2009-10-13

もし日本が250人の離村だったら

国債と言うのは借金ではなくて、実は国が発行する株式

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51596567.html

>重税国家でサバイブするコツは、貨幣システムが介在しない生産と消費を心がけること

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091012/p1

 

を見て「もし日本が250人の村だったら」と考えた。

 

なんで100人とかキリのいい数にしないかというと、100人ではさすがに親族だけとかそういう風になってしまうので、縁の薄い不特定にならなくなってしまうから。

 

その小さな村は、何せ他から離れてるもんだから、独立した地域になっており、独自の言葉、独自の寄り合いシステムや、独自の通貨・ソンがある(つまり”国”)。

 

多くの村民は、村内の他の人と取り引きをして暮らしている。

村外と取り引きをしている人もいる。

 

小さいながらも、村の何人かは、村の責任者として、橋をかけたり、村を守ったりといった、個人では難しい事をやったり、これからの方針を決めたり、村のおきてを決めたりしている。(政府公務員

村内の取り引きは、バーターもあるが、それだけでは不便なので、村政府が刷った「村札」で行われる。

 

橋をかけたり、港を修繕したり、責任者収入などは、寄り合い費として村人全員が持ち寄ることになっている。

 

橋をかけたりするのは、そういう事を生活の糧にしている村人に、通貨ソンと交換に、やってもらうわけである。

 

あるとき、寄り合い費の総額よりも、橋をかける費用のほうが高くなってしまった。そこで、村の責任者は、村政府として刷った証文、「村債」を村人に買ってもらって、

「これを1枚買ってくれたら、年に○○村札あげるよ、また「村債」はいつ売ってもいいよ」という形で、村民に(正確には村外の人にも)利子のつく借金をする。

 

・・・と、ここまで考えたけど、通貨量と物価の関係について自分は理解できてないことがわかった。

この後は誰か考えてくれm(_ _)m

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