まぁ批判の一部は読めば理解できるし、うまく書けているとは言えないと思う。
個人的には聴覚障害を持つ可愛い女の子が出てくるフィクションとして図書館戦争がある。
「え、出てきたっけ?」と言う人も居るかもしれない。そんなあなたはアニメ視聴者。レインツリーの国がそのキャラから生まれた派生作品だと、ファン以外にはあまり知られていない。
アニメでは色々な事情があったらしく、メインキャラにも関わらず出演シーンが無かった。酷いと思った。
スタッフも出したかったのか、特典アニメとしてその子がメインの話をアニメ化していた。
アニメ映画では1シーンのみ出てくる。
実写版では続編に登場した。時間の都合上1作目には出なかったのか、それとも「ま、今回は良いよね当たるかわかんないし」みたいな感じで出さなかったのか疑問はある。
方針か時代が変わったのか実写でそのキャラクターが登場して、少しホッとした。
スピンオフでは原作とは全く違う形で記者会見を開き、いわゆる「感動ポルノ」で訴えかけ始めたときは、頭をかかえ思わずテレビを消した。
まぁそんな風にしてあまり原作通り動かせてもらえていないキャラクターなのだが、ここで言いたいのは原作の話。
まぁいじめられてる描写が無いというのもある。彼女の周りで色々と問題が起こるというストーリーもあるのだが、彼女を気持ち悪いと思うことは無かった。
聲のヒロインは聖者のように描かれていた。無理に振舞っている部分を見抜かれ気持ち悪いと言われるものの、それぐらいじゃ彼女が聖女であることに変わりは無かった。
図書館戦争の彼女は嫉妬もするし人も避けた。聖者として描かれていなかったし、言いたいこともはっきり言っていた。
巻数を進めるごとに普通の女の子として描かれていたし、ある種それこそ「理想」であるかのような状況だった。
ここまで考えて分かったのは、聲の形のヒロインは健常者が障碍者に対する「こうあってほしくない」がつまったキャラなのではないだろうか、ということだ。
健常者の大半は「明るい障碍者」を好むのだ。ある種、自分の都合だろう。
言いたいことを言わない、遠慮をする、引っ込み思案でいつも申し訳なさそうに、そしてなにもかもを許してしまう。
そういう障碍者は多いだろう。そしてこれは障碍者だけではない。コミュニケーションがとれない人の多くはこうだ。
しかし世間でそういう人が好かれるのは難しい。もしかしたら聲の形が描いたヒロイン像は、こういうことだったのかもしれない。
また先にも書いたが、聲の形にはまともな大人がほとんど居ない。
ヒロインが自分をおしこめていくだけの環境は整っていたし、いじめがどうやっても解決できないだけの状況になったのも大人の責任だ。
しかし実際に、図書館戦争のように理解できる大人が周りに居ること。理解できる人と恋におちることができる状況はありえるだろうか。
もし聲の形の原作者がヒロインを「好きになってもらえるキャラ」として描いたというのなら、それはおかしいと言いたい。
だけど「リアルを描きたかった」と言うなら、ヒロインだけを見ると、もしかしたら現実を描いたのは聲の形だったのかと思う。
(ただ漫画全体を見ると付属要素にフィクションが多い。本当に許せるか?という疑問は残る。加害者と被害者の恋愛ものは時々実写であるので、その辺も考察していきたい)
うん。だからやっぱり好きなキャラクターは図書館戦争の鞠江になっちゃうね。
障碍者には言いたいことを言ってほしい。そういうことが言える環境に居てほしい。
この二人を比べた結果、そういうことを思うのだった。
このことについて、しっかり考えたことがあるだろうか。
害は果たして嫌なものなのだろうか。なにかに障害があるのは事実なのではないか。
龍と耳で出来た「聾」の漢字の何が悪かったのか。
こういう何かと比較して対立構造にしないと作品を評価できないのって何かの病気の一種?
大分前に読んだからうろ覚えだけど、毬江ってそこまで聖者の対極にいるってほどのキャラでもなかったような… 多少ワガママめいたことをいうことはあっても十分善人だった気がする...