主です。ご教授ありがとうございます。私もそれなりに色々見聞きしたり調べたりしたのですが、出自以外の広まりについては結局のところ「よくわからない」が結論となっています。ヨーロッパでもやったりやらなかったり、アメリカのものだという認識だったりで、それがプロテスタントとカトリックの違いなのでしょうか、とにかくアングロサクソン社会でもまちまちという感じのようです。しかし日本においてはヨーロッパ、アフリカ、インドネシアからの影響では無くほぼアメリカからであると思っています。
ただ、私の主張したいのはそこではなく、だったら日本人にはもっと関係の無い行事だろう、という事。もちろん日本人にもキリスト教信者はおられますが、本当のキリスト者にしてみたら寛容に見ても目にあまる光景ではないでしょうか。いい大人が奇異な格好やもはやハロウィンに関係の無い格好、更には裸同然の格好で電車に乗って騒ぐ。クリスマスでも同じく何かと託つけて騒いでますが、もうウンザリです。無宗教だから楽しければいい、モノが売れればいい、そんな空気に耐えられません。
地元での行事が廃れた、とのことですが、それならそれでいいじゃないのでしょうか。自然淘汰されたということです。しかしだからと言ってその換わりにそれこそ「縁もゆかりも無い」ハロウィンでなんとかしよう、という発想になるのだけは避けたいと思いませんか。やる意味がありませんよ。やがて新たに地元に根付いたお祭りが作るか、何もしない。それでいいじゃないですか。それでその地元が生きるか死ぬかは地域に住むその人たち次第です。
かわいそうに、本当に美味しい和菓子を食べたことがないんだな。
というか男女間に限らず同性間でも、いい大人が友達友達言い出したのなんてここ15年くらいなんだよな。その芽は30年くらい前からだけど。それ以前のまっとうな大人は、友達友達言ってなかった。彼らのいう友達は小学校からせいぜい中学校くらいの同級生や近所の子を指していた。高校や大学の同級生さえ友達とは言わないことがほとんどだった。そして大人になるとほとんど場合生活することに追われ、同僚や近所の人、親戚以外とは没交渉になっていった。それがまっとうな大人だと思われていた。
友情なんて言葉は少年ジャンプの中(それも80年代になってからある種の違和感とともに迎えられたが)のものだった。それか国語の教科書の中で、20%の感動と80%の笑いで迎えられた「走れメロス」の中のものだった(もちろん、太宰治がちっとも「まっとうな大人」ではなく、ここにある「友情」もそういう(まっとうでない)ものであることは常識的に知られていた)。
そういう意味でも「いいとも」(あるいは大橋巨泉一味)の功罪は大きい。それでもいいとも初期は、「いい年した大人が『友達』なるものを紹介する」という状況に違和感を持つ人は少なくなかったのだ。
遠回しに目障りって言われてることに気付こうね。