コンプレックスとは私的なもので、客観的視点には乏しい。つまり私が持つ見た目のコンプレックスを解消するには、私が自分の見た目を今より肯定できれば良い。私が良ければそれで良くて、数値化による数値の変化や他人からの評価は、私に不必要であれば不必要になる。
ただ私の見た目のコンプレックスと他者(=赤の他人)との交流との間には、無視できない関係がある。私は見た目のコンプレックスから他人との接触を控え、嫌ってきた節がある。(節があるとしたのは、恥ずかしながら最近になって自らの見た目や見た目に関するコンプレックスの存在を明確に意識し始めたため、過去の行為や経験の因果の総括を完了させられておらず、むやみに断定するのにも不安があるため。)(そもそも完了の日を迎えるのかすら分からない問題もあるが。)
なので、これから他者と交流した結果得た他者からの評価によって、これまでの見た目に関する自己認識が崩れた場合、もしかするとそれが自己肯定感に繋がり、コンプレックスの解消に近づく可能性がある。
しかしそれはギャンブルのようなものでもある。賭けてまで自己肯定感を高めて他者との接触回数を増やしたい気持ちは今のところない。交流相手の性格や知識、嗜好、相手の前に立った私に抱く総合的な印象、その日の気分などによって私に向けられる言葉が変わるのだから、肯定されたい人間がそのルーレットを怖がるのは不思議じゃないだろう。
数打つ勇気も正直ない。他者に自分を分かってもらおうとして会話するのはよろしくないと思っている。分かってもらおうとする前提で会話をして得られる承認なんて形式的だし、そもそも分かってもらう自信がないし、大体そこまでして分かってもらうのは厚かましいから嫌だし。またそういう会話における技術を身につける努力をする気も起きない。そもそも他者には不快になってもらいたくない。特に私に対した他者には、私の自己肯定感・精神的健康のためにも余計に不快になってもらいたくない気持ちが強い。相手を不快にさせる前に目の前からいなくなった方が、私にとっても相手にとっても望ましい。我ながら書いてて胸が苦しいな。
ここから導かれる結論は何だろう。積極的な他者との接触は結局図れないので、これまでにない別の方法、例えばインターネット上で交流……と書こうとしたがこれも怖い、むしろこちらのが怖い。見た目が見えない中で培った関係性を、見た目が見える場に持ち込んだとき生じかねない不和、これは無視できない。もし仮にある程度良好な関係を構築したのち、「どんな見た目だろうな〜……あ、ああ……そうか……」と、対面前に意図せず仕方なく上がったハードルを見た目によって下回るマイナスインパクトは、私が最も避けたい事案である。見た目によるマイナスインパクトは本末転倒、自己肯定感を得るという本来の目的を、無視は疎か損ねる結果なので、決してあってはならない。
ああひどい。結局ふりだしに戻るようだ時間を返せ助けてくれ。