2024-09-15

貧乏人のひがみ

 かなり幼い頃、英会話CMをみながら親が、

英語だの英会話だの言うけど、おまえら日本語正しくつかえてっかーって話だよな」

 と言った。

 それをまに受けた。中学になっても「日本語を正しく使えないくせになにが英語じゃ」と、まったく勉強せず、三年生のときに、“do” と “be” の意味がわからない自分に気づいた。両親は夏目漱石の『こころ』すら読んだことがないらしい。

いじめ」という言葉が広まるまえに、わたしはいじめられていた、らしい。わたしはその、嫌がらせをしてくる奴らのことを、友達だと思っていた。つらくても楽しい気持ちはずっと保っていた。でも友達たちといて、仲間に入れてくれることはなかったから、親に話すのは「〇〇くんが仲間に入れてくれなかった」「〇〇くんに殴られた」「〇〇くんに無視されてる」しかなかった。

 親はそんなわたしのことを見てなのか、

「おまえは耐えててえらいよ。〈憎まれっ子世に憚る〉っていうでしょう。きっとおまえは凄いおとこになるよ」

 と言った。そのことを、一年前に入院した病院出会った、統合失調症父親よりも年齢が、一回り上の男性に話した。男性は、

いじめられてるーって、親がなーんにも対処しないで、子どもを〈憎まれっ子〉って言えちゃうのは、おかしいよなあ。おれはそれは、ぜったいにおかしいとおもう」

 と言った。

 両親はよく、我が家のことを話すとき枕詞のように「うちは貧乏から」と付ける。わたしは家が貧乏だと感じたことは、一度たりともない。

 お寿司が食べたい、とそうせがむわたしをみてか、スーパーで安い刺し身を買ってきて、酢飯を作り、母親と一緒にお寿司を作っていた。我が家ではそれを〈貧乏寿司〉と言っていた。〈貧乏寿司〉には、いくつか外れがある。中にとんでもない量のわさびを入れているのだ。こいつに引っかかったら、顔をしかめて「水、水!」と叫ぶしかない。いや、記憶によると、そう叫ぶことすらできなかった。数年後、父親マイホームを建てた。わたしはそこで「ねえ、また〈貧乏寿司〉がたべたい」と言った。

 中学にあがって、担任教師との相性が頗るわるかった。というのもわたしが捨てた、英語担当であったし、なんにせよマークされていた。無視されたり、授業中に〈できない生徒〉として吊し上げられたり。

 しょうじき、イヤミ先生だなあ、としか思っていなかった。同じくマークされてる友達同士で、提出物にその先生似顔絵を描いて提出したり、授業中に顔を見合わせて、いっせーので突っ伏して、終わるまで顔を上げなかったりして楽しんでいた。

 担任教師について親に聞かれると、その、嫌だったことをよく喋った。楽しかたことが思い浮かばなかったからだ。

 一年も終わりになるころ、親が、いまさら担任教師について直訴してくる、だのなんだの言っていた。わたしお小遣いで手に入れたゲームをやるのに精一杯だったから、軽く流しておいた。それでも聞いてくる。「なにされたの?」「なにがいやだったの?」「つらかった?」などと。いらだちが高まってくると、アタマが熱くなった。わたしは涙を流していた。なんの涙かは知らなかったけど、親はきっと、わたしがつらかったから、こうして涙を流しているのだろう、と、思うのだろう、と考えられたから、声を大きくしてワーンワーンと泣いた。親は

「これまでつらかったでしょうに。よしよし。つらかったらかあちゃんことも、頼っていいんだよお。パパだっている」

 と言った。わたしは、正解だったんだなあ、と思った。

 母親は、校長学年主任、その担任教師と話をしてきたらしい。当時はその内容を知らなかったが、どうやら校長とは、学年が上がった際に、その担任教師わたしを同じクラスにしない事を、確約していたらしい。わたしの大好きな人は、その担任教師クラスになった。

 卒業式の数日前、クラス先生たちが演説のような、羽ばたくキミたちへ、的な話をした。

 その担任教師は、

英語というのは、道具です。ええ?! と思われるかもしれません。が、あなたがたが学んできたものは、実際に使われている〈言葉〉です。私が話している、あなたがたが話している日本語と、同じです。思考ツールなのです」

 と話し、先生がたのお話のなかで、もっとも、心に残った。

 YouTubeで、高級住宅街についての動画を見た。コメント欄には、両親みたいなのがウジャウジャいる。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん