平成も終わろうとしている今日、今敏監督作品「パーフェクト・ブルー」を昨日視聴した。
私は、今敏監督作品では「パプリカ」が一番好きでパーフェクト・ブルーは二番目に好きなのだが、やはり名作である。
パーフェクトブルーという作品は当時(1997年)には珍しいインターネットやストーカーを題材としたサイコホラー作品なのだが、その恐怖は今でも、いや今だからこそ色濃く感じる。
「あなた、誰なの?」
パーフェクトブルーを象徴する台詞の一つだ。この台詞は主人公の未麻がテレビドラマの撮影中に放つ台詞である。その目線は画面の向こうの観客を捉え、こちら側に訴える。
「あなた、誰なの?」それはもはやインターネットが当たり前になった世の中では忘れ去られつつある感覚かもしれない。ツイッターを開けば私達は毎日画面の向こうにいる他人の呟きを見て、世界の何処かにいる誰かの喜びに共感したり、怒りに賛同したりする。
近年思う。インターネットに居る「誰か」というのは、勿論現実に生きている人ではあるが、現実での人格とは別にインターネットの中でのみの人格を形成している人が多いのではないかと。
ツイッターで多く見られる旦那への愚痴アカウント、これらはほぼ匿名であり、現実の旦那への怒りのガス抜きとして利用しているのだろうが、共感できるツイートには多くの賛同コメントがつく。
毎日息をするように呟かれる旦那の愚痴だけを見ると、あたかもその人の旦那は酷い人物のように見えるが、画面の向こうで実際どのような生活をしているのかは誰も分からない。もしかしたら、子どもも旦那も、その人が作り出した妄想上の産物である可能性もあるのだ。
そのようにインターネットでは、誰も知らない「誰か」がいとも容易く作り上げられてしまう。現実では弱気な人がインターネットでは強気な意見をしたり、性別を偽ったり、実際の生活水準より上に見せた生活に見せたりと、枚挙にいとまがない。
インターネットの書き込みは今や「便所の落書き」ではなく、何気ない一言で人生を変えるほどの現実である。だが、インターネットでは毎日のように人を攻撃し、楽しむ人もいる。
「叩かれて当然のことをしたから」この風潮があまりにも蔓延しすぎているのもあるが、一番に忘れられているのが「実際に画面の向こうには生きている人間がいる」という事実である。
インターネットでは、相手をどれだけ殴ろうが、叩こうが、血は流れないし痛みも感じない。だが、画面の向こうでは血は流れなくとも確実に傷ついている人間がいるのだ。
死ねとクソリプを送る人は、生身の人間を前にして同じことを言えるだろうか。本当に相手が死んでしまったら、死んで当然だと遺族の前で言えるのだろうか。
10年以上フォローしているフォロワーでも、本名も知らない一面も多くある。インターネットで見られる誰かの一面は、その他の面を一生知ることがないままが大半だ。
平成は終わり、令和という新しい時代を迎えれば、インターネット技術は益々発達し、それこそ今敏監督の作品のように夢と現実が交錯するような世界もあながち妄想でなくなる日が来るのだろうか。
そういった世界を前にしてこそ、インターネットという空間において「あなた、誰なの?」という感覚を持っていることは、大切だと感じる。
あなた、誰なの?
What is your name?