はてなキーワード: MS-DOSとは
どこかで言った気もするんですが、秋葉原はどういう方向に向かっていくんだろう、と時々思います。
僕の年齢が2桁にもなっていない頃、あの地は電子部品を売る店しかありませんでした。そもそもまだ大衆にPCが普及しておらず、電化製品というハード、というか主にそのパーツを売る場所だったんですよね。それが齢10歳を越えた辺りで先駆的PC販売がなされるようになってきて(まだMS-DOSとかBASIC言語の時代ね)、やっとこ大手電気店がPCの陳列をはじめだしたという記憶があります。
そして時代は流れて元号が変わって平成になり、だんだんサブカルチャとしてのメディアが生産されるようになって来ました(PCおよび電化製品ハード→ソフトへの転換期)。この時期に既存電気店のような物質(ハード)を売る店ではなく、販売ターゲットをソフトメインに据えたいわゆるPCゲーム店(?)が作られていき、PC美少女ゲーム層を形成しつつ、おりからのエヴァンゲリオンブームにも乗っかったカタチになり、アニメとゲームを融合させたメディアミックスという方向性を作り出すことになります。で、この複数面への展開が期待できるメディアミックスが、その有意浸透性を遺憾なく発揮した結果として今のオタクブームがあるわけですが、ここでの話はそっちへ向かわず(笑)、ハード→ソフト→多種メディアと遷移していった秋葉原電気街はすでに「秋葉原電子街」に様変わりしました。この辺までがオタク面からの認識できる範囲です。オタク視点であればここまでの変化が重要なのであり、本文これ以下の変化はそれほど重要と捉えていない気もします。
しかしながら昨今の秋葉原駅前再開発理念によって、UDXやダイビル等、本来の意味でのITビジネス方面への開発が進みだしました。これによって北神田地域周辺に今まで存在していそうで存在し得なかった「ITの波」といえる新しい方向性が植え込まれることになりました。この新波は既存のアキバ=オタクとは一線を画す(オタクと対をなす単語でよいものが思いつきませんが、ここでは「カタギ」と形容したい)ものであり、あまり交じり合いそうには僕には思えないんですが。どうなんでしょうか。
個人的には今後秋葉原電気街口、広義の北神田周辺地域は今もっている一般的な「電気街」「サブカルの街」「オタク街」という基本構成は今後薄れていくんではないかと思います。電気街→電子街への遷移はもうすでに書いてますがこの変移が行われたことこそ、今後の秋葉原の(方向性の)変革がおきやすいということの裏づけになるのではないかと考えます。結果的にいくつかの変革的ステージ(電気→電子→サブカル)を辿ってこれたということは、今後も柔軟にその形を変形できるということに他ならないのではないかと思うわけです。駅前再開発によりITビジネスを取り入れることに成功した秋葉原は、ITビジネスに限らずそれに付随する他の業種(例えば出張用宿泊施設とか、ランチ外食産業とか)も招き入れたということであり、それらは現在の「アキバ」とはちょっとまた方向性が違います。
相関があまりない物同士を混ぜ合わせるなら、その混合色は薄まっていくでしょう。
今のアキバをオタクの街として楽しめるのは、あと数年程度なのではないでしょうか。
※ 僕個人としては再開発自体に不満はないですし、変革も特別反対する理由も有りません。流れるように流れるべきです。既存層に傾倒するつもりもなく、かといって新風に肩入れするつもりもありません。単なるオブザーバとしての発言ですのでご理解いただけると幸いです。
「パーソナルコンピュータ」の略は日本だとパソコンだけど、アメリカだとPCになる。
そのアメリカでは、IBMが出したIBM-PCが80年代初めに売れたものだから、PCがパーソナルコンピュータの意味だけではなく、IBMのパソコン(あと、大量に生まれたIBM-PCクローン)を意味するようになってしまった。
そしてIBM-PCにつまれていたMS-DOSがWindowsに変わっていく中で、IBMのパソコンだけでなくウインドウズ機全般をPCと呼ぶ慣習が生まれてしまった。
なのでアメリカではマックはPCではない、はPCをウインドウズ機の意味で使う限り当然正しい文章なんだけど、このPCをパソコンと理解してしまった日本では混乱が生じて、アップル精神論じみたことを言う人がでてくるんだよ。
余談だけど
Microsoft Office 2007とか、「改悪」って言われているけど、あれって、自分よりずっと優秀なインターフェースの研究者に超お金かけて「直感的」を実装した結果なんだよね、たぶん。
MSは既存のOfficeユーザーが「直感的」を求める人種かどうかをまず考えるべきだったと思。
あと漢字文化圏の人間は、漢字自体がまず汎用iconなので、それを非汎用iconである『絵』にされるとかえって理解は妨げられ反応も遅くなる、というのが不評の理由でもあると思う。日本人にとっては「印刷」とか「削除」とかいう二文字で十分直感的なのであって、それを絵にされると「え?何この絵。ああ、プリンターの絵か。つーことはこれが印刷のボタンか……糞、使いづれえ」という反応になるのは火を見るより明らかなんだよね。(余談だけど漢字って、偏(へん)とか旁(つくり)とか、階層的な意味合いも持つという意味で非常に機能性の高いiconでもある。個人的には、その辺意識したソフトを中国の人とかが開発してくれると嬉しい。)まあそんな人間を意識してMSはソフト開発してないという意見もあるかもしれないけど、それは日本支社の人間とかが提言しなきゃいけないこと。
「世代間のデジタルデバイド問題」というのは、むしろ「文化間の…」とか「5年差でもう…」みたいな感じに、今後ますます加速するんじゃないかな。たとえば『MS-DOSでしこしこBATファイルをいじってたような人間が、今の携帯のメニューの多さにはウンザリで赤外線通信すら使えない』みたいな。
http://blog.livedoor.jp/natoi/archives/2008-12.html#20081218
プログラミングやり始めたのは、中1の時。
N88BASICから入ったけど、システムの基幹的なところがわからなかったので、中1の冬に応用MS-DOSとか読んでFATの仕組みとか一通り勉強して、中2の春ごろMASMとCでBIOSとかMS-DOSファンクションコール呼び出して遊んでた。中3の頃はBorland C++とかやってたっけなぁ。
でも、自分は中学時代、一切こういう勉強会みたいなのに行く気がしなかった。1996??1998年ぐらいの話だから、一応インターネットはあったんだよな。
「きっとみんなすごい人たちなんだろうなぁ、自分なんか足元にも及ばないだろうし、そこまで専門的な話を聞いてもその知識をどう生かせばいいのかわからないし・・・」って思ってた。
中3の冬あたりでLinuxをさわりはじめて、sambaとかapacheたてて遊んでたりしたけど。やっぱり、これらのソフトのソースコードを読もう、とかいう気にはなれなかったなぁ、なぜだろう。他のすごい人たちが作っているのだから、自分が勉強したりしたら邪魔かなぁ、と思ったんだと思う。
で、東大入学した。(カーネル勉強会に参加したこの中学生も、今から勉強すれば、東大とか、いい大学ふつーに受かるよ。その方が幸せな人生送れるよ。)
なんか、周りのすごい人たちは、ICPCとかいってる。ICPCとかに参加しても、数学が出来ないといい結果出せないしなぁ、数学は才能だからなぁ、足手まといになりたくないなぁ、って思って、参加しなかった。
院に入る。なんかすごい業績あげている先輩がいる。「なんかみんなすごいなぁ。僕も頑張らないといけないのかもしれないけど、この程度の成果じゃどうしようもないよなぁ」って思っていたら、出せるはずの業績も出せず。
今考えてみると、「あの時、あれに注力していれば、今頃トップになれたかも」みたいなのはあったんだよなぁ。JavaScriptでマルチタスクできないかなぁ??、みたいなことを高校の時にやっていたし。「まだ早い早い」って思いすぎたのが、自分の欠点だったのか。今考えてみると、どの人も、頑張っているけど、それほど革新的なことはやっていない気がするんだよなー。だからといって、自分の考えたものが革新的かといわれると、そりゃ、発表する時は革新的だっていって発表するけど、内心大して革新的じゃないって思っているから、やる気がしないんだよなぁ。
無理だよ。ある程度勉強していかないと。
まず、男で教えて君だとウゼーけどちゃんと教えている店員でも、女(オニャノコ)が来たって時点で身構えてるもん。
こっちの中身はほぼ男みたいなもんでも、人の話を殆ど聞く事無く、既製品買ったほうがいいですよ、的な事いいだすよ。最初に。
クロック数とか位相とかの話とか、あとMZ-80使ってました!幼稚園の頃!記憶媒体テープでした!初めて覚えたコマンドはRUNとLOADです!MS-DOSいいですよね!あれ、ご存知ないの?ああそーなんですか。みたいな話までしないと、打ち解けてくれない。というかそれ迄は女に何が分かるんだとバカにした雰囲気でこっちにくる。
この手の店で店員にCECIL McBEEやLUSHレベルのプロダクトインフォメーションサービスを求めても無駄。
反対に店員でも知らないようなレアな話を幾つか集めておいて、ちょっと興味をひきつけると同属意識を持ってくれて凄く楽。
昨日この記事http://anond.hatelabo.jp/20081124193051書いた増田なんだけど、
女が殆どいない分野だと、どうも製品の見た目の良さとか使い勝手の良さを追求しないから。しょうがない。
売り手がこんなの↑ばっかりのうちは、まだまだ無理かもしれないけど、今は女の子でもセルフメイカー増えてきたし、店員の態度も昔より大分良くなってきたよ。もうちょっと待つんだ。ちなみに携帯も昔は黒一色だったのに今はカラフルでしょ。ユーザーが増えるとそんなもんだよ。
昔話をつらつらと書いてみる。僕が子供の頃、コンピューターには夢があった。
今就いているお仕事は、SE(と言う名のIT雑用係)なのだけど、幸か不幸かこの職種に就いてしまったきっかけを考えるに、昔家に置いてあった『FM-7』と言うマイコンピューターがまず1つの大きな要因なのである。
兄貴がかなりのそっち系コンピューターおたくで、まず電子ブロックから始まり、自作でトランジスタラジオ作成、ワンボードマイコンいじりと家の中には常にそれ系の物が置いてあった。行きたかった秋葉原はうちからは遠かったので、同じ県内にそれ系のショップがあって、バスと電車を乗り継ぎ、たまに連れて行ってもらっていた。
その影響か、血筋か、僕もそれなりにそっち系への興味があって、ハンダゴテをもって基盤を触るまではやらなかったものの、子供の時の遊び道具は、もっぱら電子ブロックだった。
ワンボードマイコンの時代が終わり、次にやってきたのが、マイコンピュータブームだった。当時、コンピューターと言えば、NECのPC-8000シリーズが全盛期で、まず買うとすれば選択肢はPC-8801だったのだけど、なぜか兄貴が選んだのは富士通のFM-7だった。その理由は定かでないが、おそらくやりたいゲームがFM-7しか売ってなかったのだと思う。
その当時、家は裕福でなく、どちらかといえば貧乏な部類で、6+6畳くらいのフロアスペースに家族5人で住んでいたのだが、その狭いスペースにマイコンとディスプレイが一角を占有し、かなりな圧迫を強いられていたと思う。おそらく兄貴に対しては、それなりの期待があり、貧乏ながらもそっち方面の出費は優先的に出ていたのだろう。
そんなこんなで、僕も暇なときはFM-7を触っていた。Windowsとか、MS-DOSとか無い時代で、立ち上げるといきなり「BASICモード」と言うものが立ち上がる。それがその当時のパソコンのスタンダードだった。はじめは「信長の野望」とかゲームだけやっていたと思う。ゲームの媒体はテープレコーダー。まず、ゲームをやるのにテープから「ぴーひょろろー」と音を出し、データを全て読み出すのだけど、ロード終了まで1時間くらい掛かる。そこからようやくゲームが始められると言う今ではとても考えられない、壮大な時間が費やされていた。
それに加えて、テープの調子が悪く読み出しが出来ないときなどはロードの最後の最後で失敗し、結局頭からテープを読み出し直し、半日くらいを費やして、結局ゲームができなかったり、色々面倒だった思い出がある。必死だったけど、楽しかった。
もし、ブックマークが付いたら続き書いていきます。
現在の児童のネットでの扱われ方がすこし気になったので、過去を振り返ってみる。曖昧な記憶なのでところどころ間違っているかもしれない。
私が小学生のころはまだネットが普及する前で、パソコン通信が主流だった。MS-DOSでNIFTY-Serveにつないだりしていた。親は仕事の関係かパソコンをどっぷり使い込んでいたようだけど、私はPCにそれほど興味も無く、NIFTY-Serveはゲーム攻略本ぐらいにしか思っていなかった。パソ通は何か関税障壁のようなものがあって平凡な小学生だった私を寄せ付けない雰囲気だったし、当然ROMで一度も書き込んだ事は無い。親の部屋にはマイコンだのアスキーが積まれていたけど、異世界の言語のようでイミフだったし、多分一生こんな世界には行かないのだろうと思っていた。
当時のNIFTY-Serveの大人たちは小学生のユーザーをどのようにみていたのだろう。いまの私はネットでリアル小学生の実在を認識させられることが何度かあるが、当時は配慮されていたのだろうか。当時の議論や会話が小学生もみていることを前提に行われていたかは、まだ私が幼かったこともあり判断できない。当時NIFTY-Serveにいた大人たちが私たちをどう見ていたのかその視線が今頃気になった。邪魔だったのかなあ。空気読めなかったし。
そんな私がいまはバグと納期に追われながら土日にコソコソと職場で増田を書いているのだから因果なものである。
因みに、このあたりは小学生視線からみた”大きいお友達”に通じるところがある。そして"大きいお友達"からみた小学生。オタップルの子供がオタクになるとは限らない。そのとき子供は親に対してどのような視点を投げかけるか。おそらく世間様からの視線よりも微妙なバランスが生じると思う。
マサチューセッツ工科大学教授でコンピュータ・サイエンスの権威であるサスマンは
「ビル・ゲイツなんてコンピュータ・サイエンスになんの貢献もしてないぜ。
コンピュータの本のなかに彼の名前は1行たりとも掲げる必要はないんじゃないかな。
少なくとも、私にとってはそうだ」と言った。
ビルゲイツはこれをチャンスだとにらんだ。
松下幸之助やブリヂストン創業者の石橋正二郎、最近ではマイクロソフトのビル・ゲイツも、特別な考え方を持っていたわけではありません。
大成功を収めた現在から見れば、だれもが考えつくことを世界で最初に、なおかつ想像を絶する斬新な組み合わせで、世に問うただけなのです。
俺「何?」
姉「有名な探偵を祖父に持つMITを15歳で主席卒業した高校生の主人公は、ある時謎の組織に薬を飲まされ小さくなってしまう。しかし魔界からやってきた謎を食べる魔人とともに探偵事務所を開き、事件を解決してゆく主人公。そんな主人公に犯罪者を心臓麻痺で殺すという前代未聞の殺人事件の依頼が!主人公は人形を手にしながら事件を解決しようとするが、現場に残された食べ物につい気をとられてしまうのであった……
そんな主人公の決め台詞は「僕の頭は酢入りだぜ!」次号お楽しみに!」
俺「パクリじゃねーかー!」
俺「なんてマニアックなんだ……」
姉「ウィンドウズ95なんて大騒ぎしたけど、5年前のマッキントッシュにも追いついてないよ! おまけにほら、その画面のダサくてみっともないこと!まともな美的感覚があったら使えたもんじゃない!」
俺「何で突然山岡wwwwwwwwwwww」
姉「MS-DOSほど使いにくいものはないよ!あんなものを使う奴はマゾヒストだね、だからあれはMS-DOSじゃなくて、SM-DOSってんだ!」
俺「山岡自重wwwwwwwwwwww」
姉「というわけなんだが……こいつをどう思う?」
俺「凄く……パクりです……」
家に一人でいると、ふと変なことを考えるじゃないか。
本当に脈絡もなく。
それで考えたんだ。
10年前って何をしていたのかって。
おっと、俺の年齢を詮索するのは無しだ。気にはしないでくれ。匿名日記なんだから。
で、10年前のことを思い出していたんだ。
まぁ今と変わらないことと言えば、PCを弄くっていた。
けど、完全自作の今と違って、GatewayのPCを使っていたなぁ。
10年前なら、1997。
Windows 95は使っていたか。
HDDの一部にMS-DOSとWindows 3.1のパーティションはあったけど、ほとんどWin95に移行していたと思う。
不安定なOSだったなぁ。
一太郎は古いバージョンをDOSで動かしたりしてたような気がする。ver 4だっけ?
けど、ゲームの移行は早かったなぁ。みんなすぐにWin95に行った気がする。
そういや、エロゲーも遊んだ。
さすがに思い出せない。
とりあえず、alice soft と elf なら俺が遊んだの出してただろう。
おおお、96年末に鬼畜王ランスとこの世の果てで恋を唄う少女YU-NOが出ているじゃないか!
当時お世話になったなぁ。
懐かしいので調べて回ると、アリスソフト アーカイブズというサイトを見つけ、鬼畜王が現在配布フリーだと知る。
で、まぁしばらく悪戦苦闘してなんとか、イメージを入手、XP上で鬼畜王を起動させることに成功した。
懐かしい。若返った気分。
(いや、だから年齢詮索するなって)
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しばらく遊んでみた。
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なんていうか、あんまりエロくない。
そういや当時、同級生とか闘神都市とか見ると、まぁ興奮するけどいまいち感があった。
色数でこんなに違うんだってCD-ROMの偉大さをたたえていた気がする。
当時で5年前の差。
その後音声が付いたりとしばらくは遊んでいたけど、ここ数年はさっぱりご無沙汰。
日進月歩のドッグイヤーより早いエロの世界で、このメディアはどう発達しているのだろうか。
とも思ったけど、妻帯者の身で買うのは流石に憚られるので止めようと思う、深夜の独り言。
ふとはてブを見たら、前に仕事をしていた小さな会社の社長が、別の大きな会社の取締役になっていて、小さな会社と業務提携をする発表会の記事が載っていた。微妙に5Users。
ああ、あんな頃もあったな、と。
中学に入ったときにPC-9801VXを入手。高校時代にMS-DOSを操作するいわゆるパソコンおたくとなり、大学時代にLinux, FreeBSDの薫陶を受けた。
そして、大学出るところで怪しげな個人事業主に騙されてベンチャー企業で偽装請負、最初は18万の給料だったか。
そこそこ頑張っていると、やがてそのベンチャーの社長に声をかけていただき、その個人事業主と訣別してベンチャーに入社。気が付くと、ある大手のお客様に納品するサブシステムのリーダーを22の時にやっていた。
だが、開発のいろはを何もしらないペーペーだ。基本設計も詳細設計もぼろぼろというかやっていないような酷い出来で、正常系の1本も通るか怪しいプログラムをお客様に持っていって、ただ一言「動かねーじゃねーか。」と言われて6徹、そこからなんとか作り上げた体力と精神力やら何やらよくわからないものを買われたのか、日本で屈指と言われる大会社の事業部長から、蒼くぼーっと幻想的な雰囲気のバーで「うちに来て働かないか」と1:1で引きぬきをかけられたのを、あっさりと断ったところまでは良かったな。
まるでバブルのような、というか真正のネットバブルだったわけだが、きらめく怪しげな話の間を飛びまわった。異常系がまともにできていない大手小売業者向けのプロモーションシステム、お客様の要件をないがしろにして作り上げた画像配信サイト。
しかし、序盤の奇跡的な飛躍で力を見誤った自分も会社も、徐々に、不可逆的に傾いていった。
そして、度重なる失敗に組織から見放された自分は会社を抜け、25の時にいわゆる中堅ソフト屋に転職した。
ソフト屋にいたおかげで、基本設計書も詳細設計書も書けるようになった。もうぐちゃぐちゃなシステムは書かない自信はある。
だが、新技術は何でも吸収してきた自分が、その後に出てきたRubyやAjaxには、もう付いていくことができない。
今では、ごくごくありがちなオープン系システムのしがない保守要員だ。
ブラウザの上には、きらめいていたあの頃の面影を残す彼がいた。
そこには、確かにきらめいていた自分の残滓もまた投影されていて、そんな彼をブックマークする気にはなれなかった。
それでも、彼の名前を時々思い出しては、Googleに掛けてしまう自分に嫌悪する。
今はてなダイアラーをしているということは、まだ残滓にしがみついてしまおうとしている自分がいるんだろうな。そんなもうすぐ30歳。
NHKアーカイブス(番組ではなく、NHK各放送局にある過去の番組を見られる施設の方)では、様々な番組を無料で見ることができます。その中から、特に技術者向け(特にソフトウェア技術者)の番組を紹介します。
NHKは何を伝えてきたか NHKスペシャル 放送番組全記録一覧+番組公開ライブラリーリスト
パチンコ店の歴史や仕組みがよくわかります。サーバコンピュータにどんな機種をつかっているかは分かりませんでした。筐体は見たのですが、聞いたこともない会社のものでした(SGIとかでもなかったです)。大きさは一般的なパソコン並みでしょうか。OSはMS-DOSかな?
また、パチンコの制御プログラムのソースコードが写る場面がありますが、アセンブラで書いているようです。ICチップに書き込んでテスト打ちをしているそうなので、当たり前といえば当たり前かもしれません。最も放送されたのは12年前ですから今はCくらい使えるようになっているかもしれませんが。
NHKは何を伝えてきたか NHKスペシャル 放送番組全記録一覧+番組公開ライブラリーリスト
未視聴ですが、おもしろそうです。今のところ、新・電子立国シリーズで見られるのはこの2作品だけのようです。電子立国シリーズは全部見られるようですが。
生徒にグループを作らせて、その中で試行錯誤しながら、おもしろいゲームを作っていくというストーリー。提案する→問題が出る→解決する→問題が出るというスタイルで、分かりやすくて構成がうまいなと感じました。
安藤百福追悼として。
以下は私の趣味ですが
15年前の若者(現在30??40代)はこんなデートをしていたのでしょうか?ジェネレーションギャップを埋めるためにもいまどきの若者にこれを見せましょう。もちろんこの番組だけで当時の若者を語ってしまうのは危険ですが、話のネタ程度にはなるでしょう。
未視聴なので特にコメントなし。なぜかYOU関係は充実しています。
なお、視聴するときの注意点をいくつか