はてなキーワード: 五蘊とは
観自在菩薩は、深い般若波羅蜜多の修行をなさったとき、五蘊がすべて空であると見、一切の苦しみを越えました。
舎利子よ、色は空と異ならない。空は色と異ならない。色は空であり、空は色である。受想行識もまた、それと同じである。
空には何を得ることもない。何を得ることもないから、菩薩は般若波羅蜜多に依り、心が縛られることなく、縛られることがないので、恐怖がなく、顛倒夢想から離れ、究極の涅槃に至る。
三世十方のすべての仏は、般若波羅蜜多に依り、無上正等正覚を得た。だから、般若波羅蜜多は、大いなる神呪であり、大いなる明呪であり、無上呪であり、無等等呪であり、一切の苦しみを取り除くことができる真実の呪である。だから、般若波羅蜜多の呪を説く。その呪とは、次のとおりである。
揭諦、揭諦、波羅揭諦、波羅僧揭諦、菩提薩婆訶。
途中が盛大に省かれてるけど。
ややこしい。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。