はてなキーワード: 通過儀礼とは
一般にいわれる成長っていうのは、つまり子供的なものが通過儀礼を経て大人的なものに変わっていくということだよね。
わがまま坊主が協調性をもつようになるとかね。それは成長だけど、ある意味で堕落でもあるよね。大人への堕落。
こういう成長とか堕落とかっていうのは、それ自体完全にイコールなものだ。腐敗と醗酵。日本人がブラジル人に「変な立ち方してんな」って言うぐらい滑稽なもの。
ところで、「昔の自分は馬鹿だった」なんて、思ったり言ったことない?おれはある。
でもその時、つまり今の自分はそんな馬鹿じゃないっなんて気持ちが背景にあるとおもうんだ。
不当だよね。フェアじゃない。過去の自分にはなんの反論も許されない。卑怯。
プロモーションにおいて圧倒的不利な状況になるというのが普通。
どうしても自分名義で発表したくない(できない)システムというものは
結局のところ世に出ないか、情報の波間に飲まれてしまうのが常であった。
だがしかし、ここで世にはばかられるようなサービスを好むことを明言し
一切の抵抗を持たない奇跡の存在を仮定したとすればどうだろうか。
本来であれば表に出ることのなかった匿名の開発者の手によるいくつかのシステムが
その存在によって発表、プロモーションされることで日の目を見ることとなり
更にそのうちのいくつかは当初の予想に反して誰かを楽しませるかもしれない。
実際のところサービスなどその価値を世に問うて見なければ真価などわからないものではあるのだが
そのためのプロセスは人によってしばしば大きな障壁となることがある。
これはもはや大きな社会的損失であると言って差し支えないであろう。
それを容易に回避できることを考えれば
彼の存在のちっぽけな嘘など瑣事瑣末に過ぎないと断じることはできないだろうか。
ただ、その恩恵を実際に享受するためには
しばしば閉鎖さされた環境で集団を維持するため嘘やお話を共有したことと同様に
ある意味における公然の秘密として、その存在の実際を秘匿する必要がある。
暗黙の了解を語り継ぐための祭り事としてその真実を探る過程を繰り返すことがあっても
決して2択の回答を強いた上で答えるまで寝かさない等といって困らせることがあってはならない。
また、その存在も絶対に自身の所業に関して明確な回答を示してはならない。
あくまで嘘が嘘である間のみ受け取ることが許される恵みなのだ。
そしてそれを共有することによって集団はその結束をより強固なものとする。
文部科学省の資料。場所はここ。
> 政策関連情報 > 審議会情報 > 調査研究協力者会議等 > 子どもを守り育てるための体制づくりのための有識者会議 > (第2回)配付資料 > 資料5??7
1 (1)自分より弱いものに対して一方的に(2)身体的、心理的な攻撃を継続的に加え(3)相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。(文部省1994年)
2 集団内で単独または複数の成員が、人間関係の中で弱い立場にたたされた成員に対して身体的暴力や危害を加えたり、心理的な苦痛や圧力を感じさせたりすること(都立教育研究所)
3 単独、または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃または言動による脅し、嫌がらせ、無視等の心理的圧迫を反復継続して加えることにより苦痛を与えること(警視庁保安部少年課1994年)
見直されてるはずなんだが、最新のソースがみつかんない。
んで。
「被害者が深刻な苦痛を感じているもの」が「いじめ」なわけだから、さまざまある。
拳で殴られても「友情の証」とか言っちゃう男の子もいる。
聞こえよがしに悪口言われて自殺考えちゃう子もいる。
どれもこれも「いじめ」だから、客観的に見ると「そんなことでいじめ?」ってことも多々ある。
昔だったら「いじめ」とは思われなかったことが、今は「いじめ」になるってこともある。
逆に「どう見てもいじめだろう」ってことが、狭い範囲のグループの中では黙認されていることもある。
何が「いじめ」かは、集団と個人との関係性がおおいに関連している。
ただ一点「いじめ」には共通点がある。
「相手を傷つけたい」と思って、なんらかのことをやるわけだ。
「いじめる奴」ってのは。
誰でも持ちうる感情だと思うが。
それが瞬間で終わる奴は「いじめ続けたり」しない。
「他者を傷つけたい」と日常的に思っていて実行する奴。
「いじめをやる奴」ってのは、そういう奴だ。
「憂鬱だ」の増田の話から派生した日記をふむふむと読みあさる。
結婚とその間にある親の話、家族の話。通過儀礼。親の納得。元の家族に祝福されなければ幸せな家庭は築けない。
私と彼女は付き合って5年目になった。まあそりゃいろいろあったけど、来年にはやっと二人で暮らそう、という話になった。
もちろん親に「付き合ってるから一緒に暮らします」なんて言えないわけで。言ったところでどんなリアクションが返ってくるかは目に見えている。互いを傷つけあうこと間違いなしだ。
私たちは表向きは「仲の良い友達として」ともに暮らすことになる。もちろん知ってる友達はいるけれど、「娘の幸せを一番に願っている」親は何も知らないわけだ。
私だって彼女のご両親に「幸せにします!彼女と支えあって生きていきます!」とか言ってみたい。彼女のご両親に家族だと認められたい。それ以上に、彼女と家族になりたい。家族としてともに生きていきたい。幸せになりたい。
彼女のご両親の気持ちを踏みにじって彼女を奪っていく私は、幸せにはなれないの?それとも結婚とは違うから話は別?でも私は、彼女と家族になりたいよ。幸せに生きていきたいよ。
古典芸能に棒にナスを刺して「ハイ、ボーナス(ハァと」というのがあるが、
今アレをやると殺人事件に発展するので世のおやじたちは気を付けたほうがいいと思いました。
沸点の低い世の中、自分の身は自分で守るしかないのです。
さて、そんなこんなで私もありがたくボーナスを頂いた。
実は、私はボーナスにほろ苦い思い出がある。
アレは新入社員の頃、ヒヨッコだったオレはピヨピヨと毎日毎日手探りで仕事を頑張ってた。
寝る間も惜しんで、毎日毎日働いた。休日も含めて毎日。
生まれて初めて、病院で点滴をうった。
そして初めての冬のボーナス。
その支給日の前日、オレは上司に呼ばれた。
内容は
・ボーナスには評価があること
・その評価は相対評価であること
・だから誰かに最低の査定をつけなければならないこと
・オレに今回最低の査定をつけるが、コレは新人の通過儀礼のようなものであること。
であった。
この時のオレのショックは大変なものだった。
帰りの電車で泣いた。
カイシャを辞めてやろうと思った。
金が少ないのは別に何とも無かった。
自分の仕事が評価されなかったのが本当に口惜しかった。
そして、今回。「S」評価でした!!
はい自慢。
社内では自慢できないからな、せめてネット内で。
つか、「S」査定は「社内で何人」みたいな枠なので、ホントにウレシイのです。
ハッキリ云って全然まともに働いてないのですが・・・。つか、絶対入社1年目の方が頑張って働いた。
去年は最悪だったし。
まぁ締め切り守らない、遅刻は普通にする、深夜にテレビを見て朝起きれずにそのまんなカイシャを休むと、去年は誰がどう客観的に査定しても最悪の査定になるんだろうが。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
いまさらだが、大学生における準ひきこもり行動に関する考察に好き勝手コメントしてみる。
10 人に1人というほど高率ではないが20 人に1人というほど低率でもない
それは問題だ。そんなにいるならなんとかしないと。
思うに、文章全体を読んで
■孤独に静かに大学生活を送っているケースが多いが、少し親しくなると甘えた非常識な言動、わがままの押し付けなど自己中心的言動を取ることがある。学生の間ではストーキングやセクハラの常習者としてマークされていることもある。これは、本人にはそんなつもりはなくても、社会の標準がわかっていないことから、つい不適切な言動を取ってしまうことによる。
■優しくしてくれる誰かに、甘え、強く寄りかかろうとし、その結果厳しく拒絶されて傷つくことがある。これは長年にわたる実質的なひきこもり生活のため、人との距離を適切に取るということができないために起きる。
この点以外は、別にこんな人いてもいいんじゃないのと思う記述ばかりだ。別に、あんま喋らない、人間関係が不器用な人が、対人関係をあんま必要としない性質の仕事をしている分には全然問題無いと思う。実際過去にもいたし、過去に社会に出た人でいまの社会に現役で働いている人の中にも結構いる。そのまま寡黙な人として生きていけるような環境を用意したらいい。貴重な労働力だ。
ただし最近の大学生のシュウカツみたいなもんを経由させようとするとそこでつまづいてしまう。大学生は自分を売り込むようなシュウカツをするもんであるという習慣が、準ひきこもり層が本格的なひきこもりになるきっかけを作り、労働力の無駄を招いているのではないか。もはや大学生の全てにこの通過儀礼を経由させるのは現実的ではないと思う。通常のシュウカツをする学生とは待遇が異なることは許容しつつ、言われたことを真面目にやりさえすれば務まる性質の職場に大学側が送り込んだらどうだろう。
これらの人々は、自分で選んだり自分を売り込んだりといったことが出来ないだけで、エスカレーター式に送り込まれた先にはそれなりに適応出来るのではないか。そういった中でとりあえず職業生活のスタートを切ることが必要なのではないか。
自分の周りではそんなにいない、いても2??3人。
症状を目の当たりに体験した数はゼロだ。
いつも思うんだが、自分は精神を患っていますと宣言するのってどういう気持ちなんだろう。
辛い状況からなんなく抜け出すための通過儀礼なんだろうか。
俺は言えない。
言うための原因を作りたくもないから病院も多分、誰かが俺を無理矢理引っ張っていかない限りないだろう。
「鬱は直る病気です」「鬱の人に言ってはいけないこと」
俺の周囲の数少ない2??3人は治ってねえぞ。
鬱を治すってことは生活に関わることを放棄することだと思う。
今自分が抱えている様々なことを全部放棄して遊び狂ってみよう。
遊ぶときには「俺TUEEEEEE」な遊びに限定すること。
もちろん全部放棄した責任は2度と対面することがないように処置しておくこと。
多分これで治ると思うよ。
部屋の模様替えとか引越しとか。
懐かしい人に会いに行くとか。
それができりゃどんなに楽なんだろうね。
職場の仲間が一人、心を病んでるという理由でフェイドアウトした。
失礼だが、俺はその時無意識に「なんで!?」と言った。
「なんで相談しなかった」
「なんでお前が」
「なんでこのタイミングで」
「なんでこんなこと言うの?」
俺の「なんで!?」は後日、追及されることになった。
それを聞いてる俺が通院したくなったくらいだ。
冒頭で書いた俺の「こうすれば治るんじゃね?」を俺は彼にそのまま行使した。
有給の休み、引越しとか、誰かリスペクトしてる人に会いに行けとアドバイスした。
しかし「全部放棄していいよ」までは言ってない。
数ヶ月前、俺も自分で自分がおかしいと感じ始めてた。
そう思う逃避なのか、それとも本当に参っているのが知りたかった。
心を病んじゃった人が集まる場所なんかネットでは簡単に見つかるのでちょっと様子を見てみたんだ。
「眠れない」「○○ってクスリがいいよ」「クスリ増えたよ」「入院です」
この内容のループだった。
悪いけど、この仲間になる気は毛頭ない。
精一杯やるだけやって、それでのたれ死にのバッドエンドのほうが俺にはよく見えた。
彼らだって戦ってるんですという意見もあるだろう。
うつ病の人に甘えてるとか言ってはいけません。 ああ、言わないよ。だけど思うだけならいいよな?
世の中いろんな人がいる。
いろんな世界がある。
何気ない日常の誰でも普通にやることでも
みんなが何をどうやっているか見えないものは、自分の常識がズレてるんじゃないかと不安になったりもする。
でもそんなのはカレーの味が各家庭で違うのと同じ事だ。
いつも思うんだが、自分は精神を患っていますと宣言するのってどういう気持ちなんだろう。
辛い状況からなんなく抜け出すための通過儀礼なんだろうか。
俺は言えない。
俺が言うことによって、俺の世界に誰かをご招待しなければならなくなるかもしれない。
そうしたらその人も同じくらいダメージを受けてしまうんじゃないだろうか。
自分で認めてしまえば、自分はそこから前に進めなくなる。
あるいは進む方向がズレてしまう。
とりあえずの遠回りかもしれないが。
西田ひかるが結婚発表と同時にそれまでの長い髪をバッサリ切って、センスのかけらも無いミセス丸出しのショートカットでマスコミの前に出てきた。
タレントを売るためなら正直「ここまでやるか」という印象を持った。
久保純子は現役のNHKのアナウンサーのときは原稿を噛まないで読むことのほうが稀で、それ以前に滑舌が致命的に悪かった、というか今も悪い。
彼女も結婚した途端にミセスタレントに転身して、出産後はすっかり磐石の地位を確保した感が強い。
仕事のスキルは大して向上してないけど、結婚によってタレントとしてのステージは確実に上がった。
今の状況からすると、たとえ本人が勘違いしていたとしてもしょうがない。
結婚前の河瀬直美はハイミスというほどの年齢ではなかったが、自分のストレスから来るフラストレーションの捌け口を無関係な周囲に求める、イライラ女の典型だった。
人の人としての営みというのは理性だけで支配されているものではないのだということを改めて知りました。
「改めて知った」のじゃなくて、「いま初めてわかった」の間違いだろ。この期に及んでしょーもない意地を張るんだな。釣りでも釣りじゃなくても、そこだけは譲れないってか。
外堀固められようが、自分から望んでそうなろうが、通過儀礼として通らねばならない。
そうじゃないと大人になれない。
大人として認めてもらえない。
そういう言質がまたひとつ増えた。
http://anond.hatelabo.jp/20071107152115
しかし、便利な世の中になったものだ。
いじめを受けても、一人で悩む必要がない。
こうやって悩みを打ち明けて、そしてそこに同じように悩む人やアドバイスくれる人がわんさといるんだもんな。
いじめってのは、自分「達」と違う誰かを徹底的にスケープゴートにして排除することで、不安定な自分自身を必死に確立したいがために発生する現象だ。あなたはたまたま、自分「達」でないところの役回りを、不本意にもやらざるを得ない状態になってしまったわけだ。
特にあなた自身に原因があるわけでもない。中学校という精神が未発達な世界で、誰かがその役割をしなければならないだけ。別にあなたでなくても良いし、たまたま何かの成り行き上、そうなってしまっただけ。
だからと言ってそう悲観することもない。いじめってのは社会の通過儀礼だからだ。雑菌とか言われたとして、それは別に真の意味で不潔というわけでもない。ただ、自分と違うものに仕立て上げたいだけ。相手が自分を必死になって守りたいから、攻撃することで自分を防御しているだけ。
別に誰かが強いわけでもなく、弱いわけでもない。だから、相手に抗議する必要もなければ、憐れむ必要もない。
今あなたがしてみればいいことを挙げておこう。あなたを攻撃する他者にとって、なぜそうすることが必要なのかを分析してみることだ。
そこには、たぶんあなたを攻撃する積極的な理由はない。大抵の場合、そこにはその人の焦りと不安と、そして他者がいじめの対象になることで、自分がいじめられないという偽りの安心感しかない。そして、そういう視点で接してみればいい。そこには実は壁なんてものはないのだ。
壁の高さを感じたなら、またここに来ればいい。
http://anond.hatelabo.jp/20070929131459
遺伝に執着しているというよりも、自分のおなかを痛めた子どもがほしいってことなんじゃないかな。
通過儀礼を経たいとゆーか。
俺自身はべつに養子でもいいと思うよ。ある程度大きくなってからじゃなくて赤ん坊だったらね。
来月から、正社員として働くことに決まりました。好き好んでフリーターやっていたわけではなかったので、採用が決まってホッとしつつ、やる気に満ちています。
2000年 大学卒業・就職氷河期であったこともあって、就職浪人?みたいのをすることに
2001年1月から2003年1月くらいまで 療養?闘病生活。働くことはおろか、日常生活もやっとの生活。もちろん実家暮らし。まさに家事手伝い(できるときは家事を全面的にやってはいた)
2003年4月 ぼちぼち働けそうなので、本屋でアルバイトを始める。月16日勤務(勤務先の都合で働く日数の上限が決められてた)
2004年4月 まだフルタイムで働く自信はなくって、事務のパートタイマー 月から金 10:00から16:00
2006年4月 事務のアルバイト 月から金 8:45から17:30(いわゆるフルタイム)
ちなみに、大学卒業してからもう7年経っちゃってるのをみての通り、30歳になりました。今までずっと正社員として働く機会も自信もなく(あくまで病気の心配が一番大きいのですが)、30歳過ぎて「正社員の経験なし」の人間が、その後果たして正社員になれるだろうか、なれまい。と思った私は、最後のチャンスとばかりに正社員で働く事にチャレンジするのであります。
病気はほぼ寛解しています。ストレス耐性もついてきてるし、仕事の仕方もだいぶ学びました。
いまは、アルバイトだけれど、実際は正社員の人と全く同じ仕事をこなしていますし。もちろん責任とかの違いがあるのはわかっていますが、それよりも待遇の方が違いすぎる環境なのが、現実ですよね・・・
200年の大学卒業の時点で、「自分の専攻を生かした仕事をしたい」なんていわずに、えり好みしないでどっかに正社員として就職してたら、うつ病にはならなかったかなー・・・などと、詮無いことを考えた時もありました。正直、今の大学生が(就職の面で)たいへん羨ましくもあります。
正社員になったからなんだ、ということもないのですが、自分の中で、正社員になれないといつまでも一人前になれない気がしてるのです。けじめというか通過儀礼というか、次のステップへの足がかりというか。
これまでもこれからも、「うつ病とどう付き合って生きていくか」をずっと私は考えなければいけないでしょう。こつこつ積み重ねてきた自信を生かせるように、元気に生きて生きたい。
間違ってもプロポーズ大作戦は見ないほうがいい。
こんなに落ち込むドラマは初めてだ。
思えば俺たちの世代は野島伸司のドラマからこういう類の話に晒されきた。野島伸司は小学生ぐらいの頃か。この頃はまだ馬鹿だからいい。
耳をすませばとかも、ガキが何言ってんだ、ヴァイオリン?はぁ?って感じでやや強引に突っぱねる事が出来たし、あれは大人が見て落ち込むもんだから当時小学生ぐらいの奴には関係のない話さ。
エヴァはご愛嬌。あれにいくらハマッたってちゃんと戻ってこれる。時間が解決してくれるんだ。もう十年前だろ?あれにはみんなやられたし、みんな一緒にちゃんと恥ずかしい思いもして一つ大人になった。通過儀礼みたいなものさ。
最終兵器彼女だって新海誠だってラノベだってハルヒだって、セカイ系だろ(笑)?みたいな斜に構えた態度でクールに受け流せたはずだ。
最近で一番危なかったのは野ブタを見たときだけど、あれは人間関係のメタ化とか、アンチ世界系とか色々とメタファーがあって、その上で落ち込めたからさ、よかったよ。メタファーによって、ああいう友達が欲しいとか根暗な堀北萌えとかっていう、単純だけど根が深い落ち込む要素を曖昧にしてくれたし、脚本の志に共感してるからとか自分の中で言い訳しながら、見れるんだからすごい親切。
んでこのドラマなんだけどさ、みんなが思っている「学生時代に戻りたい」っていう思いをメタファーなんて糞食らえって勢いで、かなり直接的に描写しまくってる。だってストーリー自体がさ、「高校生(時期はモンゴル800が死ぬほど流行っていた時)の頃にタイムスリップして、幼馴染と結婚するために頑張る」って話でその幼馴染が長澤まさみですよ。オブラートに包んでくれよ、こちとら今参ってるんだ。
アイドルドラマってのはピンチランナーみたいな駄作を作るか、相米慎二とかみたいにさ、物語を捻って作家性を出した上で作るのが礼儀だろ。混じりっけなしのマジモノ作ってどうするんだ。
ドラマの内容はあえて詳しく書かない。この文章を呼んで「痛い奴」とか「中二病乙」とか思った人はドラマを見ればいいさ。
けど少しでも共感してくれる奴がいるなら、心の底からアドバイス。
マジで見るな!
先日上司の奥さんからイジメについてのちょっと面白い見解を聞いた。
心的発達と肉体的&社会的身体の発達の速度の違いが、イジメが悲惨化する原因ではないかという話。
もうすこし詳しく箇条書きにして書くと
・イジメというのはなくそうとしてなくなるものではない。成長の一過程で必ず訪れる、通過儀礼のようなものだ。
・以前ならばイジメというのは幼稚園児から小学校低学年程度での現象で、しかもその時は頻繁にいじめっ子いじめられっこの立場が変わるものだった。
・しかし、現在は”イジメが起こる時期”が遅くなっており、物理的腕力や社会的権力がある程度芽生えた中学や高校生の段階になってやっとイジメがおこる。
・つまり心的発達が全体的に遅れているために、それぞれの影響力(腕力や権力)が大きくなってからイジメが起こり、その結果以前とは比べ物にならないほどの、悲惨な状態をイジメがつくりだす。当然、自殺にしか糸口が見出せなくなる子も多くなってしまうのではないか。
という話でした。
「彼女」はクラスチェンジアイテムかっつーの。
初めて自分と無制限信頼及び不可侵条約を結んでくれた相手が出来た時の根拠無き絶頂感(信頼は有限で不可侵条約は4秒で破られて二国間関係の維持にはたゆまぬ努力が必要と悟るのはもう少し後のこと)から得られる一定期間の無駄な自信というのは、はたからみりゃ少々痛々しいけど、うまくいけば妙なコンプレックスをその後も取り払ってくれるクラスチェンジの切っ掛けには十分なり得ると思うよ。別に勘違いが切っ掛けであってもいいわけでさ。一種の通過儀礼。
つか、昔ちょろっとそういう思いしませんでしたかね、あの青々しく痛々しい日々に。先週の水曜日に人類で初めてセックスを発見した事が嬉しくて仕方の無い時に(車輪の再発明という言葉がしばし辞書から消えてるあの時ですよ、ほら!)。