Twitterから登録して8年という通知が来た。8年間の間に、10万だか12万だかのツイートをして、親の文字より読んだ長い付き合いのフォロワーも増えた。その間に喧嘩もしたし恋愛もした。数えきれないほどのオフ会があり、趣味だけでなく仕事における将来の進路まで変えるような出会いもあった。
8年の間に、高校生が大学を卒業して就職した。大学生が結婚して出産した。鬱で仕事を辞めそうだった人が、数年休んで別の仕事をはじめた。夫婦の会話を楽しそうにツイートしていた人が離婚した。何人かがこの世からいなくなった。
自分の属性が変わるにつれて、フォローの対象も変わっていった。元気に手首を切るメンヘラの学生だらけだったTLは、ほとんどがどこかの大学の博士課程と、ちょっと社会に疲れた普通の社会人と、病院や作業所、配偶者を通じてなんとか社会と繋がっているギリギリだがそのなかで安定して生きている人になった。あの感情のジェットコースターを見ることは最早ないし、自分も自分自身の中身そのものを語るツールとしてTwitterを使うことはなくなった。
わたしも歳をとったし、みんなも歳をとった。
外向きに"演じて"いた現実の自分と、内なる荒ぶりを赴くままに吐き出していたTwitterの自分が、歳とともに和解し、明らかに同一の存在として言葉を紡ぐようになった。
それは数年間での徐々なる変化であったが、同時にわたしはTwitterにおける匿名性を失っていった。流動性のないTLで、現実世界と変わらないような話題で、仮に実名で発信されたとしても概ね問題のない話題しか選ばなくなった。
内なる自分の中の感情の発露はいつしか枯渇し、気付けばTwitterは若かりしわたしが残した単なる一つの友人コミュニティとなっていた。
そして、言えないことが増えた。
Twitterに限らず、全てのコミュニティはそうなのだろう。今の環境で話題にできない会話をすることを求めて人間は新しいコミュニティを探し、居着き、そのメリットが得られなくなったら去っていく。今ある環境で接点のある人間と持てる共通の話題だけで満足できるようになれば、同じような話題しか展開しない別のコミュニティにもわざわざ属すのは明らかにコストパフォーマンスが悪い。
このTwitterという古き良き友人達が集うだけのコミュニティを、最早特別なわたしを表現する場ではなくなったこの居場所をどうしようか。いつまでわたしはここに居続けるのだろうか。とはいえ新しいインターネットコミュニティを探せるような余力もない。毎日家のように帰還しては、同じようなことを呟き続けながら、少しずつ、それでも人生は進んでいくんだろうなあ。
チラシの裏に書けばいい
顔本仲間でいまだに書き込みしてるのはまいにち蕎麦をうってるおじさんだけになった。タイムラインが蕎麦で埋め尽くされてる。