物心がついた頃には、すでに文字が読めていたらしい。というのはさすがに大げさだろうけど、それでもひとよりは、読み書きの習得が早かったのだろう。
とにかく絵本を読むのが好きな子供だったようだ。家にある絵本を片っ端から読んで、新しい絵本を沢山強請ったらしい。おかげで実家には、本棚いっぱいに絵本が置いてある。
小学校に入学する頃には、簡単な漢字の読み書きも出来ていた。それ故に、ひらがなのなぞり書きを何十回もさせられる国語の授業と宿題が、ものすごく苦痛だったことをなんとなく覚えている。
小学校には当然、図書室があった。片っ端から、というわけでは無いが、よく本を借りて読んでいた。児童文学を中心に読んでいたと思う。それ以外の本はあまり好きではなかった。
自分は物語が好きなんだ、小説が好きなんだ。と、漠然と思っていた。
中学生ぐらいになると、読む楽しさに加えて、書く楽しさを覚えた。読書感想文を書くのが好きだった。こっそり小説なんかも書いたりしていた。
二十歳を過ぎた今でも、小説を中心に、本をよく読んでいる。自分でも書いてみたりしている。
なんとなく素敵な気持ちになる。
なんとなく安心する。
だけど、今になってやっと、自分は別に、小説が好きだったわけじゃないんだと、気づき始めた。
どこかの誰か、知らない人が書いたブログの記事だったり、小説投稿サイトに投稿された作品だったり。増田だったり。大きな本屋さんや、図書館よりも、何倍も多くの文章を読むことができる。
そうやって沢山の文章に触れていると、時折、ものすごく好みの文章と出会うことがある。一文読んだだけで、心が奪われる文章。次々と読み進めてしまい、止まらなくなる文章。読んでいるだけで酷く安心感が得られる文章。
理由はわからないけど、「なんとなく大好きな文章」と出会うことがあるのだ。そういう文章の中には、意味すら理解できないものもある。何が言いたいのかわからない、内容が伝わってこない、それなのに、なぜか溜まらなく好き。そういう文章と出会う。
絵画とか、現代アートとかに近いのかもしれない。理屈じゃなく、素晴らしいと感じるのだ。
きっと自分は、工夫された文章が好きなのだろう。その工夫が、自分の好みと合致したとき、幸せに感じるのだ。
小説が好きなわけじゃなかった。物語を伝えるために、表現豊かに工夫された文章が好きだったのだ。
反対に、誰にでも誤解なく正確に伝わるよう書かれたような文章は、あまり好きにはなれなかったのだ。
文章を読むとき、芸術先品を鑑賞するようなつもりで文章を読んでいるのかもしれない。さながら、絵画を見るような、音楽を聴くようなつもりで。自分にとって文章というのは、ずっとそういうものだったのだろう。
それに気が付いてから、より文章を「書く」ことに注力した。とにかくいい文章を書きたい、自分が好きな文章を書きたい、と思うようになった。誰のためでもなく、自分のために。
消費者として好きだったものを、今度は自分が生産者となって作ろうと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、それは当然簡単ではない。
絵を見るのが好きだからと言って、絵を描くが上手いわけでは無いように。音楽を聞くのが好きだからと言って、作曲が出来るわけでは無いように。
自分は文章を読むのが好きだが、ご覧の通り、「書く」方はこんな状態である。基本がなってない上に、センスもなく、なまじ変なこだわりが強いばっかりに、ぎこちなさが目立つ読みにくい文章。はっきり言って下手くそな文章。
文章が好きで好きでたまらなくて、ネット上に転がっているどこかの誰かの殴り書きすらも、芸術作品としてとらえている人間の書く文章が「それ」である。
結局消費者はどこまで行っても消費者でしか無くて、生産者とは相いれないのだろうな、と。まあ、自分で書いていて悲しくなるけど、そういう現実も、あるにはあるのだろう。
文章の背後にある、思考の流れが自分好みというか、自分そっくりな時に、「この文章良いな」って思うことがあるよ。 増田の文章も雑なわりに読みやすい気がした。