理解されないと日本語読解もできない小学生と煽るのが我が国のインターネッツでは定石であるw
しかし、正確な読解というのはプロの学者でも困難を極めるんだよね。自分が関わる哲学でも誤読は日常茶飯事で、人に指摘されてもずっと理解できないでいることも多い。
そらバカな学者もいるだろって思うかもしれないけど、全然そんなことはない。語学の天才と言えるほど語学に長けた人が後年振り返るとありえないような読解ミスを平気でするの。
つまり、誤読というのは一部の言語力に欠けたバカだけがするものではなくて、誰でも頻繁にやっていることなんだよね。
学問におけるハイレベルな読解と日常会話とではレベルが違うと思うかもしれない。確かに使われる概念の抽象度や馴染み深さ、伝えんとする内容の複雑度には大きな隔たりがある。
しかし、誤解が起きやすい構造は日常会話だろうと厳然と存在しているんだよね。そして問題の本質はそこにあるんだ、抽象度や馴染み深さや複雑度なんかじゃなく。
その構造とは、人は先入観にきつく縛られており、そんな人がテクストに書かれた「価値」を理解しないといけない、という構造だよ。
殆どの文章には価値の言明が含まれている。理系論文だろうと純粋に数式だけで書かれていてその裏に価値の伝達など全く意図されてないものは考えにくい。
そして価値を理解するには、自分自身の価値に対して自覚的でなければならない。これがものすごく難しい。
例えば、女性蔑視している人が性別論に関する文章を読む時には、自分は女性蔑視のバイアスで世界を見ていることを念頭におきながら、1つ1つの文章を注意深く読まないといけないということなんだ。
でないと、結局は自分が正しいことを確認して安心するためだけの読書になり、書き手の言わんとすることは全く理解できないだろう。
先に語学の天才の例に触れたように、語学力がいくらあっても誤読の問題は起きうるんだ。
確かに、日本語能力が欠落しているがために齟齬が起きることはある。でも、それは一部のケースであって全ての場合に当てはまることではない。
誤読の問題は、「誰にでも」「いつでも」起きうる。内容の抽象度や馴染み深さや複雑度に関わりなくだ。だから深刻なんだ。
大学受験の国語において、ロジカルな読解が強調されることがある。確かに論理的に読解することは重要だ。しかし論理はあくまで事実のエラーチェックができるに過ぎない。
価値の(理解の)エラーチェックが直接できるわけではない。価値の背景にある事実の一部をチェックできるだけだ。したがって、価値の言明を多分に含んだ文章においては、
ロジカルリーディングだけではまるで正しく読解できない、ということも多い。論理に凝り固まった人間が哲学書を読むときに冒す間違いの多くもこれに起因する。
つまり、語学力や論理的思考力は必ずしも問題ではない。常について回る最大の問題は、先入観の問題ということなんだよね。
人は先入観から自由ではいられない。しかし先入観を自覚することはできる。先入観を自覚しながら色んなテクストに触れることで初めて人は新たな価値を理解することができる。
それなのに自らの価値に対して自覚的に生きていない人間が殆どである。そればかりでなく自覚的になろうという発想すらない人がほとんどである。そこに問題の根本があるんだよね。
本当の問題は、自分の先入観に自覚的な人間が増えたところで何一つ世の中は良くならないという現実の方だよ。 自覚した人間が他人に譲歩するようになるわけではないからね。
相手のミスを見つけて相手を攻撃するために読解力は必要だね。