はてなキーワード: 労働基準局とは
別に面白い話じゃない。
25歳、男。
工業高校出て、専門学校行ったけど色々あって、工業高校の先生に頼んで就職した。
その会社で割と居心地は良かった。今思い起こすと、だけど。
自分が「使えない子」だったのが悔やまれる。
そもそも働きたくなかったし、会社で何をするのかとかもよく分かってない。
事務所に居るときは、基本的に「仕事は無くても自分で考えて仕事しろ」
上司に何か聞いても「今の君に預けられる仕事は無い。資格かなんかの勉強すれば?」
先輩方は「掃除でもしてれば?」「掃除するなら仕事しろよ」「俺から渡す仕事は無いけど、給料もらってんだから働け」
最終的に自分の机でじっと座って、定時を待つ日々になった。
「おはようございます」「お疲れ様でした」しか、会話ないのが何週間とかざらだった。
たまにコピーとか、データ入力とか頼まれて、時間が潰れて嬉しかった。
時間あるんだから、何かすれば良いのに「必要とされてない感」が凄くて自暴自棄になってた。
現場に出ると「何も分からない」
でも、やることがあるのは嬉しくて、結構楽しかった。
分からないことが多くて途方にくれることもあった。
しばらく続いた現場が終わると、事務所に戻ってPCの前に座る。
現場に行ってたときに気になったこととかを、最初の一ヶ月は調べたり勉強したりする。
でも、すぐに朝からPCの前に座って定時を待ってた。
何ヶ月かおきに現場と事務所が続いた。
ずっと現場に行きたかったけど「費用がかかるからダメ」だった。
現場に行ってた方が何倍も良いと思ってた。
呼ばれないのは、たぶん事務所での勤務態度が悪かったせいもあると思う。良くは無いだろうし。
一日中2ch見て帰ったりしてた。
会話は「おはようございます」と「お疲れ様でした」だけ。
ああ、会話じゃないな。挨拶だけだった。
それに、別に現場に行って何かできてるわけじゃなかった。
昔からやらされる勉強は嫌いだった。
でも、読書は好きだった。
自己啓発を読んでは「明日はがんばろう!」って、出勤して「いつも通り2ch見てた」
それに、居眠りもしてた。
上手く言えないけど「居眠りするつもり無いのに、気がついたら寝てた」ポルナレフ状態。
前の晩寝不足とかそんなレベルじゃない。いつ寝ても変わらない。
寝そうなときは、抵抗することは不可能。
少しすっきりしながらビクっと起きて、何も無かったように仕事を続けた。
午前10時頃や15時頃とかが、多かったから食後だから眠いんだろうとか思ってた。
実際デスクワークで、単調な時くらいだったし。
上司に注意されたときも「ちゃんと寝てるんですが、すみません。気をつけます」としか、言えなかった。
気になって睡眠時無呼吸症候群の検査をしたけど、関係なかった。
改善しなかった。
その時貰った一ヶ月分飲んで、その後行かなかった。
飛行機で移動して、行った事もない地域の支店に勤務することになった。
建前は「他の支店からの応援」
お酒が飲めなくて、そこまで社交的じゃないから、色々大変だった。
特には、自分とは別の支店からの応援者と寮で同じ部屋になった事。
その応援者と同じ部門、同じ部屋、同じ車で通勤。
その人(以下、Aさん)とは、最初にあった日焼肉屋で晩ご飯を食べた。
Aさん曰く
「俺は後輩がふざけたことして、現場仕事バックれたとき、会社まで行ってぶん殴ってやった」
「でも、俺に処分は無かった」「俺は、寮での生活は仲良くやって行きたい」
「少しでも気になったことは、すぐに言ってくれ。俺もそうするから。」
嫌いなビールを飲みながら話を聞いていたが、社会経験の乏しい自分にとって強烈な印象だった。
後半の寮の生活の話はいいと思うけど。
前半を言う必要があるのか分からなかった。
前半を踏まえると、後半も意味をなさないじゃないか。
結局、強い奴には低く、弱い奴には強く当たる。スネ夫を社会人にしたような奴だった。
案の定、毎日のストレスの原因だった。
自分はどうしようもない状態になっていた。
寮は3ヶ月で出た。(異例。普通なら出られない)
引っ越して、安い軽を買って、一人で通勤するようになった。(一人通勤も基本的には禁止)
しかも、居眠りも続いていた。
そして、一日バックれたりもしてた。
確実に「居ないほうがいい金食い虫だった」
頭を使わない仕事を、1日やっても終わらなかった。
量も多少あったけど、集中力が低下しすぎて、何回やっても修正点が出た。
一日バックれの理由も、昨日の仕事が終わらなくて家に持ち帰ったけど、終わらなかったから。
居眠りも、ナルコレプシーを疑ってリタリンを飲んでも、普通に寝てた。
半分覚せい剤っぽい扱いのリタリンで効かないのはショックだった。小麦粉かとか思った。
内科に行っても「居眠りなら前のちゃんと日寝るか、昼休みに走ったりすれば?」で、馬鹿にされて終わった。
睡眠時の脳波とったりしたけど、異常なし。
でも、かくんかくんって居眠りしてた。
そんな時、先輩の一人に心療内科を紹介してもらった。
病院に行くこと自体面倒がだったけど、そこで貰った薬は効いた。
まず、居眠りが無くなった。
コレだけでも、嬉しかった。
そして、仕事が次の段階に入り、デスクワークから現場が主になった。
現場に入るようになって、自分がデスクワークで「何をしていたか」が分かってきた。
自分が居る部署を班分けして、厳しい大先輩と一緒になったが、むしろ嬉しかった。
「その仕事ぶりを盗んでやる!」とか、思ってた。
正直遅すぎたけど「今から挽回してやろう」って思った。
その時は基本的には、すぐ上の先輩と後輩とで3人で動いてた。その後班で動いた。
先輩への報告もしてるうちに、先輩からの指示が集まってきた。
大体の動きが分かると、二人への指示をするようになった。
一方の大先輩との仕事も、楽しかった。
すごい人だったし、自分がやった所を褒められたりしてた。
で、このまま、調子のいいまま終わりを迎える。なんてことは無かった。
Aさんが邪魔してきた。
細かいことは多々あるけど、よくわからない。
たぶん「Aさんを頼りがいある先輩として扱わなかった」からじゃないかと思う。
てか、自分は関わりたくなかった。
嫌いだった。
「教え方」「普段のシモネタ」「毎日聞こえてくる不気味な笑い声(寮に居たとき)」
「フロで湯を抜いた後垢まみれで放置する(最初に洗って入るから、出るときは洗わない)」
全部嫌いだった。
「後輩からは尊敬されたくて仕方ないのに誰も居ない」そんな人に見えた。
(曲がりなりにも先輩の一個上の先輩に対して、指示をすること自体Aの怒りを買っていたらしい)
(「三人で動けとの俺の指示を無視してやがる上に先輩に指示とかありえん!」って、でも自分では必要だった)
自分からは、関わらないようにしてた。
そこが一番の原因だったかもしれない。
「現場の単三電池が切れてるんだけど?お前が備品担当だよな?」
「それは連絡済です」
「いや、今無いんだから、ダメだろう」
「今は使わないよ」
「はい?今必要ないんですか?なんなら発注の確認とりましょうか」
「そうゆう問題じゃねーだろ!取りに行ってでも用意しろよ!」
単三電池はライトか計器に使う奴。
電池が切れても他の機器で代用できるし、緊急で使うなら、あるところにはある。(最悪コンビにもあるし)
けど、自分はぶちぎれた。
その場は、自分は手を出さないで終わらせた。
「コレで合法的にあいつにダメージ食らわせてやる!」とか思ってた。
上の先輩や、出張先の上司にまで「俺は悪くない!あいつがいちゃもんつけてきたんだ!」って、敬語で説明した。
でも、怒られたのは自分だった。
「結局、Aが怒ったんだから、お前が悪い」だった。
その上「回りに喋って面倒くさくしやがって、何してくれてんだ」って、雰囲気だった。
失望と絶望で、余計にムキになった。
結局、上の人から煙たがられる事になっただけだった。
でも、いい出張だと思った。
ある意味、先輩の対応をミスった自分が悪い部分もある。勉強になった。
最後の最後は濁したけど、途中得るものは多くて、次に生かせば問題ないと思ってた。
次は無かった。
まあ、その前に辞めたんだけどさ。
後は薬を飲み始めてから、動けるようになった事が問題だった。
居眠りは収まってたし「いつも飲んでるビタミン剤」だと思うようにしてたけど。
「薬のせいで、調子に乗りすぎたんじゃないか」とか。
「薬なんて飲まないほうがいい」とか。
家族からは心配された。
でも、薬を飲んでから頑張れた自分を、否定されたような気がした。
飲んだ時と飲む前とどっちがいいのか、今でも分からない。
出張が終わり、もと居た事務所でしばらく過ごしていると。
社長から「この先10年の計画」なるものの会議があるらしく、そのための支店会議が始まった。
薬のおかげか調子に乗っていた自分は、割と乗り気で会議に出た。
自分が何かする訳じゃないけど、どんな風に上役達が会議をするのかとか、楽しみだった。
けど、期待はずれだった。
会議の内容は「社長が変なこと始めたから、上手い回避方法考えようぜ!」だった。
期待してたぶん落胆も大きかった。
そんな流れで、支店長と話をした。
支店長のことは好きだった。
結果を出してきた人で、言うことに説得力があった。
感極まったのか、支店長に思いのたけをぶちまけてしまった。
すると「俺の任期は長くない。俺がもう少し若ければ、お前に「少し辛抱してくれたら何とかしてやる」と言えるんだが」
それが答えだった。
気がついたら、辞表を出していた。
こんな所になんて居られない。
誰かをどうこうするなんて、悠長なことやってられない。
ってゆうか、そんなこと無理だろう。
じゃあ、辞めるしかない。
自分でやればいいだけだ。
すんなり辞表は通った。
整理をした後、実家に帰った。
自分勝手に辞めたのに、両親は優しかった。
辞めてすぐの半年は何をしていたか思い出せない。
今年の年明け頃から、遊び始めてた。
6月頃に、薬を辞めた。
医者には通っていたが。
嫌になって辞めた。
副作用があったけど、無視した。
そして今に至る。
最近、何もやる気が起きない。
何か仕事を始めようとしても、その分野の欠点を調べて言い訳の材料にしたりしてる。
ネットで知り合った人と話をしても、その時満足して終わることが多い。
昔から、口だけだった気がする。自分が。
特に実績を残してないし、残せる保証も無い。
とゆうかそもそも、俺のび太だろ。
ダメダメだろ。
何かをやり始めるきっかけを待ってるだけのか。
何だこれ。
待ってるだけじゃ意味ないのに。
自己啓発本は買ってるけど、半分も読めてない。
最近何も手につかなくなってきた。
実際、やりたくないことしないで好きなことできる状態なのに、やること無くて不満とか。
なんなんだよ。
次に動くことのきっかけになればと思って。
あれ、コレすらも、ただの雑記であって、何も変わらないだけなんじゃないか。
この煮詰まりを打破したい。
就職すると、寮に入ると聞かされていた。入ったら生徒の寮だった。生徒の寮に校長以下30人近い教員が住んでいるという凄い学校だった。朝6:15におき生徒に芝刈りをやらせる。芝刈りを自分でやるのではなく、やりたくない他人にやらせるのがこれほどきついとは思わなかった。8:15から学校が始まり、12:45から昼食なのだが給食を生徒と一緒に食べる、高校生なのに教員と一緒に食べるとは思わなかった。必然的に休みは空きの時間にとるが、1時間はない50分。そして放課後は部活動。6:00に部活動が終わるとまた給食を寮生と食べる。そして終わりと思ったら大違いで、寮の委員会活動というのがあって7:00位から始まる。その後生徒が勉強しているかどうか見回って10:00の消灯を確認して完全に仕事が終わる。日曜日はだいたい部活動があるのでとくに休める日はなかった。数年後に2週に一回土曜が休みになったので少しは休めるようになった。
よく労働基準局にチクる人間がいなかったなと思うが、中でやっていて同僚も一緒に寮にいると、それが当たり前に思えてきたから不思議だ。
今その学校も寮を縮小して寮監を置いているらしい。学校が脱法行為をしてはいけないというのが20年前はまだ分かっていなかったようだ。
共産主義だから当然。
その代わり、どんだけ努力してたくさん稼いでも、まったく努力しない奴の稼ぎと同じになるけどな。
創共協定(公明党の横槍でつぶされた)というのがあったから、未来永劫同じ図式とは限らんがな。
どうでもええようなことのような。
共産党の一党独裁になったら、今以上の警察・官僚国家になるような。
なら、なんで拉致問題の調査をしていた兵本氏の査問なんかやったんだろうね。
「完全再現!北朝鮮拉致…25年目の真実 消えた大スクープの謎!! 」
なんてのが、あるけど。
・アンチ中国(60年代、中国から工作活動を受け、中国共産党と大喧嘩→断交
それ以来中国からの内部工作に一番敏感に拒絶する政党。中国共産党も日本共産党だけには工作はもう不可能だと思っている)
これはどうでもいいな。
どっちも、大した力がないことには変わりないし。
派遣会社自体は、多様な働き方を認めるためにはあっていいんじゃないの?
これは、派遣会社を禁止したところで、解決するもんでもないだろ。
質問しただけで何か変わるん?
少なくとも、「反戦平和」を掲げている今の共産党とは矛盾するよな。
あと、
日韓両国は、九八年の新日韓漁業協定で竹島の領有権問題の決着を事実上棚上げし、周辺海域を「暫定水域」とし、日韓の入りあい操業をおこなうことで合意しました。日本共産党は、この新協定を現実的な解決策として賛成しました。
だそうだけど?
だいたい、今どき領土問題こじらせても、何の得になんのよ。
自衛隊が軍隊であると主張することは、即ち違憲であるということ。とても容認してないんじゃないの。
容認してないけど?
今度の綱領は天皇制、自衛隊を容認したの?
いいえ、違います。「容認」って「よいとみとめて、ゆるすこと」(『広辞苑』第五版)ですよね。日本共産党は、天皇制や自衛隊を「よい」ものだとは考えていないし、民主主義の精神や人間は平等という精神から、天皇制をなくす、「戦力はもたない」と定めた憲法九条に違反する自衛隊もなくすという立場に立っているんです。
天皇制について、綱領は、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではな」いと書いています。そのうえで、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針をうちだしています。
共産党自ら、容認じゃないと言ってるが。
しかも、廃止を目指してるし。
レイシストのヘイトスピーチは、もう放置できんところまで来てるしな。
もちろん、法名にふさわしいように、表現の自由の過度な制約にならないようにすることは当然だけど。
ま、釣るならもっといい餌にしてくれよw
生活保護の人を叩く記事を見て思うこと。
それはなんつーか生活保護が悪いんじゃなくて、どうみてもそれ以下の生活を強いる状況の方が悪いわけで。自分の方が我慢してるとかマゾヒストの自慢大会かよ。
とりあえず生活保護以下の給料でやってる奴は最低賃金とかそういうのを加味した上で、企業に金寄越せ給料上げろ運動をしたほうがいいんじゃないのか。それやると労組だのオルグだの古の亡霊がうざいからさ、とりあえず、労働基準局真面目に仕事しろ方向で。正社員をあれだけ保護してるのはそうしないとどんだけ企業が横暴になるかって話であり、とりあえず簡単なのは派遣労働者を正社員と同待遇とする、と労働法で一文入れりゃいい。誰が出す金だって?んなもん、年収一千万も貰ってる社長どもが考えろよ。頭いいんだろ?
昔「ただで働く労働者が欲しい」とほざいて三十万の靴はいてたバカ社長がいた。なに考えて生きてるのか、旨い分だけ脳みそはウニの方がましだ。ウニの味噌は内臓だというつっこみはともかくとして。
あと、自分は自分の貰ってる金の分しか働かない、というのを大概徹底したほうがいい。1000円の労働できる奴が800円で働いちゃいけない。
長文で失礼。
大型免許持ってるけど4トン配送だった。
酷い職場だった。
福利厚生もあるように言われたのに無し。
給料は言われた額より1万少なかった。賞与なんて存在しない。
入って1ヶ月は仕事内容が安定せず、青果を中心にさまざまな仕事をさせられた。
仕事も教えてもらえず、同僚や市場の人間に怒鳴られてばかりだった。
怒鳴られて手伝わされて、私の仕事は誰も手伝ってはくれなかった。
それで遅れるとこっぴどく叱られた。
入社前にリフト運転できませんと言っていたのに。
フォークは乗れて当たり前。
常に急かされ、荷物を落とすと怒られた。
市場の地面はでこぼこで、ちょっと急ぐとすぐに荷崩れした。
いつも遅いと怒鳴られた。自分ではめい一杯急いでいるのにもかかわらず。
受理されず。
社長がお前の為に仕事とってきた。辞めさせるわけにはいかないと言われる。
「運送業は言うこと聞かないからね。辞めるんだったらいいじゃん」
って言われて相手にされなかった。
センターは綺麗だったし、いい人が多かったので職場環境は改善された。
会社の方針で高速は使えない。使うと自腹。
往復は時間的にぎりぎり。
長崎配送は家で眠れたけれど、
休日もほぼなし。半休が4回あるだけ。
何度も運転中に意識が飛びそうになった。
3ヶ月目の終わりにやっと辞表が受理された。
配送が終わっての明け方。信号の少ない国道で軽トラに突っ込んだ。
目は開いていたが意識は飛んでいた。
とっさにブレーキを踏んだが間に合わなかった。
今でもハンドルを握ると、あの衝突した時の衝撃がよみがえる。
脇見運転ということになった。
脇見にしてくれた事を感謝しなければならなかったが、
納得はいかなかった。
最終日、トラックのサスペーションが折れた。
とくに自分は酷い運転はしていなかった。
後々考えたら、重量オーバーで荷物を運んでいた事がわかった。
最大積載量の2倍近く。サス折れても仕方がない。
過積載も、荷主に積めと言われたら、断れない。黙認だ。
そもそもトラックはオンボロで、毎週の如く壊れた。
壊れるたびに社外の整備工場へ持って行った。貴重な休みがいつも修理で潰れた。
灼熱地獄の車内で、疲労と暑さに耐えながら仕事をしなくてはならなかった。
一度休みを潰して修理したけど、すぐにまた壊れた。
1ヶ月ほどその状態が続いた。
サイドブレーキもいかれてた。
荷台で積み卸ししている時に車が動いたことがあった。
慌てて自分が怪我するのも顧みず、運転席に飛び乗って足ブレーキをかけた。
間一髪間に合った。もう少し遅ければ、道路にトラックが落ちてしまうところだった。
夜中の配送にもかかわらず、貨物室の電気がつかなくなった。
携帯の灯りで作業をした。
休みの日に配線をしらべてみると、配線の仕方がめちゃくちゃだった。
前の仕事で機械のメンテやっていた私は、自分で配線し直して修理した。
これだけ働いて給料は20万弱。
人の2倍以上、休み無しで寝ないで働き続けて20万弱。
時間給になおしたらめちゃくちゃ低い。
しかも福利厚生無し。
家の近くには止められないので、知り合いの空き地を借りた。
最終月は文字通り寝る暇もなく働いたのに
死にたくなった。
とにかく自分の予想しない事ばかり起きた4ヶ月だった。
細かい事を書けば書ききれないほど、酷いことだらけだった。
退職時に社長に挨拶に行くも、携帯をいじりながら受け答えされた。
社長は終始こんなかんじの人でした。
しかし、事故った負い目と、辞めた負い目を感じて文句言えなかった。
今考えると、私がどうして負い目を感じる必要があるのかわからない。
理解してもらえないのは哀しかった。
惨めで哀しくて失う事ばかりでつらい事ばかりの4ヶ月間だった。
辞めてからしばらく車を運転する気になれなかった。
あれだけ車好きだったのに、さっぱりドライブに行かなくなった。
挙げ句の果てに車も手放した。車が嫌いになった。
今でも私みたいな状態のドライバーが運転するトラックが、走ってると思うと怖くて公道を走れない。
過労事故が社会問題にならないのは警察や監督署がそう処理し居るからだ。
いまでも過労運転のトラックドライバーが日本の道を走り回っている。
恐ろしい。
この経験で働くのが本当に馬鹿らしいって思えた。やる気を失った。
でもそろそろ働かなくてはやっていけない。
もう二度とあんな職場に当たらない事を祈る。
そしてプロのドライバーに転職しようとしている人にも警告したい。
会社選びはくれぐれも慎重に。
他の職種が選べる状況であれば、悪いことは言わない、ドライバーはやめておけ。
入社式の二日目に会社側から大卒・院卒は二年目以降から裁量労働制で、一定金額の手当て(15時間分かそれ以下の金額)が出るのみで、残業代はでないという説明がはじめてありました。
しかし、実際は8:30~17:15と出勤時間が決まっている上、残業も月100時間ほどあり、早く帰ろうとすると、引き止め、休みの日も休日はないと思えとプレッシャーを与えられるほどです。
また、タイムカードなどもなく、実際に働いた時間(ほぼ毎日8:00~21:00以上)と無関係に月末に一月分をいっせいに定時あがりで記入するように決められており、残業時間を書くと叱責されます。
面接では残業はほとんどありませんと言っていたので、いろいろと考えた上で、就職先として選びましたが、こういった事実を会社側と話し合った結果、こんなのはどこでもやっていると開き直った態度に怒りを感じました。
また、労働組合にも相談しましたが、すぐに人事に呼び出され、労働組合には行くなと言われ、労働者を守る労働組合が労働者の敵であり、信用できないと判断し、会社のすぐ目の前にある労働基準局に申し入れしても、明かりはついているのはわかっていますが、すぐには対処できませんと言われ、サービス労働の事実を知っていて隠しているようで、労働者を守るべき立ち場である機関がまったく機能していないことにショックを受けました。
以上のような経緯で、3月いっぱいで退職したしたが、退職時に会社側を訴訟する覚悟でサービス残業代を請求したところ、幾分かカットはされましたが、請求した90%(6ヶ月:約300時間分)近くはあっさり支払いしてくれました。
おそらく会社側はサービス労働の事実を知っていて経費削減のために隠しているのでしょう。
同期の方々や他の先輩社員の方々(特に若手)も会社を本当によくしたいと考えているのであれば、団体訴訟をする勇気をもってほしいと考えています。
以上、長文ならびに不満ばかりを並べたてて申し訳ありません。
http://anond.hatelabo.jp/20090303025404
2chの「セクハラに耐えてたら恐ろしい事になった」を思い出した。
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-540.html
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-619.html
男→男の事例だから全然まとはずれかもしれんけど、
恐ろしい事になる可能性はゼロじゃないからなんていうか超頑張れ。
相談室の人は分かってるみたいだし、
最後の手段として診断書持って相談室に行ったら対応変わるかもね。
政府機関の仕事の仕方を見て機能していると思う方がおかしいのでは?
また、末端レベルの正社員なんぞ日雇いと一緒(日雇いよりも悪い可能性有)
今の時代、人材が溢れているわけでは無い。
なので、それなりの知識と経験と社交性のある人間にはまず間違いなく中小企業以上の雇用需要がある。
まあ、地域的な差はあるが。
今の時代、ぶっちゃけどの企業も「サービスを実践する人」を正社員で雇用しようと思っていない。
正社員で雇用するのは「サービスを運営、企画、管理」する人だけ。
なので単純労働者(一般派遣もそう)が正社員で雇用されるのは、中小企業以上では難しい。
いくら労働しても、その労働は、だれでもできるように組みたてられた労働なので、スキルとはみなされないのだ。
悲しいことに。