メディアクリエイターVS旧村民(?)の話って、
「ブログをあくまでも手段の一つとして扱っているか、ブログにこだわっているか」
みたいなことじゃなくて、他者との向き合い方の違いに思える。
少なくともコミュニケーションの方法が世代間で変わってきた、みたいな世代論で片付ける話ではない。
まず、メディアクリエイターを
「自身の人脈拡大またはマネタイズが最終目的に、その手段としてブログを活用している人」
を定義すると、他者の存在はあくまでも上記目的を満たすためのツールでしかない。
http://www.jimpei.net/entry/aiseki
「相席屋」というロケーションも、そこに登場する女性も、彼らを修飾するための要素の一つでしかなくて、そこにあるのは、仲間を増やすための「ぼく」を中心とした愉快な物語だ。
で、村民を
「はてなというツールに一定の愛着を持ち、自身の情報発信(意思表明)及び他者からの情報・意見共有を目的としている人」
と定義すると、他者の存在はツールの存在意義に等しく、他者からの干渉そのものを目的としているため、かなりウェイトが高い。
「ウィットに富んだ冗談が通じて、適度に大人な話もできる」という村民たちが好きだからここにいるという人たち。
例えば仲の良い友だちとはできるだけ対等な関係でありたいと考えるように、読者にも自身と同等の一発信者であって欲しいと考えるのが村民の特徴だと感じていて、増田というサービスで蠢いている人たちも「どうせ匿名なんだからもっと皆好き勝手に意見言えばいいのに」と思っていて、それはモヒカン族の鉞が親愛に満ちたコミュニケーションだったように、親愛を感じている友人と一緒に踊りたいだけというのが本心にあるのではないかと推測している。そもそも鉞に親愛とか無いけど。
比べると、メディクリの世界が自身を主人公とした楽しいRPGだったのに対して、村民の世界はただ友達がほしいという極めてリアルな嘆きの谷である。
村民の憤りや違和感の源泉はここにあるのではないかと考えていて、仲間ではない自分がアイテム扱いされていることや親愛なる人(ここでは村民)たちがアイテム扱いされていることは、普通に考えれば嫌だし気持ち悪いと思う。
マネタイズや自己啓発のためにブログというツールを活用することについて、それほど批判している人がいないのは、皆なんだかんだ言っても生きていく上でお金が大事だとわかるくらいには大人だからだと思うが、一方で何らかの批判が絶えないのはこういう「他者をアイテム扱いする姿勢」が気持ち悪いし、無礼だと映るからじゃないかと。メディクリからするとそんなつもりはなくても、そういう風に見えてることはもう少し真摯に捉えるべきで、これを「意識低いやつらの同調圧力」や「行動できないやつらの僻み」だとして否定するのであれば、他者をアイテムとしてしか見ていないことを証明することにしかならない。
まあそれが善か悪かは別の話だけど、少なくとも「自分とその仲間、あとアイテム」という世界観に賛同してくれる人は、想像力のないバカとビジネスとはそういうものだと諦観した商売上手な大人だけだ。