2022-09-12

フェミニズムと「人間の」弱さ

 フールプルーフとかフェイルセーフかいう考え方が浸透し始めてる昨今、人間にはある種の脆弱性存在しているという前提が認められつつあるように思う。

 人間脆弱性は至るところに転がっている。脆弱性とは何だろう? 簡単に言えば、長期的には利益にはならないことを利益だと錯覚し、実行してしまうのが人間脆弱性と言ってもいい。ないしは、明らかに不利益であることを利益だと錯覚して実行したり、ないしは不利益をもたらすであろう行動を、そうと理解しながら確信犯誤用)的に実行したりとか、そういうのが人間脆弱性なんだろうなと思う。

 要は、不利益自覚的しろ無自覚的にしろ行ってしま性質を、この場合には脆弱性と呼んでいいのだと思う。


 本テキストにおいて使用する「フェミニズム」の語彙は、あくまで「男女同権主義」を意味している。性の公平視を意味している。「男性中心的社会において、相対的に損なわれている女性の権利回復および増進志向」を表してはいない。あしからず


 人間には脆弱性がある。自覚的であるにせよないにせよ、不利益を為すという脆弱性である。例えばどんなものだろう。

 例えば、恐らくネット日常的に喧嘩をするのは長期的に不利益を招いている気がする。相手攻撃性を目の当たりにし続け、自身攻撃性を発露し続けることは、攻撃性を意識レベルで固定してしまうからだ。これは人間脆弱性の最たる例である気がする。

 話が脱線するが、僕の好きなゲームに「たいようのしっぽ」というゲームがある。その中でこんな詩が登場する。


その日、こんな夢を見た。

常に攻撃を受けていた。

また、攻撃もした。

憎悪肥大し続ける。

憎み戦うことがすべてと感じた。


悪魔のような存在が現れこの世界破壊する。

それでも戦い続ける。

全てが敵である


憎しみがすべてを覆い尽くした。

自分自身さえも強く憎んだ。

いっさいが気に入らない。

すべてを消し去りたい。

深い闇が心を覆う。


もはや感情はなかった。

永遠に全てを傷つけ、全てを破壊し、何もかもいっさいを燃やしつくす。

そういう存在のものになった。


 攻撃性が日常に定着することのいびつさを端的に表した詩であるように思える。常に攻撃性に曝露され続け、あるいは攻撃性を発露し続けることで意識レベル攻撃性を固着させていく行為はどう考えても長期的に人生いびつにさせるように思われる。

 それでも人間ネットでの喧嘩をやめることができない。彼(女)らはそれが利益行為であると思っているからだ。恐らくこれは人間脆弱性の最たる例であると思われる。


 他にはどんな脆弱性があるだろう。色々ありすぎてこれという代表例を挙げることができない。

 仮に代表的なものを挙げるとすれば、それは人間の「習慣性である

 人間の習慣性は、つまり処理能力効率である。「不必要情報を捨象し、認識と行動を能率化していく」というのが人間に備わった習慣性である。かつて行ったことのある行動を、もう一度行う際には、「慣れ」が生じている。簡単に言えば不必要事柄を省略して、必要事柄のみを行うようになっている。これが、人間の習慣性である

 逆説的なことに、この「能率化(効率化)」を志向する習慣性は、人間不利益をもたらすことがある。

 例えば、ゴミ屋敷に住んでいる人間の例を考えよう。彼(女)は、自身の行動を効率化し能率化し――習慣化することによって忌まわしい状態に至ったのである

 つまりゴミを捨てるという作業コストをできるだけ減らしても、畢竟、自分生命を維持することが可能であることに彼(女)は気付いてしまったのである。「ゴミ捨てなんて無駄な行動……完全に無駄であるとは言えないにせよ、生きていく上で絶対必要とは言えない行動……。こういう行動は、必ずしも必要じゃないから省略しよう。その方が効率的だ」といった具合である

 人は各々の論理立場によって、様々な事柄を省略し、各々の志向性において習慣化していく。あるいは効率化していく。全ては各々の利益のために行われているはずなのに、結果としてそれが不利益をもたらすことはままある。要するに、人間の「利益」に対する意識は概ね長期的な利益に繋がっていないのである人間の習慣性という、生存に関してコアな(バイタルな)性質においてさえ、そのようなエラーはしばしば起こっている。人間根本的な行動規範システムでさえ、時にエラーの温床となるのである


 「人間の理性と人間の行動規範システムのどちらが優れているか?」などという質問を立てても恐らくは無意味だ。その質問に解はない。「人間の行動規範システムである慣性においてしばしばエラーが生じるにせよ、人間の理性はそんなものとは関係なく利益を産出し続ける」などとは決して言えないかである人間の理性と、人間の行動規範システムである慣性――いわば本能――という二者を対置させ、その優劣を量ったとしても、その二者のいずれもエラーを生む温床(脆弱性)になり得るからである。それは歴史と我々の習慣が証明している。

 要は、人間の行動規範システムや理性に「エラー性」を認め、常にそのエラー性への恐怖を持たなければならない、と言いたいだけなのだが、これを空虚な逆説とみなす人間もいると思う。そのような人々が正しいのか、それとも、ここで書かれたことが正しいのか、どちらなのかは、よく分からない。

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