人は些細なことで悩み、エネルギーを消費する。その選択が何かを大きく変えることなどないのに、無駄に悩む。この意思決定に、最近疲れてしまった。全ての意思決定に疲れてしまった。もしこれを全部とは行かずとも一部を誰かに委ねられたら、と近頃考えるようになった。
人のアドバイスはいつだって参考になる。俺の自由意志(と思い込んでいる神経の発火現象)とは無関係なものほど、参考になる。この誰かとは、誰か。友人か、家族だろうか。思い当たる人は居る。だけど、彼らは機械ではないし、忙しい。今日の晩飯はカップラーメンとソース焼きそば、どっちがいいかなんて、いちいち聞くのはなんだか悪いし、互いに面倒だ。
常にその判断を手伝ってくれる誰かとは、誰だろう。そもそもそんな人は居ないだろう。そう思ったとき、机の6面サイコロに目が止まった。最近TRPGをして、サイコロをよく振ったからかもしれない。俺の意思とは無関係にジャッジしてくれる誰かとは、このサイコロなのではないかと思い始めてきた。
それで気がつくと、サイコロとの対話が可能か、サイコロを眺めながら考えていた。
以下の文章は、その思考のパンくずをちりとりでかき集めた、そんなものである。
何かを人同様に接して、会話をする。これを考えたとき、イマジナリーフレンドが思い浮かんだ。しかし、イマジナリーフレンドには実体が伴わないらしい。なら、違うか。さらに、イマジナリーフレンドは自分の意思で発言し、自由に動き回るらしい。これも違う。サイコロはそもそも人語を話さないし、自分の意思で転がりもしない。理想はこちらが問いかけたら、1から6の数字で返答する。それだけだ。やっぱり、サイコロはイマジナリーフレンドではない。脳内にサイコロの人格を作ることは、容易ではないし、それは現実のサイコロとは一致しない。そもそもサイコロの目はただの乱数である。それは分かってて、そこに人格らしきものを装飾して会話のようなものをしたいだけなのだ。
ただの乱数を装飾して、会話にする。これには乱数で出てきた数字に意味をもたせることから始めるべきだろう。
人が人語を話せないとき、どうやって意思表明をするかを考える。それは手を使ったジェスチャーかもしれないし、頷きや首振りといった動作かもしれない。これらは、離散的な「YES」「NO」などの表明に使うことが出来ている。これは…そのまま、サイコロの意思表示(と捉えること)にも使える気がする。サイコロの目は1から6。数が多いほど「YES」または「肯定」という表明と捉えたら、サイコロと会話した気分になれるかもしれない。
例えば…
「1」(NO)
「4」(迷うけどラーメン)
「そうなんだ・・・」
これはなんだか、会話してるように見える。
…サイコロの目は乱数なのは知っている。でも会話らしく見える。それが大事なのだ。完全に個人の意見だが、ただの乱数値に選択を委ねるより、人の形をした何かにそれを委ねるほうが、受け入れやすい気がする。だから、会話っぽいロールプレイが必要だと考えている次第だ。
ここまで書いて、この対話の欠点が見つかる。それは、サイコロの人格が支離滅裂になるということだ。同じ質問に対し、全く違う顔をする。当然だ。だって乱数なのだから。これを解消するには、同じ質問をしないようにするか、支離滅裂な人格として愛するか、のどちらかだろう。どちらもハードルは高い。
・・・やっぱり、サイコロと人同様に会話するのは、難しいのかもしれない。
しかし、それでもサイコロの「全てを決めてくれる」力には魅力を感じる。選択を委ねられる存在は、喉から手が出るほど欲しくなる。人の形をしたサイコロが欲しい。信頼できそうな人の形をして、説得力のある顔をして、答え(ただの乱数)をくれる、そんなサイコロが欲しい。欲しい!欲しい!…
この試みはどうかしている。だが同時に、これを考えていると心が穏やかになった。サイコロの「彼」と心を通わせることができた暁には、どんな意思決定にも前向きになれることだろう。それがどんな結果を招こうとも、「彼」との信頼は崩れないし、むしろ強固になるだろう。そこに悩みはなく、あるのは迅速な意思決定だけなのだから。
サイコロとの対話を通じて、何か見えてきたようですな...