ぼくの父はよく本を読む人だった。
過去形で書いているが、存命だし、わりに元気らしい。母からの便りでは、勝手になかなか高額の生命保険に入って、かつ元気ピンピンらしい。ただぼくの中では、父親はすでに過去の人間なのかもしれない。18で実家を離れ、年に数回しか話さない。実家にいた時にも、自分についてもともと多くを語る人ではなかったが、余計に話すことは少なくなった。話す話題も政治のこと。父の憧れる都会のこと。父親の個人的な話は、ほとんどない。
父親はそこそこ裕福な家庭に育っているらしい。あまり詳しくは知らないが、不動産ももっているので、家賃収入がある。が、多額の借金をしていたこともあるようだ。車は常に外車だし、今でもファッションサイトでラルフローレンなどを購入している。60にしては身なりというか世間体を気にしている。ぼくが古着に傾倒したときには怪訝な顔をしていた気もする。
よく父は本屋に連れて行ってくれた。割と硬派な父のお気に入りの本屋が町にあった。田舎の本屋だ。本屋は好きだった。紙とインクの匂いがぼくを刺激した。いつも父は分厚い本をたくさん買って帰っていった。僕にも「何か買いたい本はないか」と聞いてくれた。当時は系統立てて本を読もうと思ったこともなかったし、今とも読書傾向も大きく違う。おそらく父からみたらどうしようもない本を買ってもらっていたと思う。
父はあまり家にいなかった。というか、父親と母親が夫婦で過ごしている姿を見ることはあまりなかった。自営業の共働きで、母が日中仕事をして、父が夜仕事をする。ぼくが家にいる時間は、父親は家にあまりいなかった。ぼくとしても、父と何を話せばいいかわからなかったから、気が楽だった。気が楽だったから、父親とは向き合わなかった。こうしてぼくの家族との距離感が形成されていったのだろう。夫婦で楽しくしている姿も、父親が家族サービスする姿なんてのも、ぼくの家族像にはない。もっとドライな、共同体だった。結局、父親は何を考えている人かわからなかった。
話はぼくの今の生活にスライドする。今、妻と別居、ないしは離婚の話をしている。重くつらい時間だ。
ぼくなりにこれまで妻に尽くしてきたつもりだった。その「ぼくなり」の尽くし方が限界にきてしまった。しんどくなった。夫婦生活に疲れてしまったのだ。
妻には「急にあなたの結論をいわれて困っている」と言われた。本当に我ながら自分勝手だなと思う。何を考えているのかわからなくて、結論だけが出てくる。たぶん、父親もそうだったんじゃないかなと、今、想像する。
ぼくも父に似て浪費家だ。好きなことに、思いついたことにパッとお金を使ってしまう。そのことが原因で何人かの人を悲しませたこともあった。痛い目にあって多少の貯蓄ができるような大人にはなってきているが。そして、ぼくは本が好きだ。常に何かしらの本を持ち歩いているし、活字を読むことに楽しみを覚えている。
あんなにも訳のわからない生き物だった父親。しかしぼくが見ていた父親と、今のぼくはそっくりだ。ぼくは父親が苦手だ。でもそんな苦手な父親に似てきていることに、がっかりする。でも今ならすこし理解できそうな感じがする。
こんなことを考えてもなんの足しにもならない。夫婦での話は今後も続く。妻をひどくがっかりさせることも増えるだろう。そういえば、父親も母親をひどくがっかりさせていたな。幼い頃、母を泣かせて父が家を出て行った。母を慰めた覚えがある。木造の古い家でのことだ。
こう考えると、やはりぼくには結婚をする資格がなかったのかもしれない。大切にしたかったものと上手に付き合えない。つらくなると逃げ出したくなる。ダメな人間なのだ。