経済に焦点を当てて社会を憂うと、「この数十年間、日本経済は衰退してきた。様々な新技術や規制緩和によって、ある程度の物質的・時間的リソースを得たはずなのに、それらをただ無駄にしてきた。日本の偉い人たちは無能だ」という話になりがちだ。
でも、私はこれに必ずしも同意しない。
私は、日本はリソースを治安や安全に注ぎ込んできたのだと思う。(中抜きによってリソースが目減りしているというのは由々しき問題だが今回は扱わない)
「マジョリティの日常生活において、事件や事故が起きず、おおむね便利で安全な暮らしができるようにする」という方向に日本は特化してきたし、それはまあまあ成功してきた。
それでも事件が起きているし、不安があると言うことはできるが、ある程度の広さの国土全体を、地域差を抑えて安定した治安で保っていることは人類トップレベルであり、今の人類ができる限界に近い成果だろう。
理想をどうのこうのと言ったところで現実にリソースは限られており、それを短期的な治安上昇に注ぎ込めば、他がおろそかになってしまうのは仕方がない。
ここで「短期的な」と言ったのは、今後は経済の衰退していくにつれて日本の治安が悪化していくだろう、という指摘に同意するからである。
今日明日の清潔、安全、安心を選んだために、将来はその安全すらも失っていくことは予想されている。
だいたい、極論すれば安全を追求したければ熱的死したような動きのない社会にすればいいわけで、過剰な安全志向というのはリソース分配の問題を除いても経済や社会の活性化と相反しやすいのである。(念のため言っておくが、ある程度までの治安向上や安心感は活性化に繋がる。一定以上を求めると、平穏という名の不活性に繋がってしまうという話だ)
だが人々は、今日明日の治安の悪さ、今日明日の苦痛の甘受、献身や奉仕的姿勢の推奨などを受け入れられない。
自分や身内が傷ついても仕方ないかで済ませたり、やりたくないストレスを受けることを我慢したり、それをヨシとするなんて嫌だ。
「個人は尊重すべきであり、自由意志でやることを選び、やりたくないことはやらない方がよく、命は大切にすべきで、社会のために個人が何かを捧げよというのは時代の逆行であり、悪しき全体主義に繋がるしゆくゆくはファシズムや戦争への動員になるのだ、第二次世界大戦の教訓を忘れたのか」――と言われれば、社会的地位(≒発言力)のある人ほど抗弁しづらいだろう。
或いは、「苦痛や死傷やストレスを甘受する必要があると主張するなら、お前たやお前の家族から身を捧げてからにしろよ」というのも有効だ。
でも、しかし、だからといって、短期的な治安にリソースを注ぎすぎることで、中長期的には社会の持続性がなくなるし、治安すら失うのだということは変えられない。そこからはがんばって目をそらしている。
日本のかじ取りはどうすべきだ、日本の国民はどう考えるべきだ、みたいな提案は特にない。
だが、日本はこの数十年のリソースを社会や経済の猥雑な活性化ではなくて、平穏で治安が良くて安全で清潔で不快なものと関わらずに済む静謐化に注いできたんだから、数十年が魔法のようにどこかに消えたというわけじゃないよね、って指摘はしておきたい。