権力を持ったキモオタほど有害なものはない。自らの価値観を普遍的なものだと盲信し、横暴と言うべき強引さで、世間にその価値観を押し付ける。なまじ権力がある分、世間も疑問をいだきづらい。横柄な暴君がのうのうと権力の椅子に座り続けるのである。
何の話をしているのかというと、ファッションオタクの話である。もっと言ってしまえば、ファッションキモオタの話である。
オシャレを盲信する連中にとって、服装の流行は一年で終わる。そして連中にとって、流行の寿命は服装の寿命だ。つまり連中からすれば、服装の寿命は一年なのである。そして寿命をすぎた服装は――実用性の有無にかかわらず――無価値とみなされる。
もちろん、「一年前の服など絶対着ない」という筋金入りのファッションキモオタは少数派である。また成長期の子どもなど、服を買い替えざるを得ないような例外もあるだろう。しかし冷静に考えてみてほしい。多くの成人が、一年に一度以上は(下着や靴下のような消耗の早い衣類を除いた)服を買っているのではないだろうか。
まだ着られる服だけれど、なんとなく流行遅れな気がして、なんとなく恥ずかしくて、いつの間にか着なくなってしまう。
私たちの社会では、このような現象が頻繁に生じている。これは明らかに異常な事態である。端的に言って、相当キモイ社会である。ごくごく少数のファッションキモオタが、あたかも己の価値観を正統なものとして吹聴し、ファッションに人生を賭けていない人々の精神を不当に追いつめているのである。しかも被害を受けているのは精神だけではない。不必要な出費を強要し、私たちの生活をも逼迫させているのである。
とはいえ、私は決してオシャレしたい人を否定したいわけではない。少数のファッションオタクが、世間の価値観に干渉せず、ただ気ままにおのれの嗜好を満たすのであれば、私はなんとも思わない。そのような人々に対してまで、「キモオタ」という蔑称をぶつけるつもりはない。単に自分の趣味を追求するだけオタクに対しては、なんら「キモイ」と思わないから。
だが自分の趣味を世間へ押し付けてくるのであれば、それは端的に害悪である。しかもファッションキモオタは、自身の価値観を押し付け"ようとしている"のではない。現に圧力をもって押し付けているのだ。現に私たち一般人の価値観を侵食し、精神を追いつめ、生活を蝕んでいるのだ。「キモイ」という罵倒語を以ってもまだ罵倒し足りないほどである。
大抵の服は、五年は着続けられる。もちろん素材や品質や着かたにもよるが、現に私はデニムのシャツなどを五年以上着続けている。冬用の厚手のズボンにいたっては、もう十年以上の付き合いになる。現実問題として、世間が思っているよりも服は長く着られる。世間全体が、ファッションキモオタに毒されているのだ。
私たちは、戦わなければならない。
自分の財布を守るため。
自分の服を守るため。
新品同然の服を一年で見限るばかりか、そんな所業をグローバル・スタンダードであるかのごとく吹聴する。視野の狭い、横暴な、そのうえ権力を持った、有害なキモオタ。連中を社会のスタンダードから引きずりおろすために戦わなければならないのだ。
にもかかわらず、これまで「キモオタ」という言葉で攻撃されてきたのは、むしろ権力のない側だった。彼らはようやく存在を許されるようになったものの、せいぜいネットの限られたコミュニティ内で吠える程度の犬だった。最近ようやく権力に対して噛みつける程度の立場になってきたようだが、あいかわらずネット外への圧力は微弱である。
ファッションキモオタは、自身のキモオタっぷりを棚上げして、権力のないオタクを「キモオタ」として排撃してきた。しかし真にキモオタとして指弾されるべきは、ファッションキモオタである。オシャレを普遍的魅力と盲信し、世間にその価値観を強要する連中である。
私は、横暴で強権的ではないオタクを「キモオタ」とは呼ばない。繰り返すが、ファッションキモオタが自らの価値観を世間へ押し付けるのを止めさえすれば、ファッションは大いに結構である。しかし、オシャレという基準に従わない者を差別する思想をばら撒き続ける限り、私はファッションキモオタという罵倒語を使い続けるつもりである。