まず始めに。
さて。
僕はまだ高校生なので、このキャラクターのことを知らなかった。
保毛尾田保毛男、彼は昔、お茶の間を沸かしていた架空の人物だということ。
そして、多くの同性愛者含むLGBTQの心を密かに痛めつけていたということ。
僕の率直な意見は、「フジテレビはなんてことをしてくれたんだ」だった。
確かに今から30年前と言えば、同性愛者らにそう言った「負のイメージ」が付き纏っていた頃だろう。「ホモ」という言葉も、「オカマ」という言葉も、テレビで平然と流れていて笑われていた、そんな時代。
しかし、今やこれらは「蔑称」として扱われ、少しずつ使われなくなっている。
今回の件で問題だったのは、「30年前、『蔑称』で取っていた笑いを、今の時代に地上波で流してしまった」ことなのである。
見た目もそうだ。
彼の姿を見た人なら分かると思うが、あれが「ホモ」なのだと扱われたら、どうだろうか。
僕は中肉中背の何処にでもいるような男だ。言わなければ、ゲイだと疑われることはない。
人間がそうであるように、ゲイだってみんな違う顔であるし、違う喋り方であるし、違う姿をしているのだ。
あのような「『イカニモ』なイメージ」で作り出された見た目に、僕は不快感を覚えてしまった。
さて、僕はこれまで、保毛尾田保毛男に対する自論を述べてきた。
あくまでこれは「ゲイの総論」というわけではなく、僕という人間の一意見である。
エゴサーチを掛けてみれば、保毛尾田保毛男を擁護する声も、沢山見受けられた。
「保毛尾田保毛男は保毛尾田保毛男というキャラクターであるから、同性愛者を差別しているわけではない」
「すぐ差別だと言われて自粛してしまう、これだから日本のテレビはどんどんつまらなくなっていく」
等々。
中でも僕が目を引いたのは、「それなら禿げている人をネタにするのはどうなのか」という意見である。
これは個人的見解であるが、コンプレックス的な部分を「当事者が」自虐的な笑いを取るのは問題ないと思っている。
しかし、そのコンプレックスの当事者ではない人が、当事者であるような立ち振る舞いをして笑いを取るのは、些か問題があるのではないかと考える。
当の本人がやれば、同じような境遇の人が味わった、表面的ではない主観的な意見を表現することができる。
しかし、第三者がやれば、偏った表面的な部分しか理解できていないのだから、ただの独りよがりになってしまう。
実際、保毛尾田保毛男は、あくまで「ホモ疑惑」という設定ではあるものの、偏った意味合いを視聴者に持たせてしまっているのではないか。
今、やっとLGBTQは日本で陽の目を浴び始めている。
今回これらを放送したフジテレビも、LGBTQのイメージカラーである、レインボーのライトアップをしたと聞いている。
少しずつ偏見が無くなりかけていた、そんな時期に、フジテレビは保毛尾田保毛男を登場させてしまった。
もし、テレビで自分のコンプレックスな部分をネタにされた内容が流れたら。貴方はどう思うだろうか。どう感じるだろうか。
保毛尾田保毛男というキャラクターの今回の登場は果たして、問題ではないのか。
保毛尾田保毛男というキャラクターは、見た目やその内面、名前、全てにおいて笑えるものなのか。
差別でとる笑いは本当の笑いなのか。
エゴサーチの使い方間違っている