はてブコメントで屢々「これはオタクの小児性、幼稚性を批判しているのであって、オタク『差別』ではない」というコメントを見ることがあるが、このようなオタク差別意識の根底には「いい歳をした男が、漫画やアニメにうつつを抜かすのは恥ずかしい」という考え方がある。
それを恥ずかしく感じて表明する人間は誰か、つまり「恥ずかしく感じる主体は何者か」ということを考えねばならない。それは「男性」であり、なかでも「いい歳をしたオッサン」である。特に「他人に対して説教やマンスプレイニングすることが大好きな、中高年オッサン」である。
マンスプレイニング大好きオジサンが、何故、漫画やアニメを恥ずかしく感じるのか?それは彼らが「漫画やアニメなんぞ、オンナ・コドモが熱を上げるクダラナイものに過ぎない」という意識を持っているからである。なお、この時に「オンナ・コドモ」という括り方がされるのも特徴的である。
はてブで「オタクの小児性、幼稚性を批判する」コメントを書き込む人間たちを見れば一目瞭然だが、彼らがそこで批判する対象は、常に男性オタクである。彼らが、女性オタクの小児性や幼稚性を「批判」することは決して無い。何故だろうか?それは、彼らのようにオタク叩きの説教が大好きなオジサンたち自身が、いい歳をした年寄りであり、オタク文化に関する昔の記憶を持っているからである。(そういう意味で言えば、オタク叩きは「近親憎悪」である。大なり小なりオタク文化に近しい人間でなければ、オタク文化に関する記憶など持ちようが無いのだから。)その記憶とは「漫画アニメはオンナ・コドモのもの」というものである。
漫画やアニメのオタク文化が成立するには、多数の女性ファンの力が大きく寄与してきた。これは事実である。昭和の頃からオタクをやっている人間ならば、あの頃の女性アニメファンは、ボルテスファイブやゴッドマーズの美形キャラにキャーキャー言っていたことをよく覚えている。雑誌アニメージュは、ゴッドマーズの美形主人公がベッドから飛び起きる場面を載せて「キャッ!もしかして裸?!」とキャプションを付けたり、ルパン三世やサイボーグ009に宛てた女性アニメファンからのイラスト付きラブレターを掲載したりしていた。
また、現代の萌え絵に連なる絵の描き方も、遡ればオタク文化に参加していた女性たちの感性やテクニックがルーツである。例えば、猫耳が『綿の国星』にルーツを持つのはその一例である。(したがって、現代のオタク文化においても萌え絵的な絵を描く女性クリエイターたちが少なくないのは、当たり前なのである。それは、そもそもの起源からして彼女たちのものだったのだから。)
マンスプレイニング大好きオジサンたちは、女性オタクの小児性や幼稚性を批判しないことは、既に述べた。しかし、それは何も、彼らが女性の意思や主体性や尊厳を尊重しているからではない。むしろ全くの逆であって、彼らは女性のことを心の底で見下しているのである。マンスプレイニング大好きオジサンたちにとっての女性とは、コドモと同じく「人間未満の存在」である。同じ人間未満の存在だから、十把一絡げにして「オンナ・コドモ」扱いするのである。人間未満の存在がクダラナイものに熱中する(ルパン三世やサイボーグ009に恋したりする)のは当たり前に思えるから、わざわざ叩くほどのことではないというだけの話である。最近セクハラで話題になった某ラーメン評論家が、得意気に「自分はオンナ・コドモには手を上げない」と書いていたのと、根っこは同じである。対等な存在として女性を見ておらず、犬猫に優しくするぐらいのつもりで、女性オタクをお目溢ししているのである。
オタク叩きが大好きな高齢マンスプレイニングおじさんたちは、女性が主導権を握る文化、女性が男性に影響を与える文化を憎んでいる。そして、男性オタクの存在は、そのような女性が主導権を握る文化圏の存在を思い起こさせる。それ故に、高齢マンスプレイニングおじさんたちによる攻撃対象になるのである。
女性叩きしてるのは高齢オタク男だろう。
女性オタクが叩かれないのは、 発達障害持ちのいい歳こいて未婚のキモい男=犯罪者予備軍をオタクと呼んでるからだぞ あと男性オタクは女性オタク叩いてる