゃないと説得力ないよね」。正直に言うが、私は納得しさえしたのだ。このように思っている人は大勢いるに違いないのだろう、という点において。

私たち(私は性同一性障害というものになにか帰属意識を持っているわけではないが、こう言う)はどう言い繕っても特殊である。特殊な人間は多分、普通よりもいろんなものを持っていなければならない。嫌悪されないだけの人格や、社会から不要と見なされないための能力軽蔑したがる人につけいられないためには隙(醜さもその一つだ)があってはならず、見当違いな憐憫を浴びないためには生まれ育ちが不幸でない方がよい。あまりにも乱暴な物言いと呆れられるかもしれないけれど、それが実際のところなんじゃないのと思っている。

だから常に毅然としていなければならない。物事をよく弁え、その上で覚悟を持ってこの生き方を選択したのだと言うことができなければならない。不快だと顔をしかめられても、だけど仕方がないじゃないですかと言えるだけの、こちら側から示せるもの。それがつまり「しめし」と言ったことの意味だ。

ちょっと格好をつけ過ぎたので恥ずかしい。繰り返すがこんなこと、他人に押しつけるつもりは毛頭ない。そもそもいつでもこんなことを考えているわけじゃなくて、冒頭にも言ったように、「世の中結構なんとかなっちゃうもんでしょう」くらいのつもりで日々生きている。

けれど多分心底には、このような物事の捉え方があるのだと思う。だから前回のエントリで「批難されるに値する」と書いた。

そして、けれど、多分本当のところは、こういう考え方がちょっとおかしいんだということは、自分でも薄々分かっている。前段落で書いたことのうち、まだしも尤もらしいのは「覚悟を持って選択した」あたりくらいのものだ。それ以外はクソみたいな「べき」論だ。

考えてみること。

本当は、「どっちでもいいよ」と言ってしまいたい。どっちでもいいんだけど、どっちかと言ったら男として生きたいと思っていて、どちらを選ぶかは自分勝手だから勝手にするんだよ、何と引き替えるつもりもなければ何の努力も払うことなしに、当たり前みたいな顔でそうするんだ、と、そういう風に言ってのけられるようになりたい。

私は、そうする権利を持っていないつもりでいる。心のどこかで、それは不当に失ったものだと思ってさえいる。

だけど多分ここに書いたようなことは全部、何もかも、自分の一人相撲でしかないんだろう。規定しているのは自分自身で、だから必要なものがあるとすれば、それは「自分で選んで、自分で決めるんだ」という覚悟だけだろう。それがありさえすればきっと、「どっちでもいいよ」と言い切ることもできるようになるんだと思う。

長々しい愚痴に対してのご静聴、ありがとうございました。

追記

そういえばここに至るまで、私が感じていると主張するところの「性別違和」や「どっちでもいいや」感の実態というものに触れていなかった、と思い出したのだけれど、それはここで問題にしたいことではない気がするのでやっぱり書かない。あまりにも長くなってしまうこともあるし。

性同一性障害の人はネット上にたくさんいて、私よりも心情吐露に優れた人もすぐ見つかるだろうと思うので、そちらをあたって「こんなようなものなのかあ」と読んでいただければ、それでいいかと思う。

2009-10-19

彼女に『馬鹿を見下すのはやめた方がいい』という趣旨のことを言われた。もう少し柔らかい物言いではあったが。

2009-10-18

【ぽっぽの戯言】他人の言葉を使って何かを批判する卑怯な行為

 

 

やあ、みなさん。

友愛してますか?

 

しかし亀ちゃん入れちゃったのは失敗だったかな。。。

妻と直人君に毎晩怒られてますorz

 

さて本題に。

 

 

何か批判したい対象があり、それを自分言葉ではなく「人の言葉」を使って安全な位置から批判するまなめメソッドと呼ばれる恐ろしいテクニックがネットには存在する。あまりにも恐ろしいので友愛指数が高い方は閲覧を控えてください。

 

さっそく実例を。

ハッシュタグ「au2009」競合問題に見るKDDI広報の対応の不手際

http://twitter.g.hatena.ne.jp/maname/20091017/1255703245

(URLtwitterが含まれてたらリンクにならない仕様なので国民の皆様にはご迷惑をおかけします)

このページの作成者であるmanameという人物はKDDIの行為を批判したかったのだろう。

そこでtwitter上の他人の発言を編集することによって、

twitterユーザーKDDIフルボッコ!!!!

という印象を閲覧者に与えようとした。

  

 

しかしあまりに稚拙ハッシュタグ認識とお下品な物言いにより、KDDI批判派が逆にバッシングされる流れに。

 

特にその中でもk_taimaniaというtwitterユーザーの発言を大量に掲載していたために、この人にバッシングが集中してしまった。結果アカウントプライベートにしてブログコメントも閉じてしまった。

 

manameは安全な所からバリアー張ってKDDIを批判している。

人の発言を使ってKDDIを批判している。

 

これは匿名で何かを批判する行為と同じ。 

自分が批判されないように小細工しておいて、何かをフルボッコにする。

現代人が適法の範囲内で行いえる最低の行為の一つである。

友愛的行為の最たるものであり、私の妻が最も嫌う行為の一つである。

 

匿名2ch匿名増田もmanameも最低だ!

みんな滅びろ!

友愛マンセー

 

 

 

ぽっぽ

2009-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20091017013059

わけがわからないなwww

元増田の文章の中で、「彼女」は非常に印象的に描写されている。

だからどうした? じゃあたとえば、印象を残さないように描写すればいいとでも?

この文章の中の「彼女」は美しい。まるで文学作品の主人公が恋する女性のように。でも「彼女」は本当はそんなに美しくないかもしれないし、

描写された「彼女」の美しさは、ひとしきり泣いた後にまた進みだすときの「凛とした顔つき」の美しさだ。それは「僕」が感動して見出した美しさなのだから、ほかの人間が「美しくないかもしれない」といっても意味はない。

少なくとも人並みに汚く臭い面を持っているはずだ。にもかかわらず、この文章はそれを感じさせない。

「汚く臭い面を持っている」からといって、それをたやすく他人に見せているようではただのバカだ。他人である「僕」がそれを描写しないのは当たり前である。もちろん長く付き合えば汚い面を垣間見ることもあったろうが、文章の本題に絡むのでなければそれをここで書く必要はない。

作者はペンを置けば自分の生活に戻るが、作者が描かない限り「彼女」の生活は存在しない。そんな印象を受ける文章ではあった。

「作者が描かない『彼女』の生活」が想定できるからこそ、生活の中で「変わりたい」「自分が不甲斐ない」ともがいてそこから立ち直る美しさが存在できる。また「作者が描かない『彼女』の生活」が想定できるからこそ、それとは違う性質を持つ「僕」と「彼女」の関係が際立った印象を生むのだ。それらを感じないのに「非常に印象的に描写されている」だの「この文章の中の『彼女』は美しい」だのとなぜ言っていたのか。なーんにも考えずに言っているのかね?

そのことが、元増田が「彼女」の人間性を無視しているように感じさせるんだろう。

でもそれは元増田が「彼女」の人間性と向き合っていないというよりは、単に自己陶酔的な人間だというだけのことだろう。

要は「存在するはずの汚い面を描かないのなら、それは人間性を無視することだ」「対象の私的な生活をリアルに描けないのなら、それは自己陶酔だ」と言っているわけだが、そんな物言いは「人間性」を「汚く臭い面」からしか感じることができず(くだらない話をしたりテレビを見たりゲームをしたりする「人間性」はないのかよ)、人間関係に「私生活まで把握するような理解」か「自己陶酔」の2択しか設定できないからこそ出てくるのだ。つまり「人間性」と「人間関係」の定義が異様なのである。全くもって理解しがたい。

【追記】あ、消しやがった。http://anond.hatelabo.jp/20091016211552のツリーの中にはまだいるんだけど。

2009-10-11

現実をよく見ろ

http://anond.hatelabo.jp/20091010175158

君は女性に対して失礼な物言いをするからモテないのだ。

痴漢なんて痴漢冤罪に比べれば、たいしたことじゃないから黙って触らせとけ」とか言ってるだろう?

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