「矛盾って何でだめなの」と質問されたとき、あなたは答えることができるでしょうか。
レスバトルでは議論が錯綜してくると相手の矛盾についてまるでペナルティをカウントするようにあげつらわれるようになります。
しかしそもそもなぜ矛盾は相手の欠点として指摘されるのでしょうか?その根拠はなんなのでしょうか?
我々は矛盾を指摘されると「矛盾なんてない」と納得させる方向性で弁解する癖がありますが、「矛盾はいけないことではない」という方向性で自分の瑕疵に対する認識を是正させる人がいないのはなぜなのでしょうか?
どうにも矛盾というものに対して、単なる価値観から忌避するあまりでなぜ矛盾がいけないことなのか説明できない人が多いように感じます。
私も同様なので「矛盾 なぜ駄目 知恵袋」などと検索したものですが箸にも棒にも掛かりません。
そこでいくつかの類型にまとめたうえで、それぞれの是非について書きたいと思います。
まさしく故事の通りに「この矛は何でも貫き、この盾は全てを防ぐ」と言った場合、この発言は意味を決定できなくなります。
それは悪いことであるというよりは、「何が言いたいのかはっきりしてよ」と言いたくなる場面です。
ただこういった単なる支離滅裂な主張が矛盾として指摘される機会は多くないと思います。
何か言語的な働きかけを行ううえで矛盾が「不可避的」に発生する場合です。
不寛容な人間がいたとする。この人間に「寛容であれ」と注意したとき、「その注意は不寛容な人間に対する不寛容であり、矛盾だ」と反駁される。
こういった状況に対してメタ不寛容という概念が持ち出され、矛盾を解消する方向で注意の正当化が図られます。
しかしそもそも矛盾は解消されなければならないものなのでしょうか?
不寛容な人間に対して注意するということは、寛容な人間に対してはそれをしないという意味では確かにそれ自身がある種不寛容な行為と言えます。
でもそれをするよりほかに、不寛容な人間の不寛容な行為をやめさせることは困難でしょう。
ある目的に至るための遂行のうえでこのような矛盾に陥ることが不可避であるとき、それは不可避型と呼べます。
この矛盾はいけないことなのでしょうか?「意味が分からない」という類のものではなく、意思疎通に支障を来すようなものではありません。
そもそも目的のための遂行のうえで不可避というなら、仕方ないと考えられるのが合理的な判断に思えます。
自分に非があることを認めたうえで、相手にも同種の非があると迫るような場合を指します。
ある掲示板での実例ですが、擁護派とアンチが言い合う構図が延々と続いていたわけですね。
そこへある人が加わって「おまえらそんな不毛なことしたって世論は変わらんぞ」と書き込む。
両派お互いの立場を主張し、譲らない。それどころか「そういうお前は何なの?」という態度。
物分かりが悪そうな人たちを憂い、不毛さを説き続けた結果、「お前こそこんな掲示板に何時間も書き込んで自家撞着じゃねーか」と言わてしまう。
そこでその人は「矛盾している自覚はあるが一度書き込んだ程度ではお前らは聞かないだろう?だったら一緒に地獄に引きずりこんでやるよ」と言う。
不毛であることを認めてそのような不毛な書き込みをやめたらなば、潔く掲示板を去ろうということも言っていました。
ようするに、私は非を認めるからあなたたちも非を認め省みなさい、ということですね。
不可避型に通じるところがあります。これも意味が分からないというような矛盾でありません。
むしろ、同じ穴の狢になってでも目的のためならば行動していくという点で、目的意識が明確です。
自覚のうえでの矛盾なら、自分を棚上げしてでも何かを成し遂げるという心意気のある矛盾なら問題ないと思います。
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いくつかと書いたくわりには三つしか挙げられなかったのですが、類型化できる状況は他にもあるかもしれません。
まとめると1つ目が正真正銘の意味を成さない矛盾で(しかし悪いとは言ってない)後半二つがそうではない矛盾です。
意味を成さないようなものではない矛盾に対しても、批判したりして口をふさぐような言動は「意味を成さない」と思いますし、矛盾について考えたことがないような人、思考停止した人に見えてしまいます。