人々が自分自身で立身し、その財産を管理し、その事業を盛んにして、そうすることでその一生を全うすることができるのはなぜかというと、それはほかでもない、身を修め(=自分の行いや心を整え正し)、知識を広め、才能や技芸を伸ばすことによるのである。そうして、その、身を修め(=自分の行いや心を整え正し)、知識を開き、才能や技芸を伸ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由であって、日常普段の行い、言葉づかいや書道・算数を始めとして、役人・農民・商人・様々な職人・技芸に携わる人、及び法律・政治・天文・医療等に至るまで、およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。人はその才能のあるところに応じて勉め励んで学問に従事し、そうして初めて自分の生活を整え、資産をつくり、事業を盛んにすることができるであろう。そうであるから、学問は立身のための資本ともいうべきものであって、人たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろうか(=人間誰しもが皆、学ばなければならないのである)。
あの、路頭に迷い、飢餓に陥り、家を破産させ、わが身を滅ぼすような人たちは、結局は学問をしなかったことによって、このような(結果をもたらす)過ちを生じたのである。
これまで学校が設けられてから長い年月が経っているとはいっても、場合によってはそのやり方が正しくないことから人はその方向を誤り、学問は武士階級以上の人に関することと考えて、農業・工業・商業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものとし、学問がどういうものであるかをわきまえていない。また、武士階級以上の人で稀に学問する者があっても、どうかすると学問は国家のためにするのだと言い、学問が立身の基礎であることを知らずに、
ある者は文章を暗記するなど瑣末なことに走ったり、空理(=実際とかけ離れた理論)や虚談(=事実に基づかない話)に陥り、その言っている論は高尚であるかのように見えるけれども、これを実際に自分自身が行い、実際に実施してみることができないものが、少なくない。
これはつまり、長い間従ってきた昔からの悪い習わしであって、文明が行き渡らず、才能と技芸が伸びないために、貧乏な者や破産する者、家を失う者といった連中が多い理由である。こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである。学問を学ぶためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今から以後、一般の人民(華族・士族・卒族・農民・職人・商人及び女性や子ども)は、必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしようとするのである。人の父兄である者は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育てる情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。高度の学問に至っては、その人の才能に任せるといっても、幼い子弟は男女の別なく、小学校に学ばせないのは、その父兄の手落ちであることになること。
ただし、これまで長い間従ってきた悪い習慣であるところの学問は武士階級以上の人のことだとすること、そして学問は国家のためにすることだと言うことによって、学費及びその衣類や食事の費用に至るまで、多くを官に頼り、これを給付してくれるのでなければ学ばないと思い、一生を自分から駄目にしてしまう者が少なくない。これは皆惑っていることの甚しいものである。今から以後、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げ捨てて自分から奮って必ず学問に(自分自身を)従事させるよう心得るべきであること。
右の通り仰せ出だされましたので、地方官において、片田舎の身分の低い人民に至るまで漏らすことのないよう、適宜、(学制の)意味を説き明かしてやり、詳しく細かく申し諭し、文部省規則に従い、学問が普及致しますよう、方法を設けて施行すべきであること。