表現の自由、こればかりは、僕は何があっても否定される訳にはいかないものだ、と思っている、だって、こう僕が言うことも否定されてしまうから。
それは身近な例で、たとえば人殺しという表現について規制されてしまえば、現実に人殺しが在るのに人殺しという表現は無くなってしまう。
醜いものが在った時、見て見ぬフリし、聞いて聞かぬフリし、考えて考えぬフリし、思って思わぬフリするかの如くである。
どうなるか?人殺しについて学ぶ機会すら規制されてしまう、ということだ。
愚、とは間違いの歴史の集積である。何も無かった空間で人が不利益を被ってきて、そういう失敗を成功によって打ち勝つために育ててきた定義たちだ。
愚、という価値観について人は大いに学べばいいと思う。なのに、人殺し、という重大な愚に対して考える機会を奪ってしまうのか?
考える機会がなければ、人は愚に対して準備ができなくなる。
無知であれば無理解となり、無理解であれば人はどうするかわからない、どうしていいかわからない。
そうすれば、曇った思索の中で殺人を犯してしまうかもしれない、この可能性を少しでも積極的に減らそう、とその目的を果たすために人は愚を定義してきたのだ。
愚を表現し、表現された愚を知り、理解し、学ぶこと。これは果たして愚か?間違いか?
そうは思わない。人が最大限の悲しみを払って血を流し、受け継いできた愚を消そうとすること、これは相当な愚であると思う、人殺しとどちらが程度の酷い愚か、それはまた別に考える機会を設けるとしてもだ。
何であれ、表現の自由は何処までも許された方がいいものだ、と思っている。
でも、表現をするにしても、TPOくらいをわきまえた表現の実現は必要。だって、名誉棄損は名誉棄損だ。
ん?待てよ?
表現の有無、既存の表現を消せ、という話ではないか、規制し有罪となる表現の枠を考えよう、という話か。
だから、だとして、実生活と相関のない架空のものを描いた表現は無罪で、実生活と相関のある表現は時に有罪となるのだ、と思う。
だいたい、実生活を営むのは人だ、だから法は人の不利益に関するものが多いはずだ、人の肉体を傷付けたいだとか、人のお金を盗んだりだとか。
でもまあ、不法投棄、という罪もあるが、これもよく考えれば人が不利益を被る可能性がある。
なら、実生活と関連しない空想上の表現、これは人に不利益をもたらす可能性はあるだろうか。
これはもしかしたら、なかなか難しい問題なのかもしれない、さかんに議論されているのもこのためなのかもしれない。
こればかりはもうどうにもならない。
表現が好きか嫌いか、表現でどれ程好い思いをしたか、嫌な思いをしたか、このあたりに大きく関与してくる。
表現は人に好い影響も嫌な影響も与える。
殺人の不利益を学び、それを起こすまいと考える場合、そのまま殺人を犯す場合。
おそらく前者が好い影響であり、後者が嫌な影響だ。
こういう二つの場合が存在する中で、これをどう評価するか、といった問題は
知らない方がいいことがある、これに対する意見、姿勢へ繋がる。
知らないことは知らないままにしておいた方が幸福だ、間違えない、と考える人、
出来るだけ多くのものを知ろうとした方が幸福を掴める、間違えない、と考える人、これはもう個人差であり、一概にどうこう言えない。
醜い現実に対する姿勢はそれぞれだ、強いられてはいけない(ただ、生きるということに知るということは内包される気はする、そこから更に主観に基づく言及もできそうだが、またの機会だ)。
感情が理解の先に来るものと、理解が感情の先に来るものがあるように思える、前者は易しいこと、後者は難しいこと、とか一般に言う。
ふむふむと納得してから、アッ!と感情が湧いてくるものと、アッ!と声を上げてからそれを理解できるもの。
だいたい、感情が生まれるのはアッ!という間である、理解だとかそういう言葉で説明できるような何某が追い付ける暇はない。
だからだいたいの場合、感情の方が先に来るような気がするのである。
性、性交は前者である。この場合、何故、は感情の後に付けたされるものだ。
何故、そういうものに興奮するの?という問いは愚問だ、性的欲情の理由はあってないようなものだ
(先に架空表現が人に不利益をもたらす可能性についてもあってないようなものだ、と言及したのを思い出しただろうか)。
感情の存在に善悪はあるか。それはわからないが、仮に消さねばならぬ存在が悪の感情があったと仮定して、感情の生成を阻止し切ることは可能か。
だいたい不可能である。感情よりも先に言語、などという記号を脳内に流し通すことができなければ幾ら特定の感情を否定しても、生成を防げない。
セックスは感情である。その感情の生成を先に防ぐことなど到底できない。
だから、こういうセックスは悪だ、とか言ってもその感情の発露を防ぐことはできない、その実行を防ぐことができても。
だから、何とかという否定されるべきセクシャリティがあったとして、その生成を阻止することは不可能である。
人は知るものと知らないものを持っている、もっと言えばその程度は、よく知っているもの、少し知っているもの、半端に知っているもの、あまり知らないもの、など様々だ。
だとして、知らないものは知らない方がいい、のだろうか、そもそも知らないものなど消してしまえ、害悪の元凶だから罪にしてしまえ、なのか。
この辺が、表現の影響の善悪が、知らない方がいいことがある、に対する姿勢に繋がると述べた理由だ。
しかし、これはもう解釈の違いでどうとでもとれてしまうので、唯一の解決策などない。あるとして政治的に言えば民主主義のお家芸多数決だ。
結局、架空表現が有罪か無罪かに対しての答えは、すごく曖昧で、有罪でも無罪でもあり、有罪でも無罪でもない、これに尽きる。
架空表現は、人の実生活からは断絶された存在であるから、それでどれだけ好い思いしたか嫌な思いしたか、その違いによって向けられる認識も変わる(断絶されているものが認識を変えるといった矛盾がこのセンテンスには含まれてしまっているが、他にどうしても説明がつかなかったためこうした稚拙な便宜しか思い付かない)。
レイプされた人(※例えば女)は、「あんな表現(※例えばレイプポルノ)に影響された人(※例えば男)がいけないんだから、あんな表現がいけないんだわ、無くなってしまえ」と言うかもしれないし、
レイプポルノでオナニーする人(※例えば男)は、「自分たちがこういう表現で愉しんでるだけなんだから、誰にも迷惑は掛けない、掛けていない」と言うかもしれない。
しかし、全ての罪、というものには基準、法則性など無い。有罪だから有罪なのであり、無罪だから無罪なのだ、理屈など無い、多数決だ。
これの、どちらが多く存在するか、単にこれが結論だ。
今現在、地球には何億の人が居て、それで男女はそれぞれ幾ら存在して、という話よりもここは僕の話をしよう。
僕は、架空表現により傷付いた人の肩を持ち、「性暴力に繋がる表現はよせ」と主張し、
片や、架空表現により笑顔になる人の肩を持ち、「実生活に関係はない、芸術は芸術だ、表現の自由は確保されてしかるべき」と主張し、
「ならお前は賛成反対どちらだ」と聞かれれば以上のような答え方をしてくるような平和主義者、事なかれ主義者、そして自称隣人愛好家だ。
(胡散臭い隣人愛好家だ、それにしてもなんと胡散臭いことか。ほんとに隣人を愛しているのか、それで?甚だ疑問は残る、大いに疑問は残る、そしれそれらは僕の好奇心を大いに揺さぶる。扨、饒舌が過ぎた。)
超読みにくい。もっと読みやすい文章書いて。