はてなキーワード: 途中下車とは
夕方に届いていたiPhoneのメールを見た時、体中の力が抜けてしまった。
そのままトイレに行って、夕飯は全て吐いた。
食べていることが気持ち悪くなって、胃液しか出ないのに吐きまくった。
頭をどうやって整理したらいいのか、全く自己制御できなくなっていた。
あの細くて柔らかい髪も、真っ黒できれいな瞳も、物静かな喋り方も、全て脳に焼き付いている。
それを知っても、嫌いになれなかった。
私の立場を利用しようと近づいてきたことも知っていた。
彼を愛していたから、そんなことは気にならなかった。
これから、どうしよう。
どうしようどうしようどうしたらいいの。
何を支えに生きたらいいの。
彼がいなくなって、どうやって生きたらいいの。
どうしよう。
ちゃんと歩けない。
頭が回らない。
現実なんて見たくない。
仕事なんかやめて、探しに行かないと。
まだ生きているかもしれない。
本当は死んだなんて嘘かもしれない。
また私の頭を撫でてくれるかもしれない。
死んだことが受け入れられなくて、誰にも言えなくて、矛盾した感情ばかり押し寄せてくる。
この雑誌で彼と知り合ったのに、これから仕事なんてできるのだろうか。
もう嫌だ。
あの子を好きになってしまってからもう12年が経った。
きれいに言えば純情なのかもしれないが、自分でも粘着だなと思う。
「○○のこと好きでしょ?好きなタイプだと思うんだけど」
と言われたことだった。
言われた時点では全く意識していなかった。
それから少しずつその子を見るようになって、その子の事をだんだんと好きになっていった。
電話から大体半年経ったくらいくらいの頃に、その子に彼氏がいることとそれが部長だということを知った。
家庭環境の影響もあってか単に大人ぶりたい年頃だったのか、
と思っていた(思おうとしていた)時期もあった。
部長は真面目で学業の成績もよく決してブサイクではなかったし、若干頭が固いくらいしか欠点は無かったように見えたので勝てないと思っていた。
初めて携帯を買ったときその子は携帯を持っていなかったけど、携帯を買ったと知った日にはメアドと番号をなんとか聞いた。
友達としては仲が良かった(と思う)ので、多少の遠慮はしつつもメールをした。
ちょっとしたやりとりで凄く気持ちが盛り上がっていった。
自分の人生を振り返って、あまりにも不幸な事柄に溢れている人生に希望を持てなくなって自殺しようかと考えたりもした。
でも、その子に告白するまでは生きようと思った。
高三の秋頃、彼氏とわかれたことを知った。
それを知ってしまった俺は、好きすぎて切なすぎて大学受験のための受験勉強に身が入らない状態になってしまった俺は意を決して告白をした、メールで。
もうこの時に、俺は全てに負けていたんだと思う。
振られた。
センター試験直後にたった一人の親が脳梗塞で入院したこともあって、まともな精神状態ではなかった俺はセンター試験に失敗した。
放課後の愚痴こぼしタイムで、その子も含めて男女あわせて7人くらいで一緒にしゃべっていたのだが、恋愛談義になった。
その子が「この中で付き合うとしたら○○(=俺)だな」と言った。
二次試験も失敗した。
志望分野が違うのでクラスは違ったけど、自習室の席取をしてあげたり、図書館で一緒に勉強したりした。
友達に送るはずが間違えて「○○(=その子)が目の前にいて見とれちゃって勉強できない」と本人にメールしてしまったりした。
学部の偏差値としては現役の時よりもやや下になるけど、やりたいこともなかったしその子と同じ時間を過ごしたかった。
秋頃、また告白した。
やっぱりどうしても女の子として好きなんだ、と。
振られた。
「良い人だと分かっているけど友達以上には今は見れない」
と言われ、彼氏がいることを聞かされた。
旧帝の男だった。
模試の合格率はその子が常にAとかBばかりだったのに対して俺はほとんどDとかだったのだけれど、センター試験は俺が成功してその子は失敗してしまった。
それでも諦めずに志望大学・学部を変える気はないということで俺はどうにか二次試験突破できるように学業成就祈願で有名だった神社のお守りを半日かけて買いに行ったてプレゼントした。
センター試験だけでほぼ合格が決まっているような状況だったので余裕があったのもあったけど、好きな女の子が頑張っているのを少しでも何か力になりたかった。
本命の二次試験当日朝、電車の駅で待ち合わせして一緒に受けに行った。
試験後の会話では俺の回答の間違いを指摘されたりしていたのでその子の出来はそんなにまずくはなかったと思っていた。
泣いた。
しばらくはしつこくメールをしていたと思う。
大学生になった記念の飲み会帰りに途中下車してその子を駅から送っていこうとしたりした。
その子の友達に無理を承知で頼んで写真をもらったりもした。
今までその子は優しいから迷惑そうな顔をしなかっただけなのではと思うようになった。
少しメールが減った。
それ以降、数カ月に一、二回のメールと年賀状だけのやりとりの距離になった。
数年後の去年、部活以降も趣味として続けていたもののイベントにその子を呼んでみたら来てくれた。
相変わらず馬鹿みたいに可愛く見えて、天使のように見えて、やっぱり自分は好きなんだということを改めて自覚してしまった。
「相変わらず可愛いね」
「そんなこというの君だけだよ」
というやりとりが精一杯だったけど。
今でもやっぱり時々会いたくなるし、抱きしめたくなるし、近くにいたいと思う。
でも、就職で他県へ俺は出てしまったのに対して、その子は地元で働いている。
一緒の時間を過ごせないからその子に俺を好きになってもらう機会もない。
会う機会もないから会話のネタも無いのでメールも年一回するかしないかという程度。
mixiもその子はログインしなくなったから今どうしているかもわからない。
その子の声、顔、仕草、他人への優しさ、金銭感覚、思いやり、ファッション、常識感覚、その他もろもろ、人生で出会った女の子で最も好きだと断言できる。
その子と結婚できるなら他に何もいらないと思える。
その子のためなら死ねるとさえ言える。
でも、忘れたい。
吹っ切りたい。
前に進みたい。
どうしようもなく好きなのは現実。
付き合うどころか会うことすら非常に難しいのも現実。
その子に会いたいということ以外、人生でやりたいことがないと思えるのも現実。
その子がこの世から消えてしまったら、俺も消えてしまうと思うのも現実。
でも、忘れたい。
切なすぎるから。
まず、私、メス。引きこもり大好きな妻。
来週から大阪に住んでいる夫の父(=以下「舅」「糞爺」)が、自分たちの住む北海道に来ることとなりました。
最初は楽しみにしていました。
それが、今すげ~ブルー憂鬱最悪・市んで頂きたく候という気持ちです。
お得なバスのオプショナルツアーはいっぱいあるが、これを嫁の私が全部調べろと・・・?ざけんな糞爺。市ね。
定年退職してからも、もちろん家事全てするのは自分の配偶者。服もたためない。ご飯も炊けません。戦後生まれの団塊の貧弱なことよ。(ひとのこと言えないけれど)
でも、旅行に持っていく荷物とか洋服とか、こちらへのお土産とかは、全部妻まかせである。
ぐだぐだと愚痴だけかく自分はジメジメした女だよなぁ、と思う。
もともと一人絵を描いたり工芸したり、むちゃくちゃしたいことがいっぱいあるので、正直舅の訪問はうざい。
貧乏で生活力の無い舅が、とにかくあと2週間後にうちに来るのだ。
姑から、「旅行の舅の荷物を発送します」連絡で、衝動的にぶちぎれた。
姑はいまだ現役で家政婦を二つ掛け持ちし、更に料理には決して手抜きしない。
姑マジ尊敬してるよ。こういう生活力のある自分でも稼いで、かといって、偉ぶらない、ご飯も栄養のことしっかり考えることのできる人間に私はなりたい。人間としてあの糞爺にはもったいなすぎる妻だ。姑はマジ尊敬してる。大事なことなので二回言った。
結局、定年退職してお金を稼げなくなった男は去勢されたオスだ。しかも自覚が無い。
都合が悪いとすぐに「赤ちゃんかえり」するだろう。かわいこぶって、うぜー舅。
この人の糞尿の世話は絶対したくないわ。
都合の悪いときばかり逃げてきた、負債をすべて自分の息子たちにまかせた嫌なやつ。
私はすごく冷たいし、わがままだし、すぐ疲れるからもう、頼るな。勝手にしろ。
別にもう年齢が年齢だし仕事無いのはわかってるんだよ。
朝、どうせ早く起きるんだから、姑さんに朝食くらい作ってやれよ。
姑さんが家政婦の仕事に出かけているときくらい、家の中の掃除くらいすれよ。
なんにもできない能無し男。生活力ゼロ。選挙には一度も言ったことの無い馬鹿。気がつけば過去の栄光ばかり(それもくだらん!!)語りだしたらうざいうざい。
ちなみに私の父も、定年退職後、母親べったり。最初は気を使っていたけれど、疲れた。夫が定年したら、妻が一番忙しい。なんで、文句いわないの?今まで養ってもらったから?
そういう人ばかりではないとは、思ってます。
でもね、嫁さんというだけで、親の介護とか世話するとか、これからのこと考えると、ほんとうにネグレクトしたいです。正直、垂れ落ちる糞尿をそのまま放置、床ずれ放置。悪妻と呼べばいい。
老いぼれて使えなくなった爺に嫌われたって全然平気なんだから。
男ふたり。
たしか青春18切符だった。
「なあ、18切符でどっかいかない?」
「え? いいけど、涼しいところがいいな。どっかある?」
夏だった。
「裏磐梯とか、考えているんだけど」
それを聞いたとたんに心が弾む。うきうきして鞄を探す。
「なあ、今からでれる?」
「当たり前じゃん」
そうやって、大宮から東北本線に飛び乗って、ふたりで車窓をぼんやり眺めながら、算段する。途中下車できるから、喜多方まで行ってラーメン食うか、一応ガイドブック買ってきた、お、用意周到じゃん。
「なんか探しておいてよ、任せるよ」
そういってぼくは車窓を流れる畑と建物を見る。送電線を見る。びゅんびゅんと遠ざかっていく東京をただ眺めていると、ふしぎと心が軽くなっていく。暗い薄曇りの街を飛び出して、陽が差す田舎がものすごい速度で流れていくのをただぼんやりと、片肘突いてペットボトルのお茶を飲んでいると陽が差してくる。
「なんかさ、都会って暗いよね」
「あ? あー、ビル多いからな。このへん何もないから」
そうか、太陽を遮るものがないからか。
がたごとびゅんびゅんそれは実に爽快だった。
それが始まりだったか、ぼくは何か暗く雲がわいてきたようなときには、いつも電車に飛び乗る。どこでもいいから場所を決めて、朝早く起きて電車に飛び乗る。それで、自分の住んでいる街から一時的に避難する。
長距離列車はいつもご機嫌で、陽の差すところを突っ走る。
まばらな建物の中を、都会の私鉄に慣れた人間には驚くほどの距離を、あっという間に走ってしまう。
それであっという間に目的地にたどり着く。
新幹線はもっとすてきだ。
宇都宮だろうが、高崎だろうが、三島だろうが、浜松だろうが、ぼくは新幹線に乗る機会があれば、それを逃さない。
改札をくぐって、重厚なホームへ行けば、そこには八戸や山形からの新幹線が滑り込む。スキー客やら、帰省客やら、馬鹿でっかい旅行かばんを抱えた飛行機組やらの間を抜けて、その広いシートに腰を下ろす。
ぐんぐんとした加速が始まり、街が遠ざかっていく。
通常ではあり得ない速度で、ビルがびゅんびゅん駆け抜けていくのを見ているだけでいい。自然に心が弾み始め、爽快な気分になっていく。時速三百キロで移動するのは実に心が弾む。
いやなことなんて、そのビルと一緒にどっかへいく。
きっとこうなんだとぼくは思う。
ぼくは長距離列車で、曇った自分の街を逃げ出し、陽の差す所へ行き、そして超高速で新しい自分の街へ帰ってくるんだって。行って帰ってくると、一皮脱皮した、別の街になっているだって。
そう書いて気付く。
やはり曇っていたのは、街じゃない、自分なんだ。
電車で席に座れることがあまりない。
そもそも荷物が軽ければ立っていた方が精神的負担が楽、と考えているんだけど、
たまたま席が空いていて疲れていて座ったとき、大抵目の前に高齢者とか足が悪い人が近くにいるのを見つけてすごい申し訳なくなる。
立たないことの罪悪感に堪えられない。
けれどいったんタイミングを逃してしまうと、席を立って譲ることがすごくわざとらしく感じて動けなくなる。
ほんとうにいたたまれない。
だれかと電車に乗っているときは、たとえ人数分しか席が空いてなくても
友人に詰めてもらったとしても何の気なしに座って「いい若い者が座っている」ことへの罪悪感とか感じずにすむのに、
なぜか一人だと着席に堪えられなくなる。
(そういえば彼女と電車に乗っているとき、目の前に老人夫婦が立っていたので条件反射的に席を譲ってしまって、
あとで彼女を窮屈な気持ちにさせてしまったことに気づいたこともあった。今思い出した。)
昨日ついに堪えられなくなって途中下車した。
自分の神経質さの問題もあると思う。
でも、他人に席を譲ってあげるために電車に乗っているわけじゃないんだからそんなに混んでいない電車であえて座らずにいるのもおかしな話だ。
だけど周りを見てると、自分ほど席に着くことを大それて考えてる人なんて実際にはほとんどいないことはわかってる。
どうしたら他人に迷惑を掛けない程度に、もっと気楽に席に着けるようになるんだろう。
数年前の夏休み、私は青春18きっぷを使って田舎から東京まで鈍行の旅を楽しんでいた。
ムーンライト(夜行電車)は使わずに、昼の東海道線を乗り継いで、
お腹が空いたら途中下車してその辺の店に入ったりと、一人旅を満喫していた。
やたら車内をうろついていることに気がついた。
たくさんいたので、皆で座れる、空いている席を探しているのかな、
くらいに思っていた。
私は旅のお供であるiPodを聞きながら、パーカーに書いている文字を眺めたりしていた。
やがて、あることに気がついた。
彼らが普通に車内に一人でいる、若い人に次々と声をかけていることに。
うざったそうに彼らを振り払い電車から降りていく人も、何人かいた。
そんなときだった。
私は4人がけの席に座っていたのだが、向かいに、ごぎれいにお化粧をし
ワンピースを着て、ティファニーのペンダントをつけているような
可愛い女子が一人で座っていた。
そこに地味めな女性が二人やってきて、
「こんにちは♪学生さんですか?」と声をかけて空いている席に腰をおろしてきた。
※ノーメークでTシャツにチノパンという適当すぎる格好をした私の存在は無視
↑ | 進行方向 | ↑ |
---|---|---|
窓 | 私 | A |
窓 | 女子 | B |
B「どこまで行かれるんですか?」
女子「え…○○です」
女子「はぁ…」
B「私たちセイカの勉強をしているんです」
A「セイカの世界ってとっても奥が深いんですよ」
B「一緒に勉強しませんか?」
セイカって何だ。と思ったのだが女子もあっけにとられている。
Aはおもむろに小冊子を取り出し、何やら見せながら
セイカって……聖歌だ。
これは明らかに宗教の勧誘だ。そうとは言ってないけれど。
女子は明らかに迷惑そうな顔をしている。
しかしA,Bの二人はそんなことはおかまいなしにマシンガントークを繰り広げる。
ちょうど電車は終点まであと2、3駅まで近づいていた。
彼女が降りると行った駅は終点からさらに乗り継ぎが必要な駅。
そこへ例のパーカーを着た男がやってきた。
A,Bに「やってるね」みたいなことを話しかけ、
「よかったら一緒に僕たちと勉強しましょうね」などと言って
また去っていった。
やはり仲間だったか!
勧誘というのは良くない行為のような気がする。
私は恐れを知らない学生だったので、
「あの、そろそろやめてもらえませんか? 迷惑そうですよ。」
と、iPodを外してAとBに言った。
私のことを空気のように扱っていた二人は驚いた表情で私を見た。
空気がしゃべるなんて思わなかったのだろう。
しかし。
この状況、私は少し仲間はずれにされたような気がしていて
ちょっとイラッとしていたのもある。思い切り不機嫌な顔をして、向かいの
Bを睨みつけた。
しかしそんなことでたじろぐBではなかった。
私の顔を見据えると、
「私たち、キリスト教徒なんです!」
と言った。
;:゙;`(;゚;ж;゚; )ブフォッ!
思わずこんな顔になってしまった。
私は半笑いになりつつ言った。
嘘ではない。だが、キリスト教徒でもない。
聖書に書いてないと思うんですけど」
「いやがってる、なんてあなたにどうしてわかるんですか!」
気色ばむAとB。ほんと空気読めないなこの人たち。
そこへ車掌が通りがかった。
私が何かを言う前にA「大丈夫です!」
車掌は困ったような顔をして通り過ぎた。通り過ぎちゃったよ。
本人たちが大丈夫と言ってる以上、
あんまりこういうの介入できないし難しい立場だよなぁ。
私はAとBを相手にしてもしょうがない、と思った。
「私にはいやがっているように見えます。
正直、どうですか?この人たちの話って面白いですか?
もっと続きを聞きたいと思いますか?
キリスト教っていってもかなり怪しいやつですよ。
嫌ならはっきり言ったほうがいいと思いますよ」
と女子に聞いた。
女子はおろおろしながら私とA,Bのやりとりを見ていたのだが、
「迷惑……です」
と、答えた。
完全勝利。
「じゃあそういうことなので、お引き取り下さい」
「長旅の中大変ですね。でもあんまりこういうのしないほうが良いと思いますよ」
と、私は二人を席から追い出すことに成功した。
女子に感謝されたのはいうまでもない。
降りる駅を相手に教えてしまった女子には
一つ電車を遅らせる等、気をつけるように伝えた。
夏休みも近づき同じように旅をする人たちも増えると思うので書いてみた。
※追記
「私たちキリスト教徒なんです!」はたぶん相手の失言だったと思うけど
(つまり布教活動ではないと言い逃れができる)
反響が思ったよりあって(無視されるか、せいぜいブクマが3つくらいつく程度かと思っていた。無駄に長いし)今日は驚いた。
私はあんな事を書いたけれども、そこまで悲観的になっているわけでもない。今は。あくまで今は、だが。
高校生のときは一番酷くて、小中はほぼ皆勤だったにも関わらず、高校生時は積もり積もった何かがあったのか、突然鬱状態になり学校を休んでしまったことがあった。2ヶ月ほど。電車に乗り、学校が近づくにつれ逃げたしたい思いでいっぱいになり、途中下車して科学館などへ足を運び宇宙のでかさを目の当たりにすることにより「現実なんてこまっしゃくれたもんだぜ」「私の存在なんてちっぽけもいいとこだぜ。皆宇宙から見ればとるにたらないものよ」と現実逃避を決め込みまくったりした後、ついに学校へ行けなくなった。親は心配し、私を精神科へ連れて行った。鬱じゃないかと医者には診断されたものの個人的にはしっくりこなかった。ぶっちゃけ今でも鬱じゃなかったと思う。「何もできない」わけじゃなかったし。実際ネットとかやったり図書館行ったりしてたので、自分では単なる思春期によくある登校拒否、ぶっちゃけいうと甘え、現実逃避、だと思っていた。しかし親は「本とかネットで調べたけど、鬱の人ほどそう思うらしいよ。とりあえず医者へ通いなさい。お母さんもついていくから」といい、仕方なく薬を飲んだり「最近気分はどうかな」と医者と軽く話したりしていた。しかし精神科の病院はやはり考えられているのか、内科や外科と違って部屋の中がしゃれた喫茶店のようになっているのには驚いた。クラシックなど流れたり、いかにも病院の椅子ですよ!といった感じの椅子ではなく木で出来た椅子が並べてあり、診察ルームではまた、アメリカの考古学者の部屋的な(意味不明だが)感じで後ろには木の本棚が並んでいた。少し話して薬をもらったり血液採取したりして終わるのだが、正直、たいした話もしていないし効果なんてあるのかどうか期待はしていなかった。何より自分が「てーか鬱じゃなくないか。医者も気使って鬱ってことにしてくれてるだけじゃね」と思っていた。その中年の優しげな女医さんと話していると気分は晴れたため病院へ行くのはそれなりに楽しみだったものの、親に無駄に労力をかけさせているようで悪い気もした。薬屋の人も「鬱は脳の風邪ですからね。薬を飲めばちゃんと治りますから大丈夫ですよ」とやけに医者と薬屋の人たちが優しかったのは幸いだと今では思う。
その成果かやはりもともと鬱ではなかったのか分からないが、2ヶ月ほどした時先生から「そろそろこないと、出席日数的に厳しくなってくる」と告げられ、「……じゃあ行くか」とあっさり復帰した。後に医者の先生が言うところによると「登校拒否の子が2ヶ月ほどでしかもあっさり復帰というのは珍しいパターン」だそうだがやはりそれは私が鬱ではなかったからであるように思う。
で、そんなこともあったが今では案外平気だ。
恋愛・結婚に関しては、ハナから期待も自分がそうするという想像すらもしてこなかった(諦めているとかいうより、本当に考えた事が自然となかった、という感じである。ほとんどの人が「石油王になる」ということを考えもしないような感じに)ため今でも考えていない。ほとんどの女性が仮に結婚することを当然のように考えているとするなら、私はその逆で、当然のように一人で生きるだろうと予測していたため、そのように動いている(つもりである)。大学もだから医学部にした。食いっぱぐれないためである(まあ医者だからといって食いっぱぐれないとは限らないのだけども)。最悪世界が崩壊しても、医者という技術を持っていたらその技術を売りにし生き延びれるのではないか…と人からすれば大げさな事を考えこうした。何の映画だったか忘れたが、強盗の親分が瀕死で、主人公か何かが医者で、「おい、そこのお前医者なんだろ。じゃあ親分を助けろ。親分を助けたらお前だけは逃がしてやる」的な事を言い、主人公は治した後も殺されない為「まだ様子を見ないと危ない。俺がいないとヤバい」的なことをいいなんとか切り抜けるという図が記憶にこびりついている。何故か。あの影響もあるかもしれない。「暴力を知的技術で回避する」というところに私は大きな憧れを抱いたのだ。まぁ現実はそううまくいかないだろうが(ていうかそんな状況があまり無いだろうが)。
近頃は将来美容整形外科医になりたい気持ちもある。技術を磨き、私のような人をうまく変えられてあげたらばと思う。何か新しい技術が入ってきたとき自分で試すこともできる(実際それをしている医者はいるらしい)。元が酷いからこれ以上酷くなることはないので大丈夫だ。
私のこれからの希望としては、一人でもなんとかなる仕事につき、なんとか一人で暮らしていける生活を確立させ、時々ニ次元に浸り、そのままひっそりと死ぬといった感じである。一人で生きていけるよう、とりあえず今は家事を身に付けている。一人暮らしではないが、家族の料理は大学入ってから全て担当するようにしている。もう二年ほど経ったのでそろそろ脱初心者ができたと、料理は一通り自炊できるようになったと思う。甘いか。最近は「いかに早く・栄養バランスのよい料理をするか」を研究中である。
そして更に贅沢を言うなら、最期は長野の山奥で天気のよい日に川の近くで寝そべりながら眠るように逝きたい。これが出来れば最高だ。そしてそのまま山、ひいては地球と同化していきたい。なぜ長野の山奥かというと小さいころそこへ遠足だったか何だったかで行った際、陳腐だがその自然の素晴らしさに感動したからである。あれはキレイだった。昼ご飯を川沿いで食べたのだが、あまりに自然が美しく、寝そべっていると地面と山とどんどん一体になっていくような気がして感動して泣きそうになったものだった。川が本当に「光っている」。まあ単に太陽の光を反射しているといえばそうなのであるが、それにしても美しすぎるのではないか。こんなところで屍になれたらば、それはどんなに幸せな事かと思った。私の屍は鳥等の栄養分となり、残った分は雨が降ったときなんかに川に飲み込まれて細分化していき、土に流れ着いたり、川底へ沈み川底の土と同化したり、そうして山と一体化していくのだと考えると初めて「死んでもいいな」と思えた。それまでは死が怖かったのだが。まあ……実際には、燃やされ、葬式を開かれてしまうのかもしれないが……いや、待て。一人身だと葬式はどうなるのだろう?この辺もその内調べておかないとな。宇宙葬なんかもあこがれるところではあるが…宇宙にばらまかれた私の灰がどこかの星に着陸したらと思うとワクワクしてしまうな。私を構成していた原子から、他の星で何かが生まれたらと思うとゾクゾクする。というかそれはまるで「生まれ変わり」のようだ。
出来れば最期には井上陽水の氷の世界などを聞いて死にたい。音楽をあまり知らない私が唯一好きな歌手だ。傘がない、帰れない二人、紙飛行機など何度中学生時に聞いたか知れない(といっても、詳しいわけでは全くない。陽水オタからすれば失笑ものレベルである)。高校生のとき、一人で陽水のライブにも行った。陽水と席が近かった。嬉しかった。「ああ井上陽水って人は幻想ではないんだ。本当にいるんだ。今触れようとしたら、係員に止められるだろうけどもしかしたら触れられるかもしれないんだ。実体があるんだ。陽水もこの後何かを飲んだり食べたり、排泄したり、眠ったりするんだ。陽水って概念上の存在じゃなくて、実体が存在してたんだ。タンパク質や脂肪やカルシウムその他もろもろで出来た有機物という実体があったんだ」と当たり前の事をしみじみとかみ締めた。と同時に、その単なる一有機物であるはずのものが、井上陽水という名前を初めとした色々な概念がまとわりつき、下手をするとひょっとしてニ次元のものなのではないかと思わせるほどにイメージ化というか、偶像化したという事のギャップになぜかゾクゾクした。これだけ有名でファンも多く名曲も多い陽水だが、しかし同時に睡眠や排泄等を他の哺乳類と同様に行う、単なる人間、単なる有機物なのだ。その同時に成り立たないようでいて成り立ってしまっている、その二つを含めた「井上陽水」というものの(陽水に限った話ではないのだが)不思議さ、面白さに頭がクラクラした。それはCDなどを聞いているときには余り気がつかないけれど、ライブに行くと「実体」がそこに存在しているのに、観客は皆どちらかというと概念の「陽水」をそこに見ている、という不可思議さを目の当たりにできてしまう。実体のはずなのに、あの実体はあくまで概念の陽水を伝える媒介物でしかない、主体のはずなのに、サブで終わってしまっているという本末転倒さというのか……自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた。いまだ私の中で整理しきれていない感覚なのだ。
そういえば、女子の友達はいなかったのか、とかいてあった気がしたが、友達と知り合いの間のような子ならいた。しかし、私とつるんでいると可愛い子であっても一緒くたに「ブサイク死ねwwww」と罵られてしまうので、妙な距離は常にあいていた。それで女子を恨む気は全く無い。私が逆の立場であれば、私もそうしていたように思う。なかなか学生のレベルで、「でも敢えて友達になるよ!」という勇気を出せる子は少ないだろう。しかもそれだけのリスクを介して得られるものは何かといえば、私という友達である。んな、リスクとリターンが全然つりあってないよって話だわな。寧ろ女子からのイジメは特になかっただけでありがたいことだ。まあ、「ブス視ねw」といってくる男子の彼女とか、その周辺の子は、一緒にクスクス笑ったりはしていたが、その程度ならば中学時代でも既に「その程度の重力……」のベジータ感覚でいられた。それに如何せん下手にそんな男子と私なんぞのために対立して、殴られたりなどしたら洒落にならんし、まあクラスの女子が私を放っておいたのは本当仕方ないことだと思う。気の毒そうに見てくれる子もいたしそれで十分だ。
綺麗な女性を妬ましく思った事はあまりない。嘘だろといわれるかもしれないが、羨ましくも特にない(モテるという観点では、の話だが)。自分に持っていないものを持っている、という観点で「羨み」や「妬み」が生ずるとするならば、美人だけでなく私は際限なく誰かを妬まなければならない。何もその対象は美人だけではない。金持ちや、運動神経のいい人、頭のいい人。キリがない。というかほとんど全ての人は私より何かは秀でているわけで、少しでも自分より上回ってるなら妬むという理屈だと、もうこっちの身体がもたない。妬むのも面倒になるのだ。
私は、恋愛をしたいけどできないというよりも(奥底ではそうなのかもしれないが、無意識レベルの事など意識では判断不可能なのでとりあえず意識レベルの話をする)、恋愛心などが生まれる前に、既に恋愛・結婚なるものを「私の人生には関係の無いことだ」と学習してしまったため、美人な女性がモテたりしていても、関係があまりに無さ過ぎて、ピンとこないのである。妬むも何もないといった感じ。大食い選手権に出るような人を見て、その凄さに感心はしても、でも別にほとんどの人がああなりたいとか羨ましいとか思わないのとおそらく似ていると思う(思う人がいたら申し訳ないが)。「ブスとか言われないで済む」という点では、「美人」が羨ましいというよりも「そう言われないで済む人たち」が羨ましいので、その中には勿論美人は入っているが、かといって特別美人だけが羨ましいわけではない。
寧ろ私が一番羨ましいのは金持ち(の強いて言えば子供)である。金があれば何もせず暮らせるのだから。嫌な事を言ってくる男と会うこともなく環境の(自然的な意味で)いいところで本を読みふけって暮らす、そんなことが可能になるのだから。
私の今までの人生では男、というと前述した彼らしかいないので、美人になったとしても男にモテたところでしょうがない、嬉しくない、という気持ちにしかなれないのである。悪口等を言われない、という点では嬉しいが、モテても嬉しくはない。ま、ブスがこんな事を言ってるのだからお笑いだが。美人が変な男と付き合って、DV被害にあったなどと聞くと心が痛む。あんなに美しい人であるのに、せっかく歩いていても何の悪口も言われず、平穏に過ごせる人なのに、何故自ら火の中へ飛び込むようなマネをするのか……と勿体無く思ってしまう。まあ、しかし、他人の事。向こうには向こうの考えがあるのだろうし余計なお世話というものだろう。
そんなわけでモテない事に特に苦悩はしていないので(多分)、心配してくれた方には大丈夫ですと言っておきたい。
ただ罵倒等されなければそれでいい。何か辛い事があっても宇宙図鑑があるとどこかすっきりする。ま最初言ったとおり現実逃避なんだが。銀河だのなんだのの話をしていると、自分の悩みなどあまりにちっぽけで笑えてくるというもの。地球の歴史などもいい。所詮ぽっと生まれたちいとばかり頭のいい哺乳類の、その中のほんの一部の時代の、更にその中のほんの一部の地域の人間たちがあれこれ騒いでるなど、地球にとってはカスに等しいものだ。地球がちょいとばかりプレートを動かしたりちょいとばかり温まってみたりするだけで人間など瞬殺なのだ。大体人間の歴史という地球に比べたら大分コンパクトなそれであってもまだ私の苦悩などに比べるとでかい。なんだかんだいって、ブスというだけで殺されないだけでまだおそらくマシな時代なのだ。今の世の中不満足な事ばかりだけれども、それは理想の、あるべき世界を想定し、それに比べ不満足な部分ばかりを見ているからで、やはり過去に比べれば、現代というのはそこそこマシな部類に入るのであろう。ブスや未婚の女が冷たい視線を投げかけられるといっても、殺されたりはしない。殴られれば警察がある。私にも人権が与えられているし、こうして自由にネットで発言できる。だからといって「これで満足」ってわけじゃ全くないが、まだマシな方ではあるはずなのだ。ちょっと時代や国を間違えて生まれていたら、そもそも嬰児殺しにあっていたかもしれない。今その気になれば、車を走らせ、コンビニへ行って、じゃがりこサラダ味を買ってきて食べることができる。それだけでも全然マシではないか。車など庶民の乗るものではなかった時代も、そもそも発明されていない時代もあった。車は好きだからそれは嬉しい。最近ガソリン高いけど。
全くだらだらとした独り言で申し訳ない。こうして書いてみると、色々私にも思うところがあったのだなあと気付かされる。
おれ、腹が弱いからすごく分かる。通勤の何が嫌って途中で下痢ったらどうしようというその一点。途中下車するしかないんだが、トイレはいつも激コミだ。あれだけ人がいれば一定の確率で腹を下すやつがいるし、そいつらがいける場所にそれほど選択肢はないよな。
朝早くない時間に街で「うっ」と来たら、俺のお勧めは古い中規模の雑居ビル。セキュリティが甘くてかつ共同トイレだ。喫茶店が入っているようなところは確実にトイレがある。コンビニは単車以外でお世話になったことはない。
ちなみに、ある程度の運動をするようになったら、だいぶ状態が改善されたよ。
「旅!」と思っちゃうと構えてしまうけど、いつもの通勤電車を逆に行ってみるだけでも立派な旅だと思うよー
本当のところは誰も望んでなどいないが、付き合いで催された忘年会。座敷には20数名の男たちがいて、その中に俺がいた。酒が飲める性質で本当に良かったと思う。ひたすら呑んでさえいれば、箸が転んでも笑えるし、場も切り抜けられる。
便所に向かうとき、間仕切り襖の向こう側を見た。こちらの人数の2倍ほどの若い男女。おそらくどこかの大学のサークルだろう。男女の境がはっきりわかるような席の配置だったが、3度目くらいの小便のとき、その境界はすっかり無くなっていた。ふと奥の方を見ると、笑いながら乳を揉まれている娘がいる。そこは境が無くなる前は男のゾーンだった。
忘年会の後は直帰。電車で向かいの娘を見ながら、酒の勢いで「今ならナンパすればどうにかなるんじゃないか。」などと考える。どうにかなっているのは俺の頭だ。やがて胃の方もどうにかなり、途中下車。駅の便所で口をゆすいでから鏡を見ると、どうしようもない顔が映っていた。しばらくホームのベンチで休み、終電間際の電車で帰った。
最寄り駅に着くと、電車の中では同じく一人だったサラリーマンは妻子に電話をかけており、男の待つ車に向かっている娘もいる。駐輪場は既に閉まっているので、ここからは20分ほど歩かなければならない。
10分ほど歩くともう周囲に人はおらず、家々は完全に寝静まっている。歩きながら今日を振り返っていると、唐突に涙があふれ出た。嗚咽というか、犬が気弱に吠えているような泣き声だった。今も独り。これまでも独り。これからも独り。俺は泣き続けたまま家に着いた。
地方の人にはワカランだろーけどのくだりに釣られてみたつもりなんだ。まぁそういうことにしておいてほしい。
関西だと姫路??京都とか、大阪??米原とか。新快速で1時間半のギリギリ通勤圏。100km超えながら近郊区間内で途中下車できない罠。
大都市近郊区間内発着かつ経路がその区間内のみの場合
大都市近郊区間越えたらOKだからワカランってのも言い過ぎじゃ・・・
別の問題で大都市近郊区間内で100kmって…まぁありえるか。