はてなキーワード: ラテン語とは
個人的には、感動して泣いたんだけどさ。
どうも、暗い気持ちになる。
主人公は冴えないように見えるが、よく考えると凄い設定だし、通っている学校も間違いなく偏差値の高いブランド校だ。
出てくる家族の家柄も凄いということだし。
昨日、ポッドキャストを聞いたんだけど、細田監督は、「普通の人を描きたかった(英雄は好きになれない)」みたいなことを言っていたけど、彼らは、全然普通じゃないと思うんだが。彼自身エリートだから、普通の人の気持ちが分からないのかも知れないけど。
Wikipediaによれば、
なお、エリートはもともとラテン語で「神に選ばれた者」のことを指す。神に選ばれるというのはキリストに代表されるように、他人のために死ぬ用意ができているということであり、結局、「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」、を意味する。したがって、ラテン語でのエリートとは「人」について使う言葉であって、地位とか階級に使う言葉ではない。
らしいので、それはそれで描く意義はあると思う。
ただ、現実のエリートって、自分のことや自分の一族のことしか考えていないように見える。
知識人と呼ばれている人達も、自分の立身出世しか考えていないように見える。
はてなで話題になるITベンチャー関係者にしても、社会を良くしよう!というよりも、あるのは損得感情ばかりなり、ではないか?大体、シリコンバレーの自称エリート達の発言は(彼らの言う)下々の人間の感情を考えているとはとても思えない。
エリートがちゃんと国や社会のこと(つまり我々の社会のこと)を考えてくれるなら、我々のような下賎の者は、ヘラヘラ生きていける。でも、現実の彼らは世界を救う気なんてないんだろうし、立身出世と自己保身しか考えていないだろう。全く、戦後民主主義教育の成果は素晴らしいものだ。だから、これからもサイレントテロは進んでいくし、少子化も進んでいくのだろう。第三のビールが売れ、パチンコのおかげで子供が焼き殺される訳だ。死にたくなるほど感受性はなんてものはないが、多少、自分が暗鬱な気分になっても仕方が無いような気がしたんだな。
ラテン語にponoという動詞がある。置くという意味だ。これの過去分詞形がposit[um]で,置かれたる,という受動的意味が付加される(umは活用語尾)。
日本語における漢語と同様,英語にはラテン語から借用した語がたくさんある。一説によれば45%近くの語彙にラテン語の影響が見られる。positionというのもそのひとつで,「置かれたところ」⇒場所,を示す。
実証主義という言葉がある。客観的に現存するものだけを資料に考えを進めていこうとする立場だ。これの原語が英語のpositivism。置かれたもの=実在を扱うことを示している。たとえば法実証主義 (Legal Positivism) は,道徳や宗教など他の倫理規範を援用せず,条文と慣習・判例のみを用いて法の解釈をおこなう。
近頃ポジティブシンキングという語を聞く。何を意味するか詳らかでないが,おそらくは事実に基礎をおく実証的思考のことを指すものと思われる。
ヨーロッパにはローマ以来の伝統があるから、もともとラテン語の古典を物真似したんだ。シェイクスピアの歴史劇で登場人物が演説しだすと、見てた貴族がラテン語でぶつぶついいだしたんだって。子供の時に勉強したやつを、大人になっても覚えてるんだね。それにヨーロッパの所詮片田舎の英語なんてものはかっこいいんじゃなくて、むしろダサダサの言語だったのさ。
だから、言葉がカッコイイとかじゃなくて、田舎っぺのイギリス人の、さらに落ちこぼれかつニートな連中の子孫が、大昔の真似して権威づけてるだけなんだよ。本当はね。
日本に「演説」という言葉が輸入されたのは明治になってから。speechってなにかが分らなかった。似たようなもので、坊さんが道端で仏教の教えを説いていくのに似てるなあって、その延長線で理解されたりしたくらい。それくらい、speechってなにか分からなかった。それくらい、文化の違うものだから、アメリカのほうはゲタをはかせてもらってるわけ。日本のほうは履けそうな下駄がない。
ま、でも、もうそろそろ名演説が出てきてもよさそうなものだけどね。小泉さんの郵政解散演説くらいではなあ。政治家はもっと演説が上手にならなきゃいけないね。
http://anond.hatelabo.jp/20081205045304
前のをかいたらBrittyさんが実践編として文法書と辞書を紹介しておられたのをブクマで知った。Collinsは、別の国語を勉強する時に初学用の教材として使ったことがある。見やすくて、なにより非常に実用的で、編集方針としてとても感心した。辞書でグローバルを勧めておられて、コロケーションが豊富とのことに、それをもっと早く教えてくれよと(たまたま別の英和を買ってしまっていたので(笑))。
でも、はてなのブクマのつき方を見ると、かなり初歩というか、諦めが全然足りない人が多すぎる(笑)。僕は外国語学習者としてはもちろん素人で外国語は苦手だけど、いろんな本を自分なりに読んで勉強して、気がついいたら3つ4つ外国語を知っている。そういう人間としてなんか言えそうに思う。
欧米の人が外国語を勉強する時、たいてい小さなメモ帳に単語や表現を書きつけている。これはいい方法だと思う。
ポイントは、いかにも単語帳然としたのじゃなくて、メモ帳を使うこと。というのも、単語や表現というのは、使われる場面や文脈にそって覚えられるべきで、かつそういうふうにしか覚えられない。いかにもな単語帳ノートは、そういうものをきれいに削ぎ落してしまう。メモ帳なら、あとで見なおすと書きつけた時の場面を想起しやすい。
たとえばハックルベリーさんのあの記事(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081111/1226409288)。あれを鵜呑みにしてはいけないのはBrittyさんが指摘された通り。ああいう表現はハックルベリーさんの知人が言うからこそ味があったり面白がられたりするのであって、そのままぱくっても意味がない。
なら、自分なりにお決まり表現を作ってやればいい。時間稼ぎのための一言とか、しょっちゅう口に出てくる便利な表現とか。なんでもいい。自分なりのものを作れば、それが自然に味にもなり面白さにもなるだろう。どんなに初歩でも、言葉を使った瞬間に人柄が反映するものだ。
誤解されたくないのだが、これでも辞書の序文を読んで編者の熱い思いを受け止めるのが好きだ。ただ辞書には使い方がそれぞれあると思う。僕の場合は、まずパッと訳語をみて大体の意味を知るだけで鵜呑みしないことにしている。適当に自分なりに訳語を変えてこんな意味だなと受け取った方が、案外スンナリいく。あと、訳語そのものより、ちょっとした記号とかのほうがはるかに重要な場合がある。どこそこの方言だ、とか。
もちろん、熟語や凝った言い回しなどなど、ちゃんと探さなきゃいけない時は辞書をちゃんと読む。でも学者や難しい仕事ならともかく、普通に読んだり会話したりする分には、辞書はだいたいの意味しか教えてくれないものと割り切った方がいい。
上のと関連するが、共通語をつかうより、自分の方言で考えた方が外国語は理解しやすい。
身内にロンドンに長いこといて英語が完璧な人間がいる。この人が物語るとイギリス人の言ったことが全部方言になってしまう。コックニーだからというより、直訳ではない、こんなことを言いたいのだという感じまで伝えようとすると方言に変換されてしまうらしい。
指揮者の佐渡裕と朝比奈隆の対談で、佐渡いわく、オーケストラの練習で自分のイメージと違う音楽が出てきた時、外国ではオケにNO、NO!!と言えばいいが、日本語にいい言葉がないと嘆いたのに対し、江戸ッ子の朝比奈翁は、君は京都の人なんだから、上方言葉で、ちゃうちゃうってのでいいじゃないかと答えていた。
ヨーロッパ諸国語に関する限り、日本人は非常に有利。なによりラテン語のようにして勉強した英文法は、結構どの国の言葉にも応用ができる。しばらく英語から離れてみて、そして再び舞い戻った時、意外に語彙が増えていて理解が深まっているもので、これを活用しない手はない。
ヨーロッパの人がヨーロッパの言葉を勉強するのは、もちろん有利でもあるが同時に不利がある。というのも、似すぎていて混乱することが非常に多い。ヨーロッパのある語学学校の若い女の先生が、ねえ、受動態を理解してくれないのと泣きそうな顔をしていた。え、だって英語と一緒じゃないの?難しくないよというと、そりゃあんただけで普通はそうじゃないと返された。欧米人のレベルだってこんなものなのだ。
ただ、これには副作用があって、別の言葉を勉強している間、英語が出てこなくなる。たとえばドイツ語を勉強していると、1965年とパッと出されてもドイツ語は出てくるが英語が出てこない。ナインティーン、えーえーえー、フンダート(がっくり)という経験は誰でもあって、それは頭が悪いからではなく、ごくごく普通の現象だ。だけど、こんな副作用をこえる効果があるのだから、英語にこだわり過ぎるのも考えもの。
たしかモンテーニュだったかな。彼はラテン語の英才教育を受けていたが、にもかかわらずラテン語を読んで分からない部分にぶつかると、五分考えて分からなければ諦めて前に進むと随想録にあったと思う。この男前な潔さを見習いたい。所詮僕は外国人で、外国人として英語なりなんなりを使わざるを得ない。どんなに勉強したって限界はある。それに目的だって人それぞれ。ダメなものはダメと潔く諦める姿勢は、ときに必要だ。
ただそれでも、外国語をやる以上、それなりの好奇心あり、また向上心もあるわけだ。Kamikazeは自爆テロを意味するものとして日常語になっている国がある。戦争もテロもいけないが、外国語では人は死なない。敢闘精神と勇気を持って敵陣に突っ込み派手に自爆する心意気こそ、外国語学習の醍醐味だろう。
諦めつつ、大和魂をもって無限に突撃を繰り返しながら、最後は気長に成長を待たなければならない。それにはユーモアが必要だ。退屈な文法も、伝えたいことが伝わらないイライラも、ユーモア一つで救われる。日本人は静かでまじめとむやみに思われている。これはよくない。もちろんふざけたりおちゃらけたりすることはないが、真剣に冗談をいえばなんともいえないユーモアとなって、なんか知らないが笑えあえる。外国語学習の究極の秘訣は、実は笑いにあるのではないか。
(番外編)
何が正しくて何が間違いかってのは、僕らが日本語を使う時と同じように、外国語でも最終的にはあまり重要な問題でないんじゃないか。というかそんなことに臆していてはいけない。向こうの人だって外国語となれば、良くいえばそれぞれに特徴的な、悪くいえばてんでバラバラ無茶苦茶でも、健気にこなしている。だいたい方言のことまで考えたら、発音一つとったって基準がない。天才バカボンは偉かった。これでいいのだ。
あと男性諸氏は女とポルノは絶対に活用すべきだ。たとえ初学者でも、ポルノ小説だけは不思議に読めてしまう、これが。もちろん細かい部分や動詞の変化などは全く分からないが、それでも、ああこれはこーなってああなって、へへえ、と進んでいるうちに(もちろんまじめに文法も勉強しながら)、結構なじめてしまった自分がいたりする。
年寄りの昔話では、旧制高校時代から伝承されたというボロボロのエロ小説を回し読みし、それで英語の妙な表現や口語まで覚えたそうな。つまらない言い回しをネットでぱくるくらいなら、こういう努力の方を真似したい。
http://anond.hatelabo.jp/20081111194750
http://anond.hatelabo.jp/20081111194907
とりあえずDictionary.comで語源を調べたところ
・inになる単語
insight -> 1150-1200の中英語 in- + sight
inpatient -> 1750-60 in- + patient
inpaint -> in- + paint
input -> 1745-55 in- + put (意外と古い)
・imになる単語
impress -> ラテン語 imprimere の受動態完了分詞 impressus
import -> ラテン語 importare
あと、接頭辞 in- を引いたところどうもいくつか in- がある。
2. ラテン語の接頭辞を語源にする、意味は1と同じ。くっつく単語によってil-, im-, ir-に変化する。
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
http://anond.hatelabo.jp/20081109215457
書評がなってない、という問題のコメントがほとんどならわかるが、かなりの割合で書評の内容で元の本を想像してコメントする、という例がある。現時点でそれに該当すると思われるのを俺視点で全部あげると、
id:repon あのですね、日本人から見た「英語」だから普遍語に見えるだけで、日本語という「国語」は国家統合の鍵ですよ。英語は道具としてはこれから普及するけれど、国家統合の要は国語たる「美しい日本語」です。全然違う。
id:jujubea j「英語のできる俺大勝利!皆は俺の英語力を全肯定するこの本を読むべき」
id:shields-pikes 読まずにコメント。ブログと掲示板と漫画とアニメで、世界の全コンテンツにおける日本語の比率は20年前より増えてるんじゃないかなあと予想。あとは、現代中国語をまた漢語として日本語に引き入れようぜ!
id:sbiaco ラテン語を中南米の言葉だと思っている人がいっぱいいる国に英語を普及させるなんて夢の夢。植民地にされたら別かもしれないが
id:hobbling 今どき源氏物語を「読む」人間がいないように、漱石の三四郎だって「読む」人間がいなくなるのは当然だと思う。言葉だって文学だっていつかは死にます。ラテン語が死んだように英語だって死ぬでしょう。
id:kkobayashi バカだのアホだの言われると逆に読みたくなってくるな。/英語の必要性なんて、本読んで勉強するもんじゃないと思うけど。実際必要としてない人には不要だし、実感として伝わるわけがない
id:TiTo インテリ層は今後日本語よりも英語に重きをおくのでは?私自身の体験からしても、ある分野で日本語で十分満足のいくコンテンツがない現状に気付いた時点で英語のコンテンツにアクセスするようになりましたから。
id:noiehoie なぜこの人はいつも真面目に語ろうとすればするほど底の浅さを露呈させてしまうのだろう?そもそも19世紀以降知的世界において英語が普遍語でなかった瞬間があるのかと問いつめたい。小一時間(ry
id:JuliusCaesar アメリカが没落しても英語の優位が続くかどうか。日本国が続く限りは、日本語が亡びることはないだろう。
id:nekoluna うーん・・英語で書けるならそのほうがいいと思うけど。 マーケットが大きいので、日本語では微妙な才能でも小説家としてやっていけるよ。 暴力的かもしれないけど。
id:dekaino 古代・中世と中華帝国が東アジアの中心だった時代、日本の公文書は漢文だったが、和文の文章も当然書かれていたし和歌も詠まれていたわけで。
id:mihalita 日本語を理想化しすぎ。かなりハイブリッドな言語なので、これからも政治的に強い言語と混じりながら変化していくんですよ。「田中克彦」を読んだほうがいいと思う。
id:panna-cotta 関係しそうなのは上流層だけかな。世界共通言語を操る以前に、世界規模の競争で勝ち残れない大多数の人たちは結局母国と母国語に依存せざるを得ない。 * 2008年11月08id:Meat_eating_orchid こんなのもう50年以上前から言われてることだけど、それで「自然に英語で書」いてる人って何人いましたっけ?
id:islecape 英語が「普遍語」に。すでに学術論文なんか全部英語。人口が減っているので日本語を使う人も当然減っていく。文化的に保存されず消滅する言語がかなりあるが、日本語はデータとしては残る。それで問題あるだろうか?
id:yuki-esupure こういうの100年くらい前からいわれてるよねwww
id:ticky 英語ったって、英語を学ぶことと、英語の教養を見につけることは別。
id:nosem よくあるタイプの本の予感,そもそも普遍語たるラテン語も衰退しちゃったじゃんかよ
id:pontanta 50年前に出版されても同じことを行っていると思う。戦後のベストセラーが「日米会話手帳」ですからね。/「貯蓄から投資へ」みたいにいつになれば本格的にそういう時代になるの?という感はある
id:yamatedolphin 都会で働く人には標準語は必須だが、イナカで隔絶した暮らしをしてやってけるという人は方言で充分。それと同じで知的分野で相手にされなくてもよい人には関係ない/ コメントみると日本は「亡び」からも遅れるのかも
id:citron_908 人類2.0 タイトルと書評だけ読んで想像すると、これってなんてワンワールド化?っていう / フラット化する世界のなれの果て
id:Mihukaeru 標準語は浸透しましたが、方言は滅びましたか?(変化はしてるけど)
id:yo-net 日本語で物を考えなくなったら、日本人が終了するだけですよ。
id:georgew 英語に関しては異論ないけど、中国語の台頭というのも考えねばならんと思う。いずれにせよ日本語用済みってのは大筋そうだろう。
id:insistent シルクロードの終着点で中東から欧州から中国朝鮮から洪水のように情報が入ってくるので異文化摂取能力を限界まで高めた言語として発生した日本語。また独自の変質を遂げた日本語になるだけだと思う。
id:plummet 実感はサパーリ湧かない。|ちうか、本を紹介するだけのエントリにけっこうスターがついてるのに驚く
id:naotoj 一部の限られたエリートしか情報を残せなかった昔とは違い、今は個々人全てがデータの発信元。それが全て英語に置き換わるなどとは到底思えないのだけれど。
id:ore_de_work 滅びるんじゃなくて、それ生き物だから.....
id:kimtetsu 日本 単一の言語を民族のアイデンティティに結びつけるのは、国民国家の特徴だからそんなに歴史が古くない筈、日本語だとせいぜい150年ぐらい?
id:hummer_and_anvil 江戸時代以前は漢文が公用文の時代だったし。ヨーロッパではラテン語の時代が長く続いた。日常語と公用語が別の言語という国は現在でもたくさん存在する。これはごく普通のことじゃなかろうか。
id:ustar そもそも日本語は何千年も知識と論理を漢語に任せてたじゃないですか
id:ghostbass言葉 OK,まずは「ら抜き言葉」なる珍妙な用語を滅ぼそう。/フレーズで意味を成す用語を単語に分割して訳すバカどもを追放しよう
id:TOM2005 そのときには自動翻訳が実用的なレベルになっていて、むしろ「母国語でない英語を覚える」などというナンセンスなことは誰もしなくなったりして。
id:temtex 今まで数え切れないほど日本語の危機なんてあっただろうに。