2021-04-23

[] #93-8「栄光の懸け箸」

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この授業での様子は市内の新聞でも取り上げられた。

俺はそのことを、行きつけの喫茶店で知った。

あの時の会話を弟が聞いていたのかと気づいたのも、この時になってからだった。

「ハッ、時代だなあ」

時代、ですか? むしろ、こういうのを厳しく指導しないのが現代だと思うんですが」

喫茶店マスターと、常連客のタケモトさんも丁度その話題で盛り上がっていた。

「いやいや、オレから言わせりゃな、しっかり指導してこなかった時の“ツケ”を払わされてるのが今の若い世代なんだよ」

「と、言いますと?」

「箸の持ち方はな、現代社会の最前線にいる大人たち9割が従っていれば“環境矯正”してくれるんだよ」

環境矯正、ですか」

「箸の持ち方に限ったことじゃなく、常識とかマナー全般にいえることだがな。それを守ってる奴らが多くいれば、大抵の奴らは自分も守らなければって意識する」

「なるほど、行動の規範を形作る。それが“環境矯正”ですか。逆に言えば、ルールを守らない人間が多くいれば、守ろうとする人間も減ると」

「なのに、箸の持ち方を気にするなだの指摘するべきではないだの。そうやって表面的に意識だけ変えようとしても、ふさわしい持ち方自体は変わらんわけよ」

「まあ、そうですね。その、“ふさわしさ”を求められる場面ってのも依然ありますし」

「だから箸は正しく持てるに越したことはないんだよ。なのに、やらなくてもいいって環境蔓延させて、結局は必要から授業でみっちり教えるハメになってる」

ちゃんと持てた方がいいって思わせる環境が出来ていれば、わざわざ授業で教えなくてもよかった、と。だから今の若い世代は“ツケ”を払わされてるってわけですね」

しかも、しっかり指導されてこなかった世代が、今は指導する立場になってるわけだから、その“ツケ”は利子つきだぜ」

ここでも箸の持ち方について、みんな一家言あるらしかった。

話の発端になった俺がいうのもなんだが、箸一つでよくここまで話を広げられるなと感心する。

「つまり、アレだ。オレがタバコ喫煙所しか吸わない、というか吸えないというべきかもしれんが、それも“環境矯正”があるからだよな」

「えー、喫煙と箸の持ち方を同列にしますか?」

健康被害っていう大義名分があるだけで、マナーって枠組みで見たら同じだって。それを嫌に思う奴がいるから、矯正するための環境ができんだろ」

「私も煙は吸いますが、さすがにそれは強弁が過ぎませんか」

分煙を徹底して、周りに迷惑をかけていない喫煙だって周りには忌避されるだろ。箸をちゃんと持ててないやつだって周りには迷惑をかけてないが、同じくらい忌避されて然るべきじゃないか

まあ、タケモトさんの場合、箸の持ち方がどうというより、嫌煙家が憎いだけなんだろうけど。

でも、この“ツケ”という視点は、割かし的を射ているような気もした。

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