はてなキーワード: 寄り合いとは
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51596567.html
>重税国家でサバイブするコツは、貨幣システムが介在しない生産と消費を心がけること
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091012/p1
を見て「もし日本が250人の村だったら」と考えた。
なんで100人とかキリのいい数にしないかというと、100人ではさすがに親族だけとかそういう風になってしまうので、縁の薄い不特定にならなくなってしまうから。
その小さな村は、何せ他から離れてるもんだから、独立した地域になっており、独自の言葉、独自の寄り合いシステムや、独自の通貨・ソンがある(つまり”国”)。
多くの村民は、村内の他の人と取り引きをして暮らしている。
村外と取り引きをしている人もいる。
小さいながらも、村の何人かは、村の責任者として、橋をかけたり、村を守ったりといった、個人では難しい事をやったり、これからの方針を決めたり、村のおきてを決めたりしている。(政府・公務員)
村内の取り引きは、バーターもあるが、それだけでは不便なので、村政府が刷った「村札」で行われる。
橋をかけたり、港を修繕したり、責任者の収入などは、寄り合い費として村人全員が持ち寄ることになっている。
橋をかけたりするのは、そういう事を生活の糧にしている村人に、通貨ソンと交換に、やってもらうわけである。
あるとき、寄り合い費の総額よりも、橋をかける費用のほうが高くなってしまった。そこで、村の責任者は、村政府として刷った証文、「村債」を村人に買ってもらって、
「これを1枚買ってくれたら、年に○○村札あげるよ、また「村債」はいつ売ってもいいよ」という形で、村民に(正確には村外の人にも)利子のつく借金をする。
・・・と、ここまで考えたけど、通貨量と物価の関係について自分は理解できてないことがわかった。
この後は誰か考えてくれm(_ _)m
村の寄り合いに哲学者が来る。村は腐ったところで、ひとりが科挙にうかるとそれにみんながたかって食っている。俺もそんなひとりだが、村を出たくてなにかを勉強していた。
哲学者は若かった。俺は話を切り出せず、愚劣な連中に囲まれている哲学者に話がしたくてじりじりしていたが、ようやくチャンスが来た。
俺は口火を切った。「あのですね、ベルグソンがわからんのです」
「すげー基本的なことなんですけどね」「ベルグソンの空間てのは同時期のポアンカレとか物理屋、数学者のものと大体同じものについて語ってるんでしょう?」
村の連中は「意気さかんな若者が質問をするのはいいことだ」と内容もわからずに互いに酒なぞを飲んでいる。
今まで、自民党は、55年体制の下、経済政党、現実政党としての側面を示してきた。個別の政策には、賛否両論はあるが、このスタンス自体は非難されるべき点ではない。しかし、自民党にはもう一つの側面がある。それは、保守イデオロギーの体現者としての役割である。
私は、自民党が下野したことで、経済政党、現実政党としての側面が消失し、単なるイデオロギー政党になり下がることを懸念している。
自民党のセンセイ方の中には、勢い余って、単なる右翼と変わらないような主張をするときがある。中山成彬、安倍晋三、森喜朗など。「日教組の組織率が高いところは学力が低い」「美しい国」「日本は天皇を中心とする神の国」、彼らが繰り返してきた発言の背後には、現行憲法に対する苛立ちと、それに連動する、明治以降の近代日本において創造(かつ想像)された、余りにも素朴過ぎる国民国家観(領土、国民、国家が一つになって、国民は単一の存在として把握され、平準化されるべきだという国家像)が垣間見える。中曽根(父)が作成した改憲草案は、近代の産物であり、20世紀前半から中盤にかけて頂点に達した、「国民は一つであり、一つになるべきである」というイデオロギーを露呈している。そういえば、中曽根康弘って、「日本は単一民族である」と発言しているんだよな。書いていて今思い出した。
イデオロギーは、特定の支持者にとっては、ありがたいものである。しかも、一種の洗脳であるので、熱烈な支持を生み出す。妥協が許されない。イデオロギーは、対立する世界を認めない。そのイデオロギーを熱心に支持する者にとって、解は一つしかない以上、複数のイデオロギーの共存は難しい。したがって、論争が集結しない、世界観対立しか生み出さない。これには、なんの生産性もない。
個別政策に賛否はあるかもしれないが、経済政党、現実政党としての自民党は、それなりに評価すべきものがある。
民主党も、今回の選挙のマニュフェストが現実路線へ転換した、と言われているが、政権を担うに当たって、経済政党、現実政党としてのスタンスを取ることにしている様子。個別政策には異論がありうるが、このスタンス自体は、賛成すべき。
しかし、民主党は、参院の勢力構図上やむを得ないとはいえ、社民党と協力する道を選んだ。社民党は、上記の自民党のように、イデオロギー政党である。特定の支持者(絶対平和を愛する人たちなど)しか支持を集めることができない。これは、民主党の政権運営にとって致命的になる可能性がある。
特定のイデオロギーを熱烈に支持する人にとって、妥協は屈辱である。現実に合わせて、政況に合わせて、妥協を選択し続けると、支持が乖離する。これは村山内閣時に起きた、社会党離れである。
あまり知られていないことかもしれないが、成立した法案のほとんどは、自民党と民主党が成立に合意したものである。共産党は「民主党政権の建設的野党となる」とのたまっているが、全く違う。自民党政権の最大の建設的野党は、民主党である。民主党も、自民党の政策のほとんどに最終的には賛成している。政策を遂行する手段、方法には反対する時もあるが、政策の目的自体には賛成している。
はてなで最近人気を集めた「民主党に政権取られてしまいましたが・・・」のエントリ。http://anond.hatelabo.jp/20090906052539
これも法案のほとんどが自民、民主が合意したものであることを忘れている。いわゆるド派手な「対決」法案は、全体のわずか1割以下。年によっては片手で数える程度の時もある。今年の国会は選挙前なので対決ムードを演出したかった様子だが。むしろ、対立が多いのは、「自民党+民主党 vs 社民党+共産党」という構図。法案の成立に最後まで反対する社民、共産の拠り所は、現実ではなく、イデオロギー。
民主党は、思った以上に現実政党、経済政党である。確かに政権を担当していないため、自民党のセンセイ方の現実感覚よりは鈍いかもしれないが、それも程度の問題。今までずっと副委員長や書記の立場だった人が、委員長になる感じ。民主党には閣僚経験者もいるし、現実感覚は、それほど心配していない。2~3年経験を積めば、マシになると思っている。
むしろ、足を引っ張る可能性があるのは、左派イデオロギーの体現者たる社民党である。みずほちゃんが現実に合わせて妥協する態度をとると、社民党信者の支持が離れる。左派イデオロギーを貫徹すると、現実に合わない。民主党300超議席の前には、単なる幼女の我儘にしか映らない。
イデオロギーは単なる世界観対立しか生み出さない。現実の政治の前には優先順位は低い。民主党はそれが寄り合い所帯であるから、イデオロギーを前面に出すと党が瓦解することを知っている。そのため、実は、イデオロギー政党としての側面は、自民党よりも弱い。
下野した自民党は保守イデオロギーにこだわらず、建設的野党として、経済政策などに協力すべき。与党となったみずほちゃんは、現実の前に妥協を許さないイデオロギーを吐くべきではない。それが嫌なら、閣外協力か、共産党と同じ道を歩みなさい。私は、このように思っている。
なお、このエントリを読んで、私が反イデオロギーの立場に立っていると思われるた方へ。私は、多様な世界観が共存することを前提とした上で、政治はできる限り個人の世界観を抑圧も奨励もしない方が良いと思っています。個人が特定のイデオロギーを持つことは否定していません。
私はしょぼい社長業をしているが、どうもまわりの経営者連中を見ていると、苦笑いしたくなる奴が多い。
寄り合いがある時などに、講演者を呼んだりするのだが、人畜無害な人もまあいるんだけど、基本的には反吐が出る奴ばかりである。
中でも、発展途上国の貧困をリアルに伝えるおばさんを呼んだ会はとくにやばかった。まじやばい。
アフリカの子供たちの貧困を救え、とか言われたら、そりゃそうだと普通思ってしまう。反論できない。
しかし、そこには裏のメッセージが込められている。
「お前がうだつが上がらないのは、お前が努力しないからだ。彼らに比べればチャンスは平等だ。」という。
このメッセージは気付きにくいだけに強烈だ。あなたも「自分が駄目なのは努力が足りないからなんだ…」とか、思っていないだろうか。
実は実際のところ、成功において本当の自己選択可能な努力成分は微々たるものだ。一般的に『努力』と呼ばれるものは、自分で変革可能なものでは無い場合が99%だ。『努力』できるのも才能のうち、という奴だ。もっといえば、目標みつけられるのも運だし、見つける前に家庭環境から仕込まれるかどうかも運だ。
成功過程には、良い条件で生まれる運と、何かを担保にしたギャンブルがほぼすべてを占めている。(これに拒絶反応を示すなら、搾取対象として十分洗脳されている)
そして、勝ったらそれを可能な限り守る、それだけの話だ。
この事実を認めることは、成功者自身にとっても恐ろしいことだ。だから成功本の出版によって「自分の成功は人より多くの努力や工夫があったからだ…」という既成事実化と自己洗脳を行う。
しかし成功本などによる自己洗脳よりも効率的なのが、この途上国貧困層支援である。これは、世界レベルの社会貢献という形の懺悔や名誉だけでなく、自分の立場も守れるという、とてもパフォーマンスの良い行為なのだ。
直接的ないわゆる小作農である、国内貧困層に金を蒔いて救ってしまったら、自分の立場がそれだけ危ぶむことを彼らは理解している。
だから、グローバルな視点かつ盲目的に、そうした究極の貧困だけを対象とする。
幸せ観は人生ステージによって変化するだろうが、突き詰めると行き着くところは大体同じで、最大公約数を取るとかなりシンプルだ。
今でも最終的に家族に行き着く人は多い。しかし、かつての名士などになると、さらに地域の幸せまで考えたものだ。家族企業も家族の次に社員の人生を考えた選択をしてきた。国会議員や官僚は地元に利益を持ってくるために働いた。(これは職責からすると問題あるけど)
そうした隣人への貢献が、意識のグローバル化とともに、対象が寄り大きな貧困へとジャンプしてしまったと考えるとわかりやすいかもしれない。
一番貧困なのはどこかを探して、金を投入するのは全く間違い。こういうのは国レベルで行うべきスケールの話なのだ。そんなに気になるなら、JICA等、政府外郭団体はあるのだから、そこで労働力提供したほうがマシである。
そもそも、貧困の度合いをスケールにするのが間違いである。自分の身近さをスケールに貢献対象を絞っていくのがよい。その方が自分も生きやすくなるし、幸せにもなれる。
考えればもっとやることはあるはずだ。
対象を決めて、ただ金を適当に配るこだけでは問題があるだろう。
弱者層はよく『平等』を口にするが、実際は公正を望んでる人たちの方がダントツに多い。どっかの団体が無学を良いことに勝手に便乗しているだけだ。
本当に自由競争が正義だと思うなら、運が無いだけかもしれない人たちの、確率を底上げしてやらないと機能不全を起こすだろう?それを怠るのは欺瞞だよね。
「(グローバル視点で見れば)日本に格差ははない」とか、醜いこと言ってんじゃねーよ。ばーか。
べつにだれに追い抜かれようとどうでも良いだろうが。隣人さえ幸せならさ。そういうのって返ってくるぜ、自分にさ。広く種蒔いてれば、それだけ広く返ってくる。宗教っぽいな。でも人間ってそんなもんだし。結果的に再起不能も防げるし。悪いことなんかどこにも無いだろう。
行政改革による財政再建が、改革を放棄して、足りない銭は増税すれば良い、とりあえず消費税を12%にという話になっているようだ。
骨太の方針も、代を経るごとに骨抜きになり、ついには、羊頭狗肉になってしまった。
企業が従業員を解雇できるようする労働市場の流動化は、公務員を解雇(免職)できるようにするという改革を実現する為に行われた。
しかし、実際には、企業はコストの高い正社員を解雇して派遣にエコ替えしているのに、公務員の免職は、懲戒以外には聞かない。年金未納問題で懲戒免職された人々ですら、看板を付け替えただけの年金機構に採用されている。天下り先は、麻生首相のばら撒きで堂々と復活している。
それもこれも、公務員を使うのに、おだてて高待遇と天下り先を与えるという使い方しかやれない議員ばかりだった為である。民間企業の幹部社員が平従業員に対して行っている、査定によって賃金を上下させ、解雇をちらつかせ、誤解と錯誤を発生させるような言い方で忠誠心を引き出して安価にこき使い、2年11ヶ月たったら解雇というやり方を、公務員に対する統治にも導入するべきなのに、そういった汚れ仕事を実行できる管理職経験者がいないのである。
結局、民間企業で雇用の流動化がおきて賃金水準が低下すれば、当然、税収も減る。減った分だけ、公務員を削減していかなければならないのだが、その路線を、後継者達は進めなかった。それどころか、骨太の方針とさえ名づけておけば、どんな法案・予算案でも衆議院の3分の2が使えるという、悪弊だけが残ってしまっている。
次の選挙の為の公約が、おそらく、骨太の方針の最後となるであろう。小泉氏の政界引退と同時に、自民党の議院における影響力も消え、誰も鼻にもかけない方針となるし、当然、敗北の責任をとって、自民党の総裁選挙が行われるという事になる。誰が下野中の自民党をまとめて引っ張っていくかという点に、興味がある。
この問題は、民主党が政権を担える政党ではなく、民主党単独ではダメ、公明党を始めとするその他の野党との寄り合い所帯にして、空転させて1年くらいで政権を投げ出させるという展開にしなければならないのだが、その仕掛けが上手くいくかどうかにかかっている。
たとえば、宏池会+麻生グループ(81人)が自民党を離党して新党を結成し、野党連合政権に入り込むという展開もありえる。かつての小沢グループが新生党を作り、民主党に野合していったように。野党には政務次官経験者すらいないのだから、与党からの脱藩者がそれなりの人数でまとまっていれば、大臣ポストは象徴的にばら撒かなければならないが、実務は副大臣級でまとめてしまうというやり方で、実質的に政権を維持できるのである。
細川内閣や麻生内閣のように、首相になりたがる軽くて馬鹿な神輿が見つかれば、実現する可能性は高いと思われる。
国民の所得が減少しているのに、歳出が減らないというのは、国民と苦楽を共にするつもりの無い層が、日本国内に発生しているという事である。大臣には人事権者として、公務員の首を切れる権力を与えているのに、それを使わず、軽くて馬鹿な神輿にされている事に気がつかないというのでは、多選規制ですら手ぬるいのかもしれない。
「自信を持ってください」
「友達作りを優先してください」
ここ数年堕ちていく一方だから使える緊急機関を全て遣いこんで事情を話して過ごしていた。得ている収入の三分の一から半分をつぎ込んで、半日だろうが丸一日だろうが潰しても構わない勢いでいけるところはどこまでも行った。発作衝動的に何かするキチガイみたいだから精神系の病院は余すところなく行っただろうし、バイト先で尋常じゃなく手が震えるから検診も欠かさないようにしていた。カルチャー教室も行ったし、寄り合い所にも足繁く通った。それで、俺に言われる事。「キチガイ」でも「病人」でもないじゃん。
ほっとしたのも束の間。気が付くとつまはじきにされて窓際にいる。日向側でぼーとすることで時間も終わる。これじゃまずいからと内輪の集りに混ざるように努力もした。話を聞こうと興味関心を持ったり、合わないやつだと思いつつも必死に刷り合わせた。話が終わる頃、毎度のように自己嫌悪だから反省して言わないようにもした。何言われても放り出さないように歯を食いしばって居続けようともした。
俺自身も「神経質」なだけだと思っている。発作衝動で夜な夜な手の震えが止まらなくなろうが、今突っ立っている場所で何もかもぶち壊したくなろうが、診療やら相談やらを試すだけ試した上でだ。何も俺の主観だけじゃなく、窓口やら診療やらを受けたあとに言われる事でもあった。検査は問題ないし、素行も「酷い」わけじゃない。自分で状況説明出来るんだから、ただ「神経質」になっているだけだよ。
でも、何故かうまくいかない。周りは怖いまんまだし、偉そうとも、話がわかりにくいとも、会話ができていないんじゃないかとも言われる。誰かからは付き纏いとも揶揄された。そのたびに問題点を取り上げて、逐一直そうとも務めた。それとなく聞いてもみた。やはり「普通なんじゃないの?」といわれる。
それでもどこかおかしいのか、俺も周りも終始首を捻っていた。「俺」というキャラで通して毎度毎度面かけるか、そもそも面倒見させるのはお門違いだからやめようとも時には行き着いた。慣れたやつほどキャラで通せるけれど、どこか申し訳なさがあった。やれることはやっておきたいよなと考えを改める事もあった。反面、どこか全員そろって叩いているんじゃないかという「被害妄想」に陥ることもある。
誰にだってあるそうだ。俺もまた誰にでもあると思う。
だけれど、な。俺はどうしたらいいんだ? もちろん、誰も答えてなんかくれはしない。誰にも答えなんかわからないだろうし、どうにかできるものならもうとっくにやっていただろう。自分で考えろなのかもしれないし、すぐに出るのなら悩みもしないんだろう。……とか書くと俺とお前は同じじゃないとか返って来るんだろうけどな。
叶うなら一からやり直せればいいんだろうが、俺が一からやり直したら今より酷くしそうだ。こういうやつは他にもいるんだろうか?
http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200904200014a.nwc
創造力にあふれ、発想も大変ユニーク。民主党の安全保障論議を取材していると、しばしばこんな皮肉を言いたい衝動に駆られる。
北朝鮮によるミサイル発射を受けて開かれた民主党の外務防衛部門会議。防衛省から、発射の誤探知の経緯や秋田、岩手両県に配備された地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の説明を受けると、リベラル系のある議員はこんな意見を真顔で言ったのだという。
「種子島から発射するロケットも、日本の島の上を通るのだろうから、これにもPAC3を配備すべきだ」
出席者の一人は、「あきれるというか…。『世界観』が違い過ぎてとても議論にはならない。でも、これが民主党の実態だ」とため息をついていた。
保守系から旧社会党左派までを抱え、「寄り合い所帯」「混ぜご飯」と揶揄(やゆ)されることが多い民主党にとって、安全保障問題はアキレス腱(けん)だ。
そういえばソマリア沖の海賊対策をめぐって飛び出した意見にも首をかしげたことがあった。2月初旬の部門会議では、自衛隊の派遣に極めて後ろ向きの議員が「イラクで日本人3人が人質になったとき盛んに『自己責任』といわれたように、ソマリアを航行するのは海運会社の自己責任ではないのか」と主張したのだった。それを伝え聞いた官邸関係者が「自衛隊を派遣させないための議論で、国民の生命、財産をどう守るのかの視点が欠落しているのではないか」と訝(いぶか)ったのも無理はない。
しかし、ソマリア沖では3月22日、商船三井の船が高速艇2隻から銃撃を受けた。海上自衛隊の護衛艦が、外国船から救援要請を受け、不審船に対処した事案も3月30日以降、すでに2件あった。求められているのは実態に即した現実的な対応だ。
政府の海賊対処法案に対し、民主党は15日、自衛隊派遣に国会の事前承認を義務付けた修正案の骨子を「次の内閣」で了承した。今後、法案作成と与党との修正協議を同時並行に進めていく考えだ。
最終的には政権政党たりうる海賊対策をまとめてくれると、民主党には期待したいが、もしいまだに党内で「海賊というのは漫画で見たことはあるが、イメージがわかない」(平田健二参院幹事長、1月20日の記者会見)といった認識があるのならば、望み薄だ。
http://anond.hatelabo.jp/20090408135620
横増田だが。
糖尿病患者には隠れて肉などを食べたり酒を飲んで、あげく逆切れする人が多い、というのは親戚の医者と看護士に聞いた愚痴だから訂正は無理。
そういった「愚痴」を他人に話をするときの根拠にするべきではないと思う。でないと以下の二点で人格を疑われる。
愚痴とは、議論をするときと違って、自分の気持ちを吐露し、相手に共感してもらうということでストレスを解消しようという行動だ。その場合、自分に不利になりそうな話は出さない。そうだね、それはひどい、と言った風に共感してもらうためのものだ。少なくとも、聞いている側が「これは愚痴だ」と認識できるほど明確であるならば、これは事実である。さらには、自分は悪くないとか、自分がいかに大変か、と言うことを誇張する傾向がある。それはそうだ。より共感してもらうためにあるのだから。
そういった話であるのだから、話す方も誰にでも言うわけではない。あ、この人ならば大丈夫だな、と言うのを無意識にかぎ分ける。そこには必ず信頼があるわけだ。ましてや看護師や医師といった、法的にも秘密を守るための義務がある事を承知している人々である。いくら特定の人を出さないとはいえ、そういった配慮は無意識にしていると考えるのが自然だ。
これは全く悪いことではない。むしろ、こういった仕組みを持っているからこそ人間というのは正常でいられる。潤滑油のようなものだ。また、自己肯定するためには必要不可欠なものだ。少なくとも何もかも自分が悪いとふさぎ込んでしまうよりはよほど健全である。だから聞く方は、これが愚痴であることをきちっと認識しているのならば、その場だけの話にしておくべきなのだ。
しかしながら、こうしたある意味生理的な、精神のバランスを取る上で出てくるような性質の話を根拠として言いふらす。はたしてこれがいいことなのだろうか。少なくとも、元増田にその愚痴を話した医師、看護師はこのように自らが無意識の上でも誇張した愚痴の話を、言いふらすことは本意なのだろうか。極端なたとえをするならば、あなただから見せるというセックスの場の性癖を、公に話しているようなものだ。
そして、話の出所が万が一割れてしまえば、その話をした人との信頼関係どころか、その人間にも被害を及ぼすことにもなりかねない。
そのような性質の話をほいほいとしてしまう。私はそれが信じられない。ましてや、今回のことはそれを言いふらすことで他人に被害が及ぶ話である。そういった話は、もう少し慎重にすべきである。せめて、愚痴であることと、言われたシチュエーション、そのニュアンス等々を明記すべきだ。それは読んだ人がその情報の価値を見極める上で非常に重要な資料となる。
極端なことを言えば、これだけでは
の区別がつかない。しかもどの段階の話かによって全く確度が違うのがわかるだろう。
インターネットは誰でも誰からでも見ることができる。そのことを自覚していただきたい。
小沢さんのとこがごたどたしていますが、いずれにせよ民主党なんか、なんの思想もない反自民の寄り合い集団に政権わたしていいことになるわけがないです。
とはいえ、安部、福田、麻生と、どうしようもない小粒をつぎつぎと繰り出す自民党に将来はありません。
どうでしょう。この際、野球やJリーグのように、我が国の内閣にも外国人枠を設けて、海外の有能な政治家をレンタルしてきてはどうでしょうか。
もう人種とか民族とか関係ないです、とにかくちゃんと政治をしてくれれば誰でもいいわけです。
トニー・ブレアとかビル・クリントンとかコンドリーザ・ライスとか、自国では一線を引いても、まだばりばりやれるでしょう。
定額給付金とか、タクシン・チナワットあたりを連れてくれば、速攻で実現しそうです。
年棒プラス出来高払いで、公約を実現できれば給料アップということにすれば、連中も本気で取り組むでしょう。
どうですか、この案。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090203-00000605-san-pol
民主党は3日、外交防衛部門会議を開き、アフリカ・ソマリア沖の海賊被害の実態について外務、防衛両省、海上保安庁からのヒアリングを行った。自衛隊法の海上警備行動で海上自衛隊の護衛艦を派遣するとした政府の方針に社民、国民新両党などが反対する中、民主党は依然態度を明確にできないままだが、会議では、いまさらのように「海賊の定義」を問う質問が飛び出すありさま。同党の海賊問題への対応の遅れが一層浮き彫りになった。
民主党は昨年12月に2回、部門会議で海賊問題について議論したが、年明けから政府・与党内でソマリア沖への自衛隊派遣論議が熱を帯び始めてからは初めての会議となった。与党が海賊対策プロジェクトチームを8日から13日の日程で現地視察のためにジブチやバーレーンに派遣するほか、自衛艦派遣の根拠となる海賊対策新法の整備に向けた作業も進めているのに、民主党はようやく対応の検討に入ったわけだ。
しかし、この日の部門会議では、足踏み状態から脱出したとはいえる議論はなかったようだ。藤田幸久参院議員が「海賊の定義は何か。犯罪なのか。テロなのか。組織性はあるのか」と外務省に問いただせば、谷岡郁子参院議員も「まず民間船舶会社の自己責任と国の責任の区別をきちっとすべきだ」と主張するなど、「そもそも論」が噴出したのだ。
同党は政府が新法を提出することを見据え、3月中にはスタンスを固めたい考えだが、寄り合い所帯ゆえに党内でも見解は真っ二つに分かれており、意見集約は容易ではない。自民党からは「民主党はいまごろ『海賊って何だ』という議論をしていて、大丈夫なのか」とあきれる声が上がっている。
どちらかといえば、かつては「二院制とか、意味ねえ」と思っていた。
しかし郵政選挙で衆議院の2/3を取った自民党が、その数だけで無茶苦茶な法案を提出し始めるわ、政権はたらい回しにするわ、まともに議会で話し合うこともせず強行採決を連発するわ、その上結局郵政反対派も粛々と自民出戻ってくるわ、と、ひどい有様だったところに、ちょうど参議院選挙が来て心から思った。
「ああ、チェック機能というのは、こういう非常の際に、はじめてそのありがたさが分かるものなのだ」、と。
私はかつての己の不明を恥じた。どちらかというとそんな非常時を招来させてしまったことを一人の大人として恥じる方が先かもしれないが、とりあえず胸をなで下ろした。
なんでこんなエントリを書くかというと、「参議院が害悪である理由:http://d.hatena.ne.jp/iteau/20081225/p1」を読んだから。ハッキリ言って一般論にぼかして書いているが、自民に優越していて欲しいというごくごくポリティカルな意識を背景に書いているとしか読めない。そういう語り方を、確かご本人は批判していたと記憶するのだが。
とりあえず、一般論としても批判しておくと、参議院と衆議院の大きな差は「解散」の有無にある。すなわち立法府と行政府の間に「ズレ」が生じていると感じるなら、速やかに解散して現時点での民意を問うことができるしそうするべきだ。それこそが衆議院の機能であって優越性の根拠でもある。
「ねじれ国会」をさんざん揶揄していたマスコミは基本的に馬鹿であって、国会がねじれて膠着状態になったときそれを解決する手段が「解散」なのであり、その手法を「党利党略から否定し続ける」内閣及びその所属政党こそが、国会の膠着状態に関する最大の責任者だ。衆議院とは「解散して民意を問うことができるから参議院に優越」しているのであって、「解散して民意を問わない衆議院」には存在価値がない。もちろん、国会議員たるもの始終解散に追いまくられては仕事ができない。だから解散の無い議員、という存在は必要で、それが参議院だ。すなわち「ずれを認識しながら解散しない衆議院は参議院に優越しない」。エントリ作者は「解散しない衆議院は害悪だ」と主張するべきであると思う。作者は
現状のように、両院で多数党が食い違っている時、日本のシステムでは、政府と議会が統一しているという議院内閣制のせっかくのメリットも生じず、かといって大統領制ではないので行政府は議会から独立しておらず、政権の無秩序化が生じる。
それをシステム上の欠陥と称しているが、こういう状況になれば速やかに解散するというのが本来の「システム」ではないか。従って論旨に従えば、欠陥とはこの状況でも政権に居座り続けることが許されるという方向について言うべきだと思うがどうなのか。
ついでに言うが、とりあえず自民は一度4年でも5年でも、政権を放棄するべきだ。ポリシーの異なる党の余勢にすがってみじめに政権に居座り続ける姿に、知り合いの元自民支持者は泣いているぞ。なんのかんの言って戦後50年日本を運営してきたそのポリシーには敬意を表するが、いずれにせよそれだけの長期にわたって政権に止まり続けることからくる弊害は、今やどうしようもないレベルに達している。
二世議員を廃せ、利権主義者をたたき出せ、そして保守中道の左派右派が現実主義的に対立するまともな政党として出直せ。
どうせ民主の寄り合い所帯は4年も持たないことだろう。多分、本当のところ今の国民が求めているのは、とてつもない新党とかではなく、まともになった「新(真)自民党」なのだと思うぞ。
まあそんなオレは共産党支持者なわけだが、「確かな野党」の向かい側には「確かな与党」があるべきだ。その意味で応援している(笑)。
ウチの場合も、いろいろあった。というか、ある。
それぞれの親同士で、近くに家を建てて住んでもらい、いざというとき面倒も見て欲しい、みたいなところがある。
ウチの場合、やっぱり分家として近くにウチをたてて欲しい、と思っているフシがある。
ヨメのほうも、同じようで、、家でなくてもマンションでもいいからやっぱり近いところに、というフシがある。
近所まわりのつきあいとかも、たいへんですよね。
村の寄り合いとか、葬式とか、ヨメがちゃんと出て行って手伝わないといけなかったり(やって当たり前、
やらんけら村八分)、行事なんかも参加するのはヨメだったりする。
主は仕事だとかで平日は遅いし、休日は仕事優先だったりして子育てもあまりできないだろうし、鬱だ氏のう、、
ってな感じになることは必至だな。
それ考えると、独身は気ままでいいよね。
二点だけ。
(1)「空気嫁」と"politically correct"
そういう問題がないとは言わないが、"politically correct" っていう言葉が英語にもあるように、程度の差こそあれそういう話はどの社会にも存在する。それは言語の問題じゃなくて文化の問題。
こちらの誤解だったら申し訳ないけど、まずここで言う「politically correct」とはその場のpoliticsに対する配慮からより適当と考えられる(correctな)言葉遣いを選ぶ、という意味で使っているわけだよね? 場のpoliticsへの配慮というのは、たとえば英語圏にも(程度の差はあれ)存在する、と。けど、そこで言うpoliticsというのはその場にいる人間間の力学に依存するのか、それとも純粋に場に対するそれをも含むのか、よく分からない。たとえば秘境の聖地とされる場所に一人で訪れて、その場の空気と一体化する…というのは(それが自分にとって損か得かという問題とは無縁に)politicsと呼べるのだろうか。ちょっと説明が欲しい。
(2)「議論をしない言語」について
議論をしない言語なんてあり得ないよ。
「忘れられた日本人」宮本常一(http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3316410.html)読んでみてくれ。かつての日本の田舎で普通に行われていた「寄り合い」では、「議論」は行われていないのに参加者が全体で「空気」を作り上げることで「決定」がされていた、という話が書かれている。現代の職場の「会議」と称するそれと比較してみるのはなかなか面白い。
また別の話であるが、アフリカのある部族ではもめ事が起こると双方が節に合わせて自分の主張に沿って歌うという解決法を取るという。最初は双方の主張が全然違うから双方の歌声は唱和しないのだが、お互いが歌いながら相手の歌に合わせようと努力し合って、最終的には双方の歌が唱和したところで問題解決、というやり方をするそうだ。これも「議論」とは呼べないと思うがどうだろう。
要は「議論をしない言語(文化)というのはあり得る」ということなんだけれど。
吉田アミさんなんかに典型だけど、「何かを嫌いっていう時間に好きなものを楽しむ努力をしたい!」みたいな発想がアニメファンや音楽ファンやらマンガファン――要するにサブカルチャー好き全体に広まって行ってる様子なのかしらん。東浩紀さんも昔SFセミナーでトラブルがあったときに「批判がしたけりゃ自分がいないところでやってくれ」みたいなことを言ってましたっけ。なんだかなあ。
たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。そこには成長がない。「成長」という言葉遣いに抵抗があるなら、「変化」と言い換えてもいい。ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接するときには、意識的にしろ無意識的にしろ何がしか今の自分からの「変化」を求めているのじゃなかったのかしら。現状維持したい、価値観を自閉したい、似たもの同士で寄り合いたい、という気持ちがサブカルチャーを鑑賞する姿勢として一般化していくのだとしたら、それは悲しいことだとしか僕には思えないのだけれども。
あと、批判的な物言いというのは、必ずしも「俺はお前の好きな○○よりもっと素敵な××を知っている」という優越感ゲームだけから出るものではない、というのはこの場を借りてちょっと書いておきたい。批判的な物言いをするときには、必ずしも具体的な何かが脳裏にあるわけではないのです。自分もまだ見たことがない、いつか見たいと願っている夢想の対象、イデアルな名作を想定して批判する、ということがありうるの。ようするに「ないものねだり」。「ないものねだり」を子供の物言いだと言ってしまうのは簡単で、批判的な物言いを嫌うひとが多い理由の一因もそこにあるのだろうけれど、「ないものねだり」があるカルチャーを前進させたケースも少し歴史を紐解けば多々ある。「ないものねだり」は「ないものねだり」としての機能をこの世界で果たす限りに於いて存在意義がないわけではないのだ。えーと、要するに知識があるから批判するんじゃなくてよくわからん理想を抱えてるから批判するのです。それを「優越感」だと断言されてしまっては辛い。
……あー、オン書きだとぐだぐだになってきたな。ともあれ、批判的な物言いを頭ごなしに嫌うのもなんだし、「目に付かないところでやってよ!ネッ広なんだから!」みたいな物言いを返しちゃうのも虚しいよ、と。そんだけ。
思いつきで煽り蛇足。
そんな「批判されるの嫌」派のみなさんが大好きな『まなびストレート』って、他人とまともにコミュニケーションできない奴が勢いと主人公補正で世界を革命する話だよね。作品内の異物も全部乗り越えられるためのマッチポンプ的存在で、本当にどうしようもないことは作品内に存在してない。なんだかなぁ。『まなび』自体は批判されるべき作品ではないとしても、『まなび』と批判嫌いの「まなびファン」のセット構造はなんだか非常にグロテスクな気がするよ。
昔、つきあっていた彼女が亡くなったときの事です。
丁度、その当時に元気をなくして家にひきこもっていた時に
以前より親しい女性の友人(学会員)が、創価学会のイベント司会を依頼してきました。学会員になるつもりはなかった事は友人にも何度も話していたのでイベントで仕事をするくらいであれば別に構わないよと引き受けました。自分でも気分転換になればなと思ったからです。
イベントが無事終わり、帰る時に友人が「ちょっとお茶していきません?」と誘ってくれたので近所の喫茶店に行きました。イベントの話もして、彼女が亡くなった話もしました。友人は彼女とも顔見知りでした。
友人は「落ち込んだらダメですよ、前を向いて行けばきっと良い事がありますから」と強く励ましてくれました。
「私たちはこういう時はお題目を唱えるんです」
「お題目を唱えて自分の壁を越えるんです」
お題目?
その時に話が変な方向へ向かっていることに気付けばよかったのですが、彼女を亡くしたあまりに素直に聞いてしましっていました。
そのうちに友人は「もうすぐ知り合いが来ます」と言ってしばらく話続けました。
すると身体の大きいいかつい男性とカワイイ細身の女性がやってきました。二人はどうやら友人の知り合いのようでした。友人は二人に僕の心情や経緯を何故か話し始めました。
「増田(匿名)さん、あんた辛かっただろう」と男性が切り出しました。細身の女性も「気を落とさないでね」と話し始めました。
それ以後「辛い時はお題目を唱えれば必ず救われて幸せになれる」と男性が熱弁で話し始めました。僕は「はぁ・・」ととりあえず友人もいる事から黙って聴かざるを得ませんでした。
やがて、男性が「近くで夕方から寄り合いもあるから、それまで落ち着いて増田さんの話も聴きたいのでちょっと寄っていかないか?」と言い、友人も「行こうよ」と言ってきました。
僕は毛頭より学会には加入するつもりもない事を友人に念を押してついていきました。
その寄り合い所と呼ばれる場所は普通の民家で、地区会長かなんかというちょっと偉い人の家だと説明されました(詳細は知りません)。
和室10畳くらいの部屋に通され、大きな木製の和室テーブルが
置かれていて、そこに座るようにいわれました。
座った対面に大きな仏壇が置かれていました。
(へー、ご先祖様かな?)
学会がどんなものか知らなかった僕は何にも不思議に思いませんでした。
やがて男性が「ま、お茶でも」とその家の奥さんらしき人がお茶とお盆一杯にお菓子を出してきました。
男性が最初に口火を切ってきました。
「増田さん、さっきの話になるけど。人が死ぬってのはやはり避けられんよな」
「ええ・・それはわかってるんですが・・やっぱりどうしてもまだいる気もするんです」
「その気持は、よくわかる。」
「はぁ・・」
「でもな、それでいつまでも落ち込んでいられんのでは?」
「そうですね」
「やはり、いつかは自分の壁を乗り越えねば」
「え・・」
男性は暫く「壁を乗り越えろ」とばかり言ってきました。
「その点、学会に入ってお題目を唱えて自分を信じれば必ず幸せになれるんだよ」
話が急転しました。
「いや・・学会のはなしは・・」
答えましたが言葉がさえぎられました。
「ここにお仏壇があるでしょ?ここにお題目を唱えて自分の壁を乗り越えると信じれば必ず幸せになれるんだよ。」
「なむあみだぶつ・・とね」友人が後に続いて言います。