はてなキーワード: ライフスタイルとは
以下の記事はあくまでネタで、事実を異なる部分や無理のある部分がありますがご容赦下さい。
ネタ元: Life is beautiful: アメリカで、ハイブリッド車が売れる理由、SUVが売れる続ける理由
http://satoshi.blogs.com/life/2006/09/suv.html
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少し前の新聞記事にアメリカでWiiが良く売れているという話が出ていた。最近の次世代ゲーム機の値上がり具合を見れば当然とも思える行動だが、実はちゃんと計算してみると必ずしも得ではない(Wiiで減らせる体重は年間たかだか数kgだが、WiiはPS2やDSよりも120ドルも高いので、相当長い期間使用しないと元は取れない)、と記事は警告している。
その逆に、次世代ゲーム機の値上がりにも関わらず、Xbox360の売れ行きが落ちないという興味深い記事も最近読んだ。必要以上に大きくて、電力をやたらと消費するXbox360が、アメリカ中のコアゲーマーに相変わらず売れつつけているのだという。
計算してみるとダイエット効果があまりないのに売れるWii。電力をやたらと消費するのに売れ続けるXbox360。一体何が起こっているのだろう。
「米国人にとって、ゲームはその人のライフスタイルを表すシンボルだから」というのがその両方の記事に共通して書かれていた答えである。
ここ数年、特に高まっている健康への配慮。そんな「健康でいたい」という自己主張を、今もっとも顕著に表す方法が、Wiiをプレイすることである。彼らにとってみれば、Wiiを購入するために払ったプレミアムを何年で取り戻すことが出来るかはそれほど重要ではないのだ。それよりも、消費電力が実際に半分以下になることが重要であり、そんなWiiをプレイする「健康な自分」が好きでしかたがないのだ。もちろん、彼らがプレイするWiiそのものが、そんな「健康にいい」の広告塔であることは言うまでもない。(そんな人たちに、「本当に健康にでいたいのなら、食い過ぎるな」と突っ込むのはヤボというものである)。
逆にXbox360は、「俺はコアゲーマーのマッチョなんだ」という自己主張のシンボルである。たとえ、実際には主にFPSのプレイにしか使わず、年末に購入するタイトルといえばPS3とのマルチタイトルだけ、という人でも良いのである。月に一度だけ友人の家に行った時に、「やはりXbox360はすごいだろ。微細なグラでもヘッチャラだ。」と友人達の前で「男らしいコアゲーマー」を演じることが出来ればそれで十分なのだ。それに加えて、昨今の次世代ゲーム機の高騰。「俺は、ゲーム機がどんなに高くなろうと、Xbox360を買えるぐらいの稼ぎはあるんだ」という意思表示は、米国のコアゲーマーにとっては、ライバルにネット対戦で勝つことよりも大切だ。
そんなアメリカ人の趣向をずばりと付いたのが任天堂のWii Sports。日本的な省スペースのボディに女性的なデザインの味付けをして「女性向けゲーム」のマーケットを作ることにした任天堂が、それにWiiリモコンを付けたのがWiiである。「本当はWiiなんか大嫌いなんだけど、アウトドア派のファッションは私にピッタリ。でも、健康にはあくまでやさしくありたい。あと、次世代ゲーム機を買うのに高いお金を払うのは全然かまわないんだけど、毎月高い電気代を払わされるのはなんだか不愉快」という働く女性カジュアルゲーマーたち(もしくはコアゲーマーの妻たち)の複雑な女心をズバリ射止めたのである。
本当に健康にやさしくありたいのであれば、近所のスポーツジムにでも通えば良いのだが、そんな女性達に限って「私ってスポーツジムに通うような性格の人って何か許せないのよね」と言いつつWii SportsをプレイするとWiiリモコンを振ってCOMを負かすのだからアメリカの女性は恐ろしい。
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まあ、皆、こういう風に「処女捨てようかな」系にはとりあえず「もったいない」「なぜそんなことを」と叱ってみるんだけど、じゃあ近くに20代後半(ま、もしくは30代からでもいいが)の処女がいると、そんな事言ってる奴でもやっぱりほとんどは引いたり、「なんだかんだ、その年で処女ってことはブスかかなり問題アリな女だ」と見下したりするんだがな。
私の知り合いにはそういう女性が実際に何人もいるけど、引くとか見下すどころか、俺的にすごくリスペクトしてる。素晴らしいと思ってる。
「早く捨てたい捨てたい」って思ってる人じゃなくて、自分の信念、ライフスタイルとして、貞操を守る事を選択してる人は、とりわけ尊敬している。
いまどきそういう生き方を貫き続けるなんて、なかなか出来ることではない。
加えて言うなら、女ではなくて男で貞操を守るライフスタイルを貫き通している人、たとえばゾマホンとかは、もっと尊敬する。こちらの方がハードルが高いから。
最初に言っておきたいのですが、私は結構フェミニスト(なつもり)です。
今ある予備校の広告で「円周率が3.05より大きいことを証明せよ。」という広告が出てることご存知でしょうか。これはもともとある一流大学の入試だったようなのですが、今はその予備校が宣伝の為に使っています。
昨日、朝の通学時間に大学生と思われる5,6人の女の子達と同じ車両に乗り合わせました。きっと大学が休みでどこかに出かけるかな、という雰囲気でした。最初はありがちな世間話で盛り上がっており、多少大きな声でしたが、まあ若いんだし元気が良いのはいいことだろうくらいに思っていました。
突然、話題はその広告に。マシンガンのようにそれぞれの女性の口から感想が飛び出します。
「何で証明しなければならないわけ?」
「3.14って分かってるんだからいいじゃん」
「つーかπでいいじゃん」
「何で既に分かっていること証明するわけ?頭悪い」
私は別にこの証明問題が解けないことについては何も言うつもりはありません。また「彼女達が円周率が3.14って本当に理解しているのか」、「そもそも円周率って何なのか理解しているのか」など突っ込みどころは色々とあったのですが、それも別に小さな問題だと思っています。先人の知恵を嘲り笑うかのような言動は個人的には気に入らないのですが、まあ若いときは色々と反抗心を持つものですし、私にも身に覚えがあります。時代を築いた人に感謝するのは年を取ってからでも遅くないでしょう。
でも彼女達に関わらず、今の若い女の人全般にある傾向なのですが、彼女らはこの会話をしている間「まったくもって思考をしていない」のです。それは彼女達の喋るペースからも読み取れますし、内容からも読み取れます。彼女らはこの問題について「まったくもって検討をしていない」のです。おそらくあの調子では今日にはもうあの問題のことは忘れてしまっているだろうし、ましてや「あの難しい問題ってどうやったら解けるのだろう」とか「出来れば解答だけでも見たい」とかそういう発展的な思考をしている人はいないだろうと思います。これはたまたま対象が数学の問題だったから、ということではありません。映画でも小説でも、ふと「分からないこと」に出くわしたときに若い女性が示しがちな行動なのです。そしてそれは団体行動のときほど出易くもあります。
昔「クリスマスがキリストの誕生日」だということを知らないという女の子に出くわしたことがあります。まあ諸説があるでしょうし、本当にキリストが生まれた日じゃないかもしれませんが、一応そういう説があり、それが一般的であるということは誰しも認めるのではないかと思います。少なくともここ日本では。その女の子はそのとき丁度二十歳、もしくはもう少し上くらいだったのですが、「この子はこの二十年間、一体クリスマスを何だと思って過ごしてきたんだろう」と強く疑問に思いました。特に日本ではクリスマスは休日でも無い訳です。何処かの誰かが「ケーキを買ったり、プレゼントを買ったり、恋人と出掛けたりする日」とでも制定したとでも思っていたのでしょうか。それとも「何かの宗教の日」くらいの解釈はしていたのでしょうか。いずれにせよ、この女の子も「クリスマスって何」という疑問はさほど持たず、カッコいい彼氏とデートすることやプレゼントを貰うことにだけ興味を持っていたのではないでしょうか。後者はまったくの推測ですが、多分外していないと思います。
日本の将来が不安になるとか、そんな大それた結論で終わらせようとは思いません。ただただ彼女達の未来が不安だったりします。彼女達は若いし、若さの溢れるエネルギーが人を惹きつけていました。その中には可愛い子もいればそうでない子もいましたが、とにかく若いうちは女性はそれだけで特別な才能を持っているようなものです。でも彼女達にも老いが訪れます。そのとき彼女達には何か残されるんでしょうか。若さのエネルギーが先細りし始める前に自分の庇護者を発見し、生きていく上での庇護を得る、そんなライフスタイル(ビジネスモデル)しか彼女達には無いのではないでしょうか。それも別に構わないのかもしれません。たいしたことではないのかもしれません。ただ老いが肉体を滅ぼし始めたとき、自分の過去を後悔するような女性が世に溢れる、そんなことは男性にだって嬉しいことではありません。そう思いませんか。
勝手なことを言うようですが、私はフェミニストだと繰り返しておきます。ただ今回は男性の愚については語っていないだけです。誤解しないで頂けると幸いです。
ニートになるにはとにかく親に苦労をかけさせるという行為に対して一切の感情を捨てなければならない。いつまでたってもモラトリアムを楽しんでいるというのはなく、これは新しいライフスタイルだと思わなければやってられない。そして、親が死んだ時になってなんとかすればいいや、という主義を持ち、インターネットや世間からの辛らつな言葉を受け流し、自分の趣味の世界に耽溺するしかない。強迫性神経症めいた症状を持つ人間はこういう点でニートになることは不可能である。しかし、世間は「悩んでいるニート」も「悩んでいないニート」も一緒くたにして考えるので、こうして「悩んでいるニート」はまた深い悩みのらせんへと足を突っ込んで抜けなくなるのだ。ああ、働かなければ。
これどうよ?
なお、メインは「運輸旅客部門:適切な国土利用、エネルギー効率、炭素強度改善等で80%」てところだろうな。
自動車から公共交通機関へということだから、日本の主力産業である自動車産業を直撃してるのはいうまでもない。
CO2の7割削減、成長維持しても「可能」(2007年02月15日)
国立環境研究所などの研究チームは15日、2050年の日本の二酸化炭素(CO2)排出量について、産業構造やライフスタイルの転換などを進めれば、生活の質や経済成長を維持したままで、1990年より70%少ない「低炭素社会」を実現できるとする研究成果を発表した。ただし、技術変革のスピードアップが不可欠とし、長期的な地球温暖化対策の必要性を訴えている。
みなさん、あなたが今読んでいるブログのエントリと、同じような面白さのエントリを読んでみたいと思うことはありませんか?
アマゾンのように、「このエントリを読んでいる人は、こんなエントリも読んでいます。」と知らせてくれるようなエントリ推奨機能があると便利だと思いますよね。
けれども、はてなたるもの、そんな二番煎じのような機能ではつまらないですよね。
そんな時にはこの、「時間敏感性エントリ推奨機能」を使ってみてはいかがでしょうか。
「時間敏感性エントリ推奨機能」とは、「<一日のうちこの時間帯に>このエントリ(あるいはこのブログ)を読んでいる人は、こんなエントリ(ブログ)も読んでいます。」と知らせてくれる機能です。
人間にとって、一日のどの時間をどんな行為に費やすかという時間消費パターンは、その人のライフスタイルを如実に反映している貴重な情報です。
朝7時、出勤前にそのエントリを読む人と、昼の12時に職場で読む人、昼下がりにワイドショーを見終わってから読む人、深夜家族が寝静まったころに読む人では、同じエントリを読んでいても当然エントリに対するニーズが異なるはずです。しかし意外と、そのことをエントリを読む本人は意識化していません。
さて、あなたは何時頃このエントリを読んでいますか?
僕は広島県の神から見捨てられたようなニュータウンに住んでいるのだけれども、僕の街はそんなに広島に遠いところではない。これは実は中国地方の街に住むものにとっては、かなり大きいことなのだ。広島というのは、軽い中華思想にまみれた街なのだwこれはどれくらいの人が共有できる感覚なのか分からないのだけれど。
中国地方は『田舎』である。この『田舎』というのに、注意しなければならない。これは実は(広義の)政治的なものなのだ。日本の『田舎』が北海道でもなければ、沖縄でもなく、九州でもないことに注意しなければならない。寒村風景というのは日本人においては昔話にも出てくるような"原風景"であるが、それは、本土の風土(北海道では『北の国から』になってしまうわけで)、それもより亜寒帯よりの温暖な気候という中国地方的な風景なのだ。
やっと本題だが、しかし、広島は違う。広島はイケているのだ。広島の街は実際歩いて見ると分かるのだが、東京のデフォルメされたミニチュアのような感じがする。例えば、その象徴としての横川シネマ。ここは所謂、オサレ系の映画を広島の街ではこの映画館が、ムービー・コンプレックスとして一手に担っているのだ。つまり、ここは広島において、「オサレ映画」の象徴の具現化なのだ。当然、東京のようによりもっと深くとはいかないのだけれど。
この街は、楽だ。オサレを追求する必要もない。まだ、広島にも"中国地方"的なものが残っているのだ。オサレとそれを上手く折り合いをつけていけば、広島的なライフスタイルは、広島人にも、東京人にも、有効である。ここは、街と村の境目なのだ。昼間は横川シネマ行くナウいお嬢さんが、その日の午後にはしゃもじ踊りしてるっていうその感覚は分かってもらえるだろうか?パトリオティズム、それも農本的なもの、それこそ、"中国地方"的なものと僕が呼ぶものだ。それが東京のミニチュアのような都市にまとわり付いている。その広島的なカルチャー(サブカルチャーも含め)を、僕は否定する気はないが、受け入れてあげる気もない。はっきり言うと、その中途半端さが嫌いなのだ。
何不自由なく格好よく生きられたら良いな。
この人生無駄に溢れている。それだけでいいのに。一定の旅路を淡々とゆき続けるだけでいいのに。
白線しか踏んじゃいけないルールは、白線の割合が適度だからルールになるし、
コインを集めるゲームは、コインが適度に配置されてるからゲームになるんだし。
これはゲームなのだろうか。確かにそうかもしれない。でもこのゲームちょっと普通のゲームとは違う。
コントローラーがコントロールできないのだ。コントロールできないのコントローラーなのだろうか。
どこがおかしいのか性格にはわからないが、そういうことが起きる。
嗚呼ゲーム脳。
生き残るだけなら格好よさも、自己陶酔も必要ない。ライフスタイルだとかそんなちんけな単語、必要は無い。
でもここには自我がある。自我は生き残ることをたぶん目的としていない。目的なんか大それたものは今は無い。
だが、生き残ることに必死になるような自我じゃない。
ただ淡々と。
ただ淡々と。
一時に1つの状態でしか存在し得ない。だからその点においては比較的簡単かもしれない。迷わずに済む、誤らずに済む。
このゲームは案外単純だ。だけど、何かが意地悪をしている。どこかがおかしい。
華麗な操作が出来ないのは、きっと自分の性。
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀